先週末にオンラインで開催した「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」では、「泥中(でいちゅう)の蓮」の話をした。
ここで言う「泥中」とは苦しみ(切羽詰った心理状態)のことで、新型コロナの感染拡大によってこれまでのように仕事ができなくなり、金銭的苦境に陥った時も、まさに「泥の中に置かれた状況」と言える。
普通に考えると、このような状況は避けたいものだが、「泥中の蓮」を経験的に知っているなら、心理的な苦しみ(泥中)は、仏性(蓮)が目覚める絶好の機会になり得るので、苦しみが避けるべきものではないことがわかる。
でも、シンキングマインドは、苦しみの中に陥った時、なんとかこの居心地の悪い状況から早く脱出しようと、出口(解決策)を探し、もがき続ける。
そして、皮肉なことに、もがけばもがくほど、泥の中に沈んでしまい、泥から出られなくなる。
では、どうすれば、泥の中から出られるようになるかというと、もがくのを(シンキングマインドを)一旦止めて、苦しみの原因がどのような思い込みから生じているのかを自分で確かめてみる必要がある。(これを仏教用語で「止観」という)
止観すれば、苦しみの原因がわかり、根本的解決に向かうことは確かなのだが、ここで再びシンキングマインドが働き出すと、蓮が咲くことはなく、再び泥の中に沈んでしまう。
シンキングマインドは二元性の次元にあるものだが、蓮が咲くのは泥水の中ではなく、泥水の上で咲くものだからだ。
だから、より正確にいうなら、「泥中の蓮」という表現は誤解を生む可能性がある。
泥中(苦しみの中)に沈む経験なくして、非二元性の意識の目覚めが起こらないことは確かだが、苦しみを生み出しているマインドの次元(泥中)に蓮が咲くことはない。
だから、正確に言うなら、「泥上の蓮」といった方が的確かもしれない。
実際、蓮の花は、泥水に接して咲いているわけではないのだから。
先週末の講座が終わってから、ふと、こんな考えが浮かんできた。
お知らせ
6月27日開催の「渋谷禅」は、会場の都合により、オンライン開催に切り替わりました。
