最近、「思考を観察する瞑想は、非二元の役に立つか?」と質問されることが増えたので、今日はそれについて書いてみる。
非二元(ノンデュアリティ)は、何かの修行や信仰によって至りつける境地(例えば、悟り)でもなければ、知らなかった知識をプラスすることでわかるようになる哲学でもない。
非二元は、「存在そのもの」で、ここに至り着ける者は誰もいない。
「存在」から切り離れて単独で存在している「個人」など、そもそも存在していないからだ。
もし、あなたが瞑想をすることで、「非二元」に至りつこうと努力しているなら、瞑想している間に、存在が隠れる。
なぜなら、瞑想をしている間、「思考」に焦点があたり続け、全体性が見失われるからだ。
さらに、細かいことをいえば、「思考」とそれを観察(観照)している「観察者」が存在するという分離感を強化することにもなる。
「次々に現れ出てくる思考を観察できる観察者がいる」というこの考えそのものも、次々に現れでてくる「思考」の一つに過ぎない。
思考は自然に現れ、自然に消えるもの。
そして、瞑想を行うか、行わないかを決められるような「選択者」もいなければ「実行者」もいない。
今、瞑想が起きているなら、それは自然に起きている。
見かけ上、瞑想をしている人がいるように見えても、それを実行している個人は存在していない。
今、現実に瞑想が起こっているなら、それが生の現れ。
今、現実に飲酒が起こっているなら、それが生の現れ。
どちらも等しく、既に非二元。
非二元は、目指すものではない。
既に在るもの。
生の動きそのもの。