学習法や記憶法を教えている時には、伝えられる「コンテンツ」がちゃんとあるので、「矢沢先生」と呼ばれても何の違和感も感じない。
Don't think feel.
It's like a finger pointing away to the moon.
Don't concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory.
お知らせ
アウェイクニング(目覚め)を経験した人の多くの悩みは、アウェイクニング前よりも、時に苦しみが複雑化したように感じることだ。
自分がいないことに気づいたのに、再び自分がいるという感覚とともに苦しみが現れる。
この苦しみをどうにか解消したいと思うものの、それを解消できる自分はもういない。
なんとかしようと試みれば、何かをできるような自分がいるという思いや感覚が再強化されてしまう。
このジレンマによって、アウェイクニング後に、以前よりも、いらだちを感じている人は少なくない。
アウェイクニングは、起こるものなので、私がいなくなったり、現れたりする。
でも、リバレーション(解放)は、起こるものではなく、存在そのもので、シンプル極まりない。
今、何が見えていようと、どんな思考や感覚が現れていようと、そのすべてが存在の表現。
無からのほとばしり。
「エンプティネス」と「フルネス」。
この存在の一体性が見られたなら、覚醒後のジレンマは消える。
あるのは、このリバレーション(解放)だけ。
「自己啓発」と「自己実現」。
こうして文字にすると、同じもののように思えるかもしれないが、両者には天と地ほどの違いがある。
自己啓発の「自己」は、あなたが自分だと思い込んでいる「私=個人」のことを意味している。
これに対して、自己実現の「自己」は、あなたが見失っている「本当の自己=Being」のことを意味している。
「自己啓発」は、個人としての自分を啓発すれば、どんな夢も実現できるという、アメリカの新興宗教から生じた思想運動だ。
「自己実現」は、現実化(Realization)しているのは自己(Being)そのものであることを端的に表している。
現実(Reality)を生みだしているのは、自己(Being)であって、個人の私ではない。
それでも、多くの人は、自己啓発を信じて、自分(私)の夢を現実化しようと、個人としての自分を啓発し続け、本当の自己(Being)を見失い続ける。
人は「因果の法則」を信じて、原因(現在)を変えれば、結果(未来)が変わると思い込んでいる。
だから、思考を変えようとしたり、感情を変えようとしたり、行動を変えようとしたり、いろいろ試み続ける。
でも、「思考」「感情」「行動」をどれだけ変えようと試みたところで、いつまでたっても自分の思い描いたような人生にはならず、人は自己改善の探求にくたびれ果てる。
そして、この探求は、リバレーション(解放)が再発見されるまで繰り返される。
リバレーションが再発見されたなら、原因と結果の因果関係などなく、あらゆる出来事がひとりでに生じてきていることに気づける。
何かを変えようとしてきた個人など存在していなかったことが明らかになり、無条件の愛に包まれたフルネス=ワンネスだけになる。
あるのはこのBeingだけ。
お知らせ
スピリチャルや心理学の探求にくたびれた人の多くが、何かをコントロールできるような自分がいないことに目覚めはじめてきています。
アウェイクニング(目覚め)は起こるものですが、リバレーション(解放)はあるものです。
アウェイクニングやリバレーションに興味がある方は、5月のノンデュアリティ・エクスペリエンスに遊びにきてください。
先行割引は、明日3月31日(金)までです。
「あるのは今ここだけ」というストーリーを信じて、もし、あなたが今ここにいようと注意しているなら、あなたはいったい、どこにいて、いつの時点から、「今ここ」へと移行しようとしているのだろう?
自らの尻尾に噛みつこうとして、同じ場所をくるくると回り続けている犬を見かけたなら、あなたはきっと笑うだろう。
動き回ろうが、のんびりしていようが、居場所が変わることはない。
これと同じように、「今ここにいよう」とする思考の試みは、思考の堂々巡りを生みだすだけで、これを試みている限り、非二元(ノンデュアリティ)の目覚めは、ありもしない想像上の「未来」に先送りされてしまう。
非二元(ノンデュアリティ)の話をしていると、時々、「マインドフルネス」と「非二元」の違いについて質問される。
40代の後半、私もヴィパッサナー瞑想のやり方を学び、瞑想を実践していた時期があった。
瞑想には、いろんな方法がある。
呼吸に注意を向けたり、マントラを唱えたり、ヴィパッサナーのように、今、確認できる体の動きをとらえたり…。
どの瞑想であれ、普段から考えごとばかりしてしていて、マインドの動きがなかなか静まらない人にとっては、瞑想はとても役立つ。
短時間の瞑想で、リラックスした気分になれたり、脳波がシータ波に変わったり、時にはトランス状態を経験できたりする。
そして、マインドフルネスは、瞑想が現実逃避のための道具にならないよう注意を促している。
瞑想であれ、ヨガであれ、その行い自体が気持ちよくて、日常生活の役に立っているなら、どんどん続ければいい。
でも、瞑想について私に質問する人は、「これからもっと熱心に瞑想に取り組み、この道を突き進めば、その先に非二元の目覚めが待っているか?」というニュアンスで聞いているケースが多い。
もし、非二元の目覚めが未来に起こるものと期待して、そうなるための手段として瞑想を行おうとしているなら、瞑想は苦行となり、あなたは修行者(ハードプラクティショナー)になってしまうだろう。
なぜなら、瞑想をやっている間、意識の「注意」は、観察対象となる思考や呼吸に向かうので、観察者の「私」と「対象」の分離が起きてしまうからだ。
これは脳の機能として避けられないことなのだが、対象に意識の注意が向いている限り、私たちは存在の非二元性(ワンネス)を見失ってしまう。
だから、非二元の「目覚め」に、瞑想は必要ない。
もし、「目覚め」を目指して、瞑想を行おうとしているなら、それをやろうとしているのは「自分」なので、瞑想をやり続けている限り、何かを達成できるような「自分(主体者)」が存在しているという二元性(分離)の思い込みが強化されてしまう。
しかし、このメッセージが届き、非二元の目覚めが起きたなら、どこかに至りつかなければ心が満たされることはないと思い込み、せわしなく動き続けていたマインドもろとも「私」は消える。
非二元の目覚めとは、「マインドフルネス」ではなく、マインドの崩壊。
「フォーゲットフルネス」。
でも、このフォーゲット(忘却)は、認知症になって、以前のことを忘れてしまう忘却とは違う。
毎日、どこに出かけようと、ちゃんと自宅に帰ってこれるし、こんなふうに言葉を使って文章を書くことだってできる。
でも、この文章を書いているのは、「私」ではない。
何を書こうかと考える努力なく、指が勝手に動いて文章が出来上がっていく。
未来をどうしようかと、思い悩むマインドの出番はない。
あなたも、このように思考するようにしたら、自分の思いが現実化するようになる。
「自己啓発」「成功哲学」「引き寄せの法則」などの本を読めば、このようなことが書かれていて、不完全さを感じている私たちのマインドは、「願いが叶う」という言葉に、強烈に魅了されてしまう。
そして、今度こそ、自分の夢や思いを叶えようと、人は、自分の考え方や思考を変えようと努力しはじめる。
その努力によってうまくいったように思えることもあるかもしれない。
逆に、本当に望んでいることがいまだに実現されず、焦りを感じているかもしれない。
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