非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -40ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

今日は、福島の男性と非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。
「生きている感覚をあまり感じられない」という理由で、福島から東京までセッションを受けにきてくれた。

ちょうどコーヒーを飲みながらのセッションだったので、このコーヒーの味も生の現れそのものであることを確認してもらった。

「私が生きていた」のではなく、生きていたのは「生そのもの」だった。

この気づきが起きた瞬間、彼が感じていた苦しみは、あっけなく消滅してしまった。

彼は、ここにくるまで、スピリチュアルの先生から「瞑想をしなさい」「ハイアーセルフとつながりなさい」と指導されていたにもかかわらず、それができずに苦しんでいた。
できない自分を責めていた。

スピリチュアルのティーチャーは、まるで
「瞑想するか、しないかを決められる個人がいる」という前提で、こんなことを言う。

でも、瞑想できようができまいが、それはやっているのは自分だと思い込んでいる限り、人は牢獄(相対の法則)のなかにつなぎとめられる。
そこからの解放、悟りを求めながらも、逆説的に「自分がいる」という夢を見続けることになる。

非二元であれ、瞑想であれ、ヨガであれ、ここにない何かを得よう、どこかに辿りつこうと、奮闘努力している私がいる限り、「生きているのは私」という白昼夢は続く。

でも、生きているのは、生そのもの。

この生から分離して存在しているものなど何もない。
これが非二元(ノンデュアリティ)。

お知らせ
スピリチュアルや自己啓発、心理学を探求し続けても、生きづらさが続いている方は、非二元のプライベートセッションをお受けください。
まだ、「個人の私が存在している」という夢を見ていた頃、私は、「自分の人生をより良いものにするのが、自分の役割だ」と思い込み、様々な努力を重ねてきた。

しかし、努力によって獲得できたと思われたもの、築き上げられたと思われたことは、ものの見事に失われていった。

なぜ、こうなってしまうのか?
私にはまったく理解できなかった。

そして、私はスピリチュアルを探求しだした。

それでも、なぜ、こうなるのかについて、納得できるメッセージには出会えなかった。

しかし、私はある日、自分と同じような経験をして、それがどういうことなのかを、宗教色をまったく匂わすことなく、ストレートに語っている非二元(ノンデュアリティ)のメッセージに出会えた。

「個人がいる」という夢の中では、「相対の法則」が働いているので、プラスとマイナスは、寸分の狂いもなく相殺される。

このメッセージにふれた瞬間、「やっと自分と同じ疑問を持っていた人を見つけられた」と私は安堵した。
そして、非二元のメッセージにふれるにつれ、休む暇なく上映され続けていた「人生」と呼ばれる夢ドラマが、かすれていった。

わかる必要がある何かがあり、それがわかるまで私の人生は良くならない。

そう思い込んでいた私もろとも、人生ドラマの映像はかすれ、そのドラマにリアリティを与えていた「光」が、光のまま見えるようになった。

人生ドラマにリアリティを感じている間は、ドラマの内容に引き込まれ、人は、限られた人生という時間の中で、何かを成し遂げようとする。

しかし、それは相対の法則によって相殺され、人は失望する。

でも、この失望は、何かができるような個人の自分がいないことを、明かすものでもある。

人生には目的はない。

でも、一つあるとするなら、人生という夢から目覚めて、生きている「生」そのものに気づくこと。

そして、この生は、あなたが夢を見ている間も、隠れることなく、発見されようと、あなたを誘い続けている。

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スピリチュアルや自己啓発、心理学を探求し続けても、生きづらさが続いている方は、非二元のプライベートセッションをお受けください。

非二元(ノンデュアリティ)の翻訳本が増えるにつれ、「伝統的アドヴァイタ」と「ネオアドヴァイタ」の違いは、なんなのか?という質問が増えてきた。

 

「アドヴァイタ」とは、非二元のことで、「伝統的アドヴァイタ」も「ネオアドヴァイタ」も、リバレーション(解放)があるだけで、これとは別に「個人の私」が存在していないことを指摘している。

 

ただ、両者の違いは、個人の私がいなくなるのに、なんらかのアプローチ方法が、あり得るかどうかの点で異なる。

 

でも、今日、私が指摘しておきたいのは、この両者の違いではなく、この両者と「スードゥ・アドヴァイタ」と呼ばれるエセ非二元との違いについてだ。

 

エセ非二元とは、非二元の本で「私がいない」というメッセージを読み、マインドが理解した「非二元論」のことだ。

 

内容的には、非二元っぽいことを語っているものの、それはマインドの理解によるものなので、全体と一つになろうとしている「私がいる」ことが、言葉の隅々に出てきてしまっている。

 

「私がいないこと」を私はわかっている。

 

マインドはそう言いながら、私がいないことをわかっている「私」を存続させている。

 

これが、マインドの巧妙さだ。

 

エセ非二元を語っているのは、マインドであり、その言葉はマインドを活気づけることはあっても、リバレーションは起きない。

 

そして、今、ネットで「非二元」「ノンデュアリティ」を検索すれば、マインドの理解によって非二元をわかった気にさせる、日本語によるスードゥ・アドヴァイタのメッセージがたくさん見つかる。

 
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リバレーション(解放)が起こり、私がいなくなると、日常生活が困難にならないか?

 

非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやっていて、徐々に私がいないことに気づきはじめると、多くの人がこんな疑問を感じはじめます。

・このままセッションが進んで私がいなくなってしまうと、今までのように仕事ができなくなり、生活が困難にならないか?

・健康管理する自分がいなくなったら、体の調子が悪くならないか?

 

なぜ、このような疑問や恐れが生じるかというと、「私」が自分の仕事を選び、「私」がお金を稼いできた。

「私」が自分の体を管理し、自分の健康を保ってきた。

だから、その管理者がいなくなれば、たちまちあらゆることが混乱しはじめ、制御不能になってしまう。

というストーリーを、マインドがつくりだしてきたからです。

 

でも、実際にリバレーション(解放)が起きて、私がいなくなっても、日常生活が破綻したり、突然、病気になったりすることはありません。

 

仕事もこれまで通り起こりますし、収入も途絶えませんし、毎日の食事や飲酒も入浴や歯磨きも、変わらず続きます。

 

何が変わるかというと、これまで、これらのことをやってきたのは「自分だ」という認識が落ち、将来に対する不安や心配がなくなります。

今、やっていることをうまくやらないと、将来が大変なことになる、という緊張が解けます。

 

体や仕事やお金だけでなく、あらゆるものが、自然に現れ出てきていること。

これらをコントロールできるような個人は存在しておらず、条件なく自然に動いている生=リバレーションだけがあることがわかるようになります。

 

でも、これを知るのは、エンライトメント(悟り)を求めて、スピリチュアルのティーチャーのもとに通い、探求を続けてきた「私」ではありません。

 

リバレーションは、個人が至りつける到達地点ではありません。

 

リバレーションが起これば、もうここには、個人の努力で、仕事やお金や体や来世や現生をより良いものにしようと悪戦苦闘していた「私」はいません。

 

生の自由さ=リバレーションだけがあったことが、それ自身によって明かされます。

 
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最近、「思考を観察する瞑想は、非二元の役に立つか?」と質問されることが増えたので、今日はそれについて書いてみる。

 

非二元(ノンデュアリティ)は、何かの修行や信仰によって至りつける境地(例えば、悟り)でもなければ、知らなかった知識をプラスすることでわかるようになる哲学でもない。

 

非二元は、「存在そのもの」で、ここに至り着ける者は誰もいない。

「存在」から切り離れて単独で存在している「個人」など、そもそも存在していないからだ。

 

もし、あなたが瞑想をすることで、「非二元」に至りつこうと努力しているなら、瞑想している間に、存在が隠れる。

 

なぜなら、瞑想をしている間、「思考」に焦点があたり続け、全体性が見失われるからだ。

 

さらに、細かいことをいえば、「思考」とそれを観察(観照)している「観察者」が存在するという分離感を強化することにもなる。

 

「次々に現れ出てくる思考を観察できる観察者がいる」というこの考えそのものも、次々に現れでてくる「思考」の一つに過ぎない。

 

思考は自然に現れ、自然に消えるもの。

 

そして、瞑想を行うか、行わないかを決められるような「選択者」もいなければ「実行者」もいない。

 

今、瞑想が起きているなら、それは自然に起きている。

見かけ上、瞑想をしている人がいるように見えても、それを実行している個人は存在していない。

 

今、現実に瞑想が起こっているなら、それが生の現れ。

今、現実に飲酒が起こっているなら、それが生の現れ。

 

どちらも等しく、既に非二元。

非二元は、目指すものではない。

 

既に在るもの。

生の動きそのもの。

 

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非二元の感覚を直接感じてみたい方は、プライベートセッションをお受けください。
「宗教、スピリチュアルと、非二元(ノンデュアリティ)の違いはなんですか?」という質問がきたので、今日はその違いについて書きます。

宗教やスピリチュアルは、「マインド」のためにあります。

マインドは、時間、空間、因果関係のある世界にあるものですから、「自分は、死んだらどうなるのか?」とか、「私は何のために生まれてきたのか?」とか、常に「なぜ?なぜ?」と考えてばかりいます。

その意味や理由や目的が見つかるまで、マインドは落ち着けません。

このマインドの「なぜ?」に答えてきたのが、宗教であり、スピリチュアルです。

マインドが納得できるような壮大な「ストーリー」を語れなければ、その宗教、スピリチュアルは存続できません。

宗教、スピリチュアルとは、マインドを癒し、喜ばせるためのものであり、そのためには、話をどこまでデコレーションしてエンターテイメント性を出せるかが重要な鍵になります。

なぜなら、マインドは、ラ・ラ・ランド(おとぎの国)の住人であり、自分を喜ばせてくれるエンターテイメント性に富んだストーリーを好むからです。

マインドは、自分にとってしっくりくるストーリーが見つかると、それに魅了され、一時的に疑問がなくなるので、しばらく落ち着きます。

どのストーリー(宗教)に魅了されるかは、人によって異なります。

また、あるストーリーに魅了されても、それ以上に魅惑的な別のストーリー(例えば、引き寄せの法則)が現れれば、たちまちマインドはそれに飛びつきます。

そして、信じているストーリーがお互いに異なれば、どちらが正しいかという対立や戦争まで起きます。

でも、どんなにもっともらしく思えるストーリーも、それはマインドがマインドそのものを満たすためにつくりだしたストーリーに過ぎません。

宗教やスピリチュアルは、マインドを満たすためのストーリーを生み出すために言葉を継ぎ足し、どんどん複雑化していきます。

これに対して、非二元は、マインドのストーリーによって覆い隠されてしまった「存在」のシンプルさをあらわにするものです。

マインドは、自らを満たしてくれるストーリーばかり追いかけていますから、マインドには、自然に動いている生のシンプルさがわかりません。

現れ出てきている生には、時間の前後関係もなければ、因果関係もストーリー性もないからです。

生は、マインドが知りたがっているような意味も理由も目的も必要とせず、自由に動いています。

人は生の流れを自分の思うようにコントロールしたがりますが、実際に現れている生を所有し、コントロールできるような個人はどこにも存在していません。

自由に変化する生が、ただあるだけ。
このシンプルさを指摘しているのが、非二元です。

マインドは、意味や理由や目的を求めて、なぜ、なぜ?を繰り返し、自分の納得のいくストーリーを求めて、どんどん複雑性を増していきますが、非二元の目覚めが起きたなら、答えを知りたがっていた個人はいなくなり、リアルに存在しているワンネスの生の動きだけがシンプルに見えるようになります。

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一昨日、いつもモスバーガーで受験勉強をしていた女子高生と、久々に会った。

 

私大の入試が始まって以来、彼女をモスバーガーで見かけることがなくなったのだが、一昨日、近所のショッピングモール内で、彼女とバッタリ出くわし、「こんばんは」と挨拶すると、「慶應の総合政策と文学部の合格が出たんですよ」とうれしそうに教えてくれた。

 

センター試験の点数だけで、9割以上の点数を取り、一般入試が始まる前に、中央大と青学から合格をもらっていたので、「これで余裕をもって、本命の慶應を受験できる」と、彼女は一般入試の前に語っていた。

 

そして、その言葉通り、彼女は、気持ちに余裕をもって、慶應を受験できて、2学部からの合格を得た。

 

私は、この一年以上、ほぼ毎日、モスバーガーにいたので、彼女が毎日、どれだけ地道に勉強をやりつづけていたのかを知っている。

 

その粘り強い姿勢に心を打たれ、ある日、私は彼女に、「覚えられなくて困っている事は何かある?」と声をかけ、世界史を覚えられなくて困っていると応えたので、情報整理術の本を彼女にプレゼントした。

 

不思議なもので、人はひたむきに何かに打ち込んでいる人の姿を見ると、放っておけなくなり、応援したくなる性質のようなものが備わっているようだ。

 

「今は、受験の直前だから、この本を全部読み切ったら時間を取られすぎるので、必要なところだけ読んで参考にしてみてね」と声をかけて本を渡したのだが、数日後に彼女に会うと、「一日で全部読みました。覚えられなかったことをイメージにしてみると、すんなり覚えられるようになりました」と、彼女はあっけらかんと応えて、私をおとろかせた。

 

まさに、スーパー女子高生。

 

彼女は、この春からどんな女子大生になるんだろう?

大学生になったら、もうモスバーガーにはあまりこなくなるんだろうな。

そう思うと少し寂しい気がするが、私は今日も変わらず、モスバーガーにきて、いつものようにブログを書いている。

 

お知らせ

3月12日(日)開催の

覚える努力なく「英語脳」と「ビジネス脳」をつくれる学習ストラテジー講座の

残席がわずかになりました。

詳細・お申し込みはこちらから

昨日の「ノンデュアリティ・エクスペリエンス」には、はるばる沖縄から来てくれた人もいて、非二元の広がりをあらためて実感できた。


「 非二元とは何か?」を理解するための講座ではなく、非二元の話を聞いたり、ワークを行っていくうちに、「何かを理解しよう、何かを得よう」としていた私が脱落して、空っぽになっていく講座。
 得るものが何もない、まったく無益な講座。

 

あるのは、この空っぽさと、現れとしての色。
 空即是色。色即是空。

 

このシンプルさを直接感じたくて、人は「私」を落としに、「距離」「時間」という概念を超えて、ここにやってくるのかもしれない。


お知らせ
 ノンデュアリティ・エクスペリエンスのフォローアップ講座は、4月23日(日)に開催します。
テーマは、「TRUE LIFE」で、仕事もお金も、自然に現れ、チェンジしているエネルギーの動きであることなどを語ろうと思っています。
http://goo.gl/FONzFl

非二元(ノンデュアリティ)に目覚めると、日常生活はどう変わるんですか?と、よく質問されるので、今日は、それについて思いついたことを列挙してみる。

・五感の感受性が鋭敏になり、食べ物がおいしく、人や花や風景の色彩が鮮やかに感じられるようになった。

・自分の選択、決断によって、人生の良し悪しが決まる、という岐路(Y字に分かれたどちらの道に進むか)に立っているのではなく、今、道の上を歩んでいるか外れているかを、身体的に感じながら、伸び伸び生きられるようになった

・綿密に計画を立てて実行すれば必ず結果が出る、という結果重視の幻想から抜け出し、日々、生きる力を発揮し得ている歓びを感じながら、毎日を暮らせるようになった。

・「こうあるべき」という条件(押し付け)がなくなった。

・お金の使い方が変わり、お金を得るために働く(お金に使われる)ことがなくなった。

・誰とでも仲良くしなければいけない、という無理難題から解放された。

・喜びや悲しみの感情が何を表しているかがわかるようになり、ありのままに感じられるようになった。

・イラだったり、責めたくなるような自分や他人がいなくなった。

こうして変わったと思うことを言葉で表現してみると、感じている「感覚」そのものは「言葉」じゃないし、これを言葉で伝えるのは不可能なことだけど、非二元の目覚めは、これらの言葉を超えて、気持ちいい。

お知らせ
非二元の感覚を直接感じてみたい方は、プライベートセッションをお受けください。
今日、高2の息子が、「大学に行く意味があるんだろうか?」と言いだした。

息子は将来、自分が心地いいと思う「洋服と音楽とカフェ」を融合させた店をやりたいと考えているらしく、それを実現するために、大金を支払ってまで大学に行く必要があるのかと考え始めたらしい。

そこで、私は、最近、知り合った30代の男性の話をした。
彼の夢は、将来、古着屋をオープンさせることで、その開店資金を稼ぐために、今、2つのバイトを掛け持ちしている。

そのトータルの労働時間は、1日14時間を超えている。
彼は、毎日、自分は今、「古着屋の開店に向けて働いている」と思いながら仕事をしている。
これが、マインドによる描写だ。

でも、実際に起きているのは、そういうことではない。
現実に起こっているのは、昼と夜の「仕事」であり、「古着屋のオープン」ではない。

しかし、マインドは、「古着屋のオープン」の夢を見つづけている。
彼は、La-La-Land(おとぎ話)の住人だ。
彼は、毎日、14時間も働いているが、その夢によって現実が隠され、実際に目の前に現れているお客さんが見えない。
そして、こちらが聞いてもいないのに、自分の夢物語を語り続け、お客さんをうんざりさせている。

この話をしても、高2の息子は、将来、カフェをやるためには、今からどんな準備をすればいいか、そのための資金をどう貯めればいいかを考えていた。

「自分で未来を考え、その答えを見つけなければ、路頭に迷う」。
マインドが仕掛けるこの恐怖の分離ゲームは自然に起きる。

そして、人は、このゲームの中で、自分は生き伸びるために何かを得なければならない存在、どこかに到達しなければならない存在と思い込み、疲れ果てていく。
でも、これはマインドによる、おとぎ話にすぎない。

現実に存在する「生」は常に完璧で、これに不足はない。

追伸
日々、起こることは、考えていることをはるかに超えます。
「お金も、考えたからつくれるものじゃなくて、自然に現れるものなんだよ」と今日、息子に伝えたのですが、「そんなわけないだろう」と息子は信じませんでした。
「お父さんだって、若い頃は、そう思って必死に考えてたよ」と伝えて終わりましたが、この会話の内容とは別に、緊張がゆるんでいくエネルギーの変化が起きていました。

今週末のノンデュアリティ・エクスペリエンスは、満席になりました。
非二元に興味のある方は、プライベートセッションをお受けください。