非二元(ノンデュアリティ)の翻訳本が増えるにつれ、「伝統的アドヴァイタ」と「ネオアドヴァイタ」の違いは、なんなのか?という質問が増えてきた。
「アドヴァイタ」とは、非二元のことで、「伝統的アドヴァイタ」も「ネオアドヴァイタ」も、リバレーション(解放)があるだけで、これとは別に「個人の私」が存在していないことを指摘している。
ただ、両者の違いは、個人の私がいなくなるのに、なんらかのアプローチ方法が、あり得るかどうかの点で異なる。
でも、今日、私が指摘しておきたいのは、この両者の違いではなく、この両者と「スードゥ・アドヴァイタ」と呼ばれるエセ非二元との違いについてだ。
エセ非二元とは、非二元の本で「私がいない」というメッセージを読み、マインドが理解した「非二元論」のことだ。
内容的には、非二元っぽいことを語っているものの、それはマインドの理解によるものなので、全体と一つになろうとしている「私がいる」ことが、言葉の隅々に出てきてしまっている。
「私がいないこと」を私はわかっている。
マインドはそう言いながら、私がいないことをわかっている「私」を存続させている。
これが、マインドの巧妙さだ。
エセ非二元を語っているのは、マインドであり、その言葉はマインドを活気づけることはあっても、リバレーションは起きない。
そして、今、ネットで「非二元」「ノンデュアリティ」を検索すれば、マインドの理解によって非二元をわかった気にさせる、日本語によるスードゥ・アドヴァイタのメッセージがたくさん見つかる。
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