非二元(ノンデュアリティ)の話をしていると、時々、「マインドフルネス」と「非二元」の違いについて質問される。
40代の後半、私もヴィパッサナー瞑想のやり方を学び、瞑想を実践していた時期があった。
瞑想には、いろんな方法がある。
呼吸に注意を向けたり、マントラを唱えたり、ヴィパッサナーのように、今、確認できる体の動きをとらえたり…。
どの瞑想であれ、普段から考えごとばかりしてしていて、マインドの動きがなかなか静まらない人にとっては、瞑想はとても役立つ。
短時間の瞑想で、リラックスした気分になれたり、脳波がシータ波に変わったり、時にはトランス状態を経験できたりする。
そして、マインドフルネスは、瞑想が現実逃避のための道具にならないよう注意を促している。
瞑想であれ、ヨガであれ、その行い自体が気持ちよくて、日常生活の役に立っているなら、どんどん続ければいい。
でも、瞑想について私に質問する人は、「これからもっと熱心に瞑想に取り組み、この道を突き進めば、その先に非二元の目覚めが待っているか?」というニュアンスで聞いているケースが多い。
もし、非二元の目覚めが未来に起こるものと期待して、そうなるための手段として瞑想を行おうとしているなら、瞑想は苦行となり、あなたは修行者(ハードプラクティショナー)になってしまうだろう。
なぜなら、瞑想をやっている間、意識の「注意」は、観察対象となる思考や呼吸に向かうので、観察者の「私」と「対象」の分離が起きてしまうからだ。
これは脳の機能として避けられないことなのだが、対象に意識の注意が向いている限り、私たちは存在の非二元性(ワンネス)を見失ってしまう。
だから、非二元の「目覚め」に、瞑想は必要ない。
もし、「目覚め」を目指して、瞑想を行おうとしているなら、それをやろうとしているのは「自分」なので、瞑想をやり続けている限り、何かを達成できるような「自分(主体者)」が存在しているという二元性(分離)の思い込みが強化されてしまう。
しかし、このメッセージが届き、非二元の目覚めが起きたなら、どこかに至りつかなければ心が満たされることはないと思い込み、せわしなく動き続けていたマインドもろとも「私」は消える。
非二元の目覚めとは、「マインドフルネス」ではなく、マインドの崩壊。
「フォーゲットフルネス」。
でも、このフォーゲット(忘却)は、認知症になって、以前のことを忘れてしまう忘却とは違う。
毎日、どこに出かけようと、ちゃんと自宅に帰ってこれるし、こんなふうに言葉を使って文章を書くことだってできる。
でも、この文章を書いているのは、「私」ではない。
何を書こうかと考える努力なく、指が勝手に動いて文章が出来上がっていく。
未来をどうしようかと、思い悩むマインドの出番はない。