今夜は、兵庫の男性と電話で非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。
「時間が存在していないとはどういうこと?」という質問が出て、「未来、現在、過去」という時間は、個人の私がいるうちはあるようにしか思えないけど、非二元の目覚めが起きたなら、誕生から死までの時間内を生きていると思っていた自分がいなくなり、時間もないことが見抜かれてしまうことを伝えた。
そして、時間と同じように、あると思っていた距離も存在していなくて、私たちは今、兵庫と東京に別々に存在している個人だと思い込んでいるけれど、実際には「兵庫」や「東京」という位置も距離も存在しておらず、今こうして距離をまったく感じることなく話せている「現実」のワンネス性を確認しあって、楽しいセッションを終えた。
お知らせ
人(マインド)は死を恐れる。
その恐れをやわらげようと、宗教やスピリチュアルは、死後の物語を語る。
マインドは、時間が存在していると思い込んでいるので、死んだ後、どうなるかを聞きたがる。
宗教やスピリチュアルは、そのマインドの疑問に応えてきた。
宗教家やスピリチュアルのティーチャーから、死がない事実が明かされることはまずない。
非二元に目覚め、死がないことが認識されてしまったら、葬式仏教が成り立たなくなってしまう。
しかし、禅師は、公案を使ってマインドを停止させ、死のない「存在」のシンプルさを指し示してきた。
「片手で打った手の音は、どんな音か?」
この公案は、確かにマインドを混乱させる。
それでもマインドは、その答を知ろうと、まるでクイズを解くように考えだす。
これではマインドが落ちるどころか、逆にマインドが活気づく。
死のない「存在」を指し示すのに、トンチはいらない。
「これが、それ」と指差せば、それは見られる。
それでも、マインドは、「これがなんだっていうんだ。私が見たいのはこれじゃない」といいながら、「生」を見失い、見えない何かを探し続ける。
私は30数年前、釣船の船頭をやっていました。
海に浮かぶ船を操縦して、釣り人を魚が釣れるポイントまで運ぶのが、船頭の仕事。
その船を操縦しているのは、当然、私自身だと思っていました。
これと同じように、社会という海原の中で、自分をうまく操縦(コントロール)し(時には他人までコントロールして)、幸福になるのが人生の目的で、そこに至りつけるかどうかは、自分の操縦にかかっていると、50歳になるまで、ずっと思いこんでいました。
船を操縦するのは、それなりにこなせましたが、人生の操縦となると、まったくもってうまくいきませんでした。
30代で癌になり、40代で家族との関係もおかしくなりました。
なぜ、こうなってしまうのか?
どうすれば、うまくいくのか?
私は何をわかっていないのか?
それを知りたくて、私の探求は始まりました。
しかし、何を学び、何を知ったところで、私は自分の人生を思うようにコントロールすることはできませんでした。
そして、ある日、自分に何が起こっているのかを、克明に言いあらわしてくれている一冊の本に出会いました。
「海と、海に浮かんでいる船があるだけで、その船を操縦している操縦者はいない」。
もちろん、この通りに書いてあったわけではありませんが、生(海)と肉体(船)が分離して存在していない事実を、ラメッシ・バルセカールは伝えてくれていました。
肉体(船)を操縦している者は誰もいない。
それでも生(海)の動きに合わせて肉体(船)は動く。
これを知ってから、操縦者だと思っていた私は脱落し、生(海)そのものだったことを思い出すことができました。
操縦者である私がいなくなり、生だけになると、奇跡というものが、時々起こるものではなく、常にあるものであることが認識できるようになりました。
そして、私はいま、その生の一体性(ワンネス)を伝えています。
一つの海に浮かぶ、色とりどりの船に向かって、船の中に操縦者がいないことを。
ワンネスだけがあることを伝えています。
お知らせ
人生の操縦が思うようにいかないのは、生(海)が操縦者がいないことを知らせてくれているからです。生との一体性を感じていきたい方は、非二元のプライベートセッションをお受けください。
今日は茨城の女性と非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。
私がよくブログに書いている「生のフレッシュさ」を感じたいという要望だったので、自分が何かを見たり、聞いたり、経験したりしているのではなく、ワンネスの生の感覚がダイレクトに現れているのを実感できるようガイドした。
また、すごく説得力があり、誰もが信じていることだが、「自律して生きられる」ような分離した個人がいない現実についても明らかにしていった。
「これまで自分が決断してやってきたと思っていたことは、思考の中のつくり話だったんですね。今、その緊張感が溶けて、凄くラクになりました」といいながら、彼女は最後に、死について訊ねた。
死は、私が存在しているという二元性の物語の終わりであり、物語が消えると、今、感じているこの解放だけが残される。
だから、たとえ癌になって、闘病の苦しみが起こったとしても、その二元性のあれやこれやの苦しみ、闘い、心配は、死によって終わる。
そういう意味で、死は、「苦しんでいる自分がいる」という悪夢からの解放だ。
私がいるという夢が消えれば、ここにあるのは、解放。
ワンネスの生だけ。
解放が死によってもたらされるか、それとも生きているうちに非二元性に目覚めて解放されるかは、誰にもわからない。
そして、ここで話しているのは、このどちらが良いか悪いかという話をしているのではない。
リアルに存在しているのは、個人の苦しみの物語ではなく、この解放、このワンネスの生。
この生を所有できるような個人は初めからどこにもいない。
それを伝えて、セッションを終えた。
