非二元(ノンデュアリティ)の翻訳本が増えるにつれ、「伝統的アドヴァイタ」と「ネオアドヴァイタ」の違いは、なんなのか?という質問が増えてきた。
「アドヴァイタ」とは、非二元のことで、「伝統的アドヴァイタ」も「ネオアドヴァイタ」も、リバレーション(解放)があるだけで、これとは別に「個人の私」が存在していないことを指摘している。
ただ、両者の違いは、個人の私がいなくなるのに、なんらかのアプローチ方法が、あり得るかどうかの点で異なる。
でも、今日、私が指摘しておきたいのは、この両者の違いではなく、この両者と「スードゥ・アドヴァイタ」と呼ばれるエセ非二元との違いについてだ。
エセ非二元とは、非二元の本で「私がいない」というメッセージを読み、マインドが理解した「非二元論」のことだ。
内容的には、非二元っぽいことを語っているものの、それはマインドの理解によるものなので、全体と一つになろうとしている「私がいる」ことが、言葉の隅々に出てきてしまっている。
「私がいないこと」を私はわかっている。
マインドはそう言いながら、私がいないことをわかっている「私」を存続させている。
これが、マインドの巧妙さだ。
エセ非二元を語っているのは、マインドであり、その言葉はマインドを活気づけることはあっても、リバレーションは起きない。
そして、今、ネットで「非二元」「ノンデュアリティ」を検索すれば、マインドの理解によって非二元をわかった気にさせる、日本語によるスードゥ・アドヴァイタのメッセージがたくさん見つかる。
リバレーション(解放)が起こり、私がいなくなると、日常生活が困難にならないか?
非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやっていて、徐々に私がいないことに気づきはじめると、多くの人がこんな疑問を感じはじめます。
・このままセッションが進んで私がいなくなってしまうと、今までのように仕事ができなくなり、生活が困難にならないか?
・健康管理する自分がいなくなったら、体の調子が悪くならないか?
なぜ、このような疑問や恐れが生じるかというと、「私」が自分の仕事を選び、「私」がお金を稼いできた。
「私」が自分の体を管理し、自分の健康を保ってきた。
だから、その管理者がいなくなれば、たちまちあらゆることが混乱しはじめ、制御不能になってしまう。
というストーリーを、マインドがつくりだしてきたからです。
でも、実際にリバレーション(解放)が起きて、私がいなくなっても、日常生活が破綻したり、突然、病気になったりすることはありません。
仕事もこれまで通り起こりますし、収入も途絶えませんし、毎日の食事や飲酒も入浴や歯磨きも、変わらず続きます。
何が変わるかというと、これまで、これらのことをやってきたのは「自分だ」という認識が落ち、将来に対する不安や心配がなくなります。
今、やっていることをうまくやらないと、将来が大変なことになる、という緊張が解けます。
体や仕事やお金だけでなく、あらゆるものが、自然に現れ出てきていること。
これらをコントロールできるような個人は存在しておらず、条件なく自然に動いている生=リバレーションだけがあることがわかるようになります。
でも、これを知るのは、エンライトメント(悟り)を求めて、スピリチュアルのティーチャーのもとに通い、探求を続けてきた「私」ではありません。
リバレーションは、個人が至りつける到達地点ではありません。
リバレーションが起これば、もうここには、個人の努力で、仕事やお金や体や来世や現生をより良いものにしようと悪戦苦闘していた「私」はいません。
生の自由さ=リバレーションだけがあったことが、それ自身によって明かされます。
最近、「思考を観察する瞑想は、非二元の役に立つか?」と質問されることが増えたので、今日はそれについて書いてみる。
非二元(ノンデュアリティ)は、何かの修行や信仰によって至りつける境地(例えば、悟り)でもなければ、知らなかった知識をプラスすることでわかるようになる哲学でもない。
非二元は、「存在そのもの」で、ここに至り着ける者は誰もいない。
「存在」から切り離れて単独で存在している「個人」など、そもそも存在していないからだ。
もし、あなたが瞑想をすることで、「非二元」に至りつこうと努力しているなら、瞑想している間に、存在が隠れる。
なぜなら、瞑想をしている間、「思考」に焦点があたり続け、全体性が見失われるからだ。
さらに、細かいことをいえば、「思考」とそれを観察(観照)している「観察者」が存在するという分離感を強化することにもなる。
「次々に現れ出てくる思考を観察できる観察者がいる」というこの考えそのものも、次々に現れでてくる「思考」の一つに過ぎない。
思考は自然に現れ、自然に消えるもの。
そして、瞑想を行うか、行わないかを決められるような「選択者」もいなければ「実行者」もいない。
今、瞑想が起きているなら、それは自然に起きている。
見かけ上、瞑想をしている人がいるように見えても、それを実行している個人は存在していない。
今、現実に瞑想が起こっているなら、それが生の現れ。
今、現実に飲酒が起こっているなら、それが生の現れ。
どちらも等しく、既に非二元。
非二元は、目指すものではない。
既に在るもの。
生の動きそのもの。
お知らせ
一昨日、いつもモスバーガーで受験勉強をしていた女子高生と、久々に会った。
私大の入試が始まって以来、彼女をモスバーガーで見かけることがなくなったのだが、一昨日、近所のショッピングモール内で、彼女とバッタリ出くわし、「こんばんは」と挨拶すると、「慶應の総合政策と文学部の合格が出たんですよ」とうれしそうに教えてくれた。
センター試験の点数だけで、9割以上の点数を取り、一般入試が始まる前に、中央大と青学から合格をもらっていたので、「これで余裕をもって、本命の慶應を受験できる」と、彼女は一般入試の前に語っていた。
そして、その言葉通り、彼女は、気持ちに余裕をもって、慶應を受験できて、2学部からの合格を得た。
私は、この一年以上、ほぼ毎日、モスバーガーにいたので、彼女が毎日、どれだけ地道に勉強をやりつづけていたのかを知っている。
その粘り強い姿勢に心を打たれ、ある日、私は彼女に、「覚えられなくて困っている事は何かある?」と声をかけ、世界史を覚えられなくて困っていると応えたので、情報整理術の本を彼女にプレゼントした。
不思議なもので、人はひたむきに何かに打ち込んでいる人の姿を見ると、放っておけなくなり、応援したくなる性質のようなものが備わっているようだ。
「今は、受験の直前だから、この本を全部読み切ったら時間を取られすぎるので、必要なところだけ読んで参考にしてみてね」と声をかけて本を渡したのだが、数日後に彼女に会うと、「一日で全部読みました。覚えられなかったことをイメージにしてみると、すんなり覚えられるようになりました」と、彼女はあっけらかんと応えて、私をおとろかせた。
まさに、スーパー女子高生。
彼女は、この春からどんな女子大生になるんだろう?
大学生になったら、もうモスバーガーにはあまりこなくなるんだろうな。
そう思うと少し寂しい気がするが、私は今日も変わらず、モスバーガーにきて、いつものようにブログを書いている。
お知らせ
3月12日(日)開催の
覚える努力なく「英語脳」と「ビジネス脳」をつくれる学習ストラテジー講座の
残席がわずかになりました。
詳細・お申し込みはこちらから
昨日の「ノンデュアリティ・エクスペリエンス」には、はるばる沖縄から来てくれた人もいて、非二元の広がりをあらためて実感できた。
「 非二元とは何か?」を理解するための講座ではなく、非二元の話を聞いたり、ワークを行っていくうちに、「何かを理解しよう、何かを得よう」としていた私が脱落して、空っぽになっていく講座。
得るものが何もない、まったく無益な講座。
あるのは、この空っぽさと、現れとしての色。
空即是色。色即是空。
このシンプルさを直接感じたくて、人は「私」を落としに、「距離」「時間」という概念を超えて、ここにやってくるのかもしれない。
お知らせ
ノンデュアリティ・エクスペリエンスのフォローアップ講座は、4月23日(日)に開催します。
テーマは、「TRUE LIFE」で、仕事もお金も、自然に現れ、チェンジしているエネルギーの動きである ことなどを語ろうと思っています。
http://goo.gl/FONzFl