非二元には、教えられるような「教義」も「コンテンツ」もない。
だから、非二元のセッションをやっている時に、「矢沢先生」と呼ばれると、「私は先生じゃない」とつい言いたくなってしまう。
学習法や記憶法を教えている時には、伝えられる「コンテンツ」がちゃんとあるので、「矢沢先生」と呼ばれても何の違和感も感じない。
でも、非二元のセッションをやっている時に「先生」と呼ばれたら、「非二元は私の話を聞いてわかるようになる教えではない」ことを、まず伝えてからセッションを始めるようにしている。
「宗教」には、文字が表している通り、人に伝えられるような「教え」がある。
たとえば、お坊さんやスピリチュアル・ティーチャーは、信者が「死んだらどうなるんですか?」と問えば、それに答える。
信者が納得できるような神話(物語)や教えを語り、信者を安心させる。
これが宗教が担ってきた役割だ。
でも、非二元は、宗教でもなければ、哲学でもない。
「私たちは何のために生きているんですか?」「死んだらどうなるんですか?」と問われても、教えや答えを差し出すことはない。
問いの答えを知りたがっている私もいなければ、知らなくてはならない何かもないことを、端的に指し示し、問いそのものを無効化してしまう。
問いの答えを教えて、知識を増やす手伝いをするのではなく、このような問いが「分離した個人がいる」という誤解から出てきていることを見透かせるよう、確認を促し、問いそのものを崩壊させてしまう。
そして、この崩壊を意図的に起こせるような「個人=先生」も、もちろん存在しない。
自らを、非二元の教師(先生)と語る人がいたなら、その人は「非二元」をスピリチュアルの教えの一つのようにとらえ、教えられるものだと勘違いしている可能性が高い。
ちなみに、私は、「ノンデュアリティ・スピーカー」と名乗っているが、この表現もまた、「ノンデュアリティ(非二元)についての知識を持ち、ペチャクチャ語る人」という誤解を招き、時に答えを求めるマインドの質問責めが起きてしまうので、「スピーカー」よりも的確な表現はないものかと思ったりする。
非二元を指し示すためには、言葉を使う必要があるが、言葉が指し示している「これ」が見られたなら、言葉はいらなくなる。
宗教やスピリチュアルは、言葉を使って神話(物語)や教えを語るが、非二元は、「これ」を指し示すためのポインターとして言葉を使う。
これが、宗教と非二元の決定的な違いだ。
そして、この違いを、まだ9歳だった私に指摘してくれたのは、ブルース・リーが語ったこの禅の言葉だった。
Don't think feel.
It's like a finger pointing away to the moon.
Don't concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory.
お知らせ
非二元を頭で理解しようとすると、知識ばかりが増えて、探求がいつまでも続いてしまいます。
非二元は、話を聞いてわかるようになる宗教の教えではなく、リアルにあるものです。
非二元の感覚を直接Feelしたい方は、プライベートセッションをお受けください。