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非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

「お金の講座はもうやらないんですか?」というお問い合わせをたくさんいただいていたので、12月にお金のことを久々に語ることにしました。

 
なぜ、私たちはお金を求めてしまうのかというと、「自分とお金とが別々に存在しているものだ」という分離の思い込みがあるからです。
 
別々に存在しているものだと思っているからこそ、向こう側にあるお金を取りに行かなければ、お金は手に入らないものだと思い込んでしまっているわけです。
 
でも、非二元性(分離がないこと)に気づくと、自分とお金とが別々に存在していなかったことが見抜けるようになります。
 
すると、仕事やお金だけでなく、あらゆるものが、極自然に自動的に現れ出てくることがわかるようになります。
 
四季折々の自然の景色の移ろいが驚くほど豊かであるように、私たちの人生も、この自然の豊かさとまったく別れてはいません。
 
これが「非二元(ノンデュアリティ)」という言葉が差し示している現実の豊かさです。
お知らせ
12月の講座では、ここに既に存在しているこの豊かさについて語ります。
詳細はこちらのページをご覧ください。

今日は、神戸の男性と電話でノンデュアリティ(非二元)のセッションをやりました。

 
不安な気持ちになると、パニックを起こしそうになるので、それをなんとか解決したいというのが男性からの要望でした。
 
瞑想を行うと、ある感情とともに不安を増長させるような思考が出てくるので、男性は瞑想を行うこともできず、不安に直面しないようにするために、これまでにどんなことを試みてきたかを正直に打ち明けてくれました。
また、それらの試みが、不安な感情に向き合わないようにするための逃避であることにも気づいていることを伝えてくれました。
 
そこで、セッションでは、これまで感じないように避けてきた、不安をあおるような思考も感情も、そのままで何の問題もないこと、追い払う必要も、避ける必要もなく、そもそもこれらの思考や感情によって壊されてしまうような「私」など存在していないことを、質問を繰り返しながら明らかにしていきました。
 
そして、セッションがの最後に、「ありのままとはどういうことなのかがやっと腑に落ちた」という彼からの一言を聞いて、セッションを終えました。
 
お知らせ
自分が感じたくないと思っているネガティブな思考や感情を変えようとしたり、抑えこもうとしたりすると、思考の渦の中にどんどん巻き込まれてしまいます。
なぜなら、ネガティブな思考や感情を変えようとしたり、無くそうとしたりしているのも「思考」だからです。
思考に、思考は止められません。
思考や感情のことで、何らかの苦しみを感じている方は、一度、ノンデュアリティ(非二元)のセッションをお受けください。
 

今日は、11月開催の「非二元入門」に仕事の都合で参加できないという男性から、その内容を個人セッションで体験したいというリクエストを受けて、対面でセッションを行いました。

 
どんな問題を抱えているのかを聞くと、ときおり「だからお前はダメなんだ」という内なる声が聞こえてきて、ネガティブな感情にさいなまれるので、それをなんとかしたいというのが、彼の願いでした。
 
彼は、その「ダメな私」をなんとか克服して、「ダメではない私」になろうとする努力を長年続けてきたようなので、本当に「ダメな私」が存在しているかを、自分で確かめられるよう、私の質問に一つ一つ応えてもらう形で、セッションを進めていきました。
 
すると、どれだけ調査を続けても、「ダメな私」を発見することはできず、そもそも存在しない「ダメな自分」をいるものだと信じ込み、それを克服しようとしてきた活動の無益さを認識できるようになったところで、セッションを終えました。
 
そして、セッションを終えてから、少し時間があったので、仕事をしているのもお金を稼いでいるのも、自分ではないことに目覚めると、今の仕事に対してブツブツ不平や文句を言うこともなくなり、どれだけスムーズに仕事がはかどりだすかを最後に伝えして、楽しい会話を終えました。

 

お知らせ
「ダメな私」を克服しようとして、何かを試みようとするほど、皮肉なことに「ダメな私がいる」という信念が強化されてしまいます。
「ダメな私」が、本当に存在しているか?
それを調べれば、「ダメな私がいる」という幻想が解け、「克服しなければいけない」という思い込みから解放されます。
この解放を体験したい方は、非二元のセッションを受けてみてください。
非二元(ノンデュアリティ)」という言葉を初めて知り、その意味を調べようと検索すると、「サンスクリット語の『advaita (アドヴァイタ)』が語源」という説明が出てきます。

サンスクリット語の「a」は否定の接頭辞で「〜に非ず(not)」を意味し、「dvaita」は「二元論(duality)」を意味し、それゆえ英語ではNon-Dualityと訳されています。

しかし、ノンデュアリティ(非二元)の語源が「アドヴァイタである」と辞書的にわかっても、このままでは何の役にも立ちません。

そこで、「アドヴァイタ」の意味を調べるために、さらに検索すると、「シャンカラ」という人物の名や「不二一元論」という言葉に続いて「ウパニシャッドの梵我一如を徹底したもの」という説明にたどりつきます。

そして、今度は「梵我一如」の意味を調べてみると、
「梵(ブラフマン)とは、宇宙を支配する原理」
「我(アートマン)とは、個人を支配する原理」
「この梵と我が同一であり、それを知ることにより、永遠の至福に至る」
「それが究極の悟りとされる」という説明に至りつきます。

しかし、知らなかった言葉の意味をわかろうとして、このような作業をいくら繰り返しても(検索するにしても、本を読むにしても)、知識の量(知らなかった固有名詞の数)がただ増えていくだけで、「至福」にも「悟り」にも、至れません。

なぜなら、言葉による理解は、仏教では「分別知」と呼ばれ、物事に「言葉」を貼り付けて、その意味を理解しようとする分別心の働きこそ、苦しみを生む原因だとされているからです。

たとえば、今、目の前に富士山が見えているとして、その山の部分に「富士山」という固有名詞を貼り付けた瞬間、「富士山」と「富士山以外のもの」が分割されてしまうため、言葉による理解のことを「分別知」と読んでいます。

これに対して、仏教では、「無分別智」こそが、分別を離れた真実の智慧とされ、「悟った人」を表すブッダとは、この無分別智で世界を見ている人のことを指しています。

ここで、なぜ、「アドヴァイタ(不二一元論)」から「仏教」の話へと、突然、話題が切り替わったのかと、疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう。

ここで、不二一元論とは、「ウパニシャッドの梵我一如を徹底したもの」と前述したことを思い出してください。

その「徹底」とは何かというと、実は、我(アートマン)の存在を否定した釈迦(ブッダ)の教えを取り入れ、「実在するのは梵(ブラフマン)のみ」となったのが「不二一元論」で、インドでは、不二一元論が完成した頃、仏教との差異がほぼなくなってしまったのです。

ちなみに、大乗仏教には「不二に入る」という言葉がありますが、これは悟りの境地に入ることを意味し、不二(二ではない)とは、「生/滅」「幸/不幸」の二項対立から離れ、自由になっていることを表しています。

また、私の経験談としては、日本の曹洞宗の禅師が、踊り子の舞いを見ている最中に、突然、悟ったという話を伝え聞いた時、これは、梵我一如を悟ったインドの哲人の話とも、「考えるな。見よ!」と言った西洋の哲学者の言説とも一致していることに気がつきました。

そして、この哲学者が「人は自分が使っている言葉のマジックによって、自ら出口の見えない袋小路にハマるが、哲学の目的はそこからの出方を示すことだ」と語っていたことを思い出し、袋小路にハマった本人に言葉のマジックの解き方を示すためなら「言葉も使える」と確信できるようになったのでした。

もし、あなたの心に、モヤモヤとした正体不明の不安な感覚があり、「この感覚がきれいさっぱり消えた時には、晴れやかな気分で毎日を生きられるようになる」と思っているなら、それは、言葉のマジックがつくり出した袋小路の世界の中の話であり、その延長線上には、出口はありません。

袋小路からの出口は、袋小路の入口のみ。

つまり、どこで言葉(分別知)のマジックに引っかかり、袋小路に迷い込んでしまったのかを「知る」こと。

この「知」のことを、仏教では「無分別智」と呼ぶのでしょうが、こうして言葉にしてしまうと、これもまた新たな「分別知」となってしまうので、もう黙るしかなくなります。

分別知を離れた世界を、直接的に経験してみたい方は、矢沢大輔のプライベート・セッション、または講話会にご参加ください。

「非二元入門」という集いを始めます。

 
通常、「入門」というと、初心者のためのもの、という意味合いが含まれていますが、非二元(ノンデュアリティ)には、「初心者・上級者」という二元性がありません。
 
非二元に通じる門(ゲート)。
 
この門は「閉じたり、開いたり」する二元性を持っていません。
 
何かの条件をつけて、誰かを門前払いするような門番はいません。
 
非二元の門は開きっぱなしです。
 
そして、この門に入ったなら、門は消えます。
ここには、門の「内側、外側」の二元性さえ存在していません。
 
あるのは、あるがままの生だけで、それは何者にも拘束されず、自由そのものです。
関連記事:非二元と虚無感
 
お知らせ
非二元入門の詳細は、こちらから
東京から遠方の方は、電話でのセッションも可能です。
昨日から、次男と一緒に大阪に帰省しています。

次男は、和菓子が好きなので、昨日は京都で和菓子づくりを体験してきました。

そして、京都から大阪に移動する前に、アラビカコーヒーにも立ち寄り、ラテアートの美しさも体験してきました。

明日は長男も合流してくるので、来週の火曜まで少し遅めの夏休みをゆっくり楽しもうと思っています。

また、来週の水曜から金曜までは、大阪の梅田で、非二元(ノンデュアリティ)の対面セッションを行います。







昨日は、「スマホで英語を話せる脳をつくれる科学的学習法」を初開催しました。

 
開催の1ヶ月半前に満席となった講座で、鹿児島、大阪、愛知からも参加してもらえました。
 
英語を話せるようになりたいと思いつつ、いつまでたっても話せるようにならない人を対象にした講座だったのに、マイクロソフトにお勤めの方も参加してくれて、英語学習に関するいろんな情報を共有することができました。
 
講座の内容としては、冒頭、日本人が英語を何年勉強しても話せるようにならない理由を論理的に述べました。
 
・英単語の意味を記憶しようとしているから。
・カタカナ発音で、英語を覚えているから。
・英語を和訳しているから。
 
このような学習をこれからも続けていたら、数年後も「英語を話せない」という同じ結果が繰り返されるだけなので、まず、冒頭で、これらの学習の問題点を明確にしておきました。
 
そして、午後からは、スマホのアプリを使って、1日30分、どんなトレーニングを繰り返すと、3ヶ月後に、自分の口から滑らかに英語が出てくるようになるのか、科学的に有効性が認められたトレーニング法を体験いただきました。
 
また、巷には、スマホを使えば英語を話せるようになると謳った20万円以上もする高額教材も出回っているけれど、なぜ高額になってしまうのかの理由もお伝えし、今やその10分の1以下の金額で、3ヶ月のトレーニング後も、自分の実力の伸びに合わせて、英語を学び続けられるツール類の紹介をして、講座を終えました。
お知らせ
次回の英語講座は、12月に開催します。
 

「非二元(ノンデュアリティ)」という言葉を知ってから、虚無感に陥った。

という話しをプライベートセッション中に聞くことが増えてきました。

虚無感に陥った人の多くは、「私はいない」という言葉を誰かから聞いて、それが非二元(ノンデュアリティ )の「教義」であるように思い込み(もしくはそう語る人物を教祖のように崇め)、その意味を理解しようとしたり、それを実現しようと試みたりしたものの、何年経っても生きづらさから解放されず、その帰結として虚無感に陥ってしまっているようです。
 
そもそも、私たち人間は、自分のことを「わたし」と呼び、目の前にいる相手のことを「あなた」と呼び合ってお互いに言葉を交わしあい、人間同士の関係を良好に保ちながら生きている生き物です。

たとえ目の前にいる相手の名前を知らなくても、私たちはお互いに会釈しあったり、言葉を交わす機会が訪れれば、自分のことを「わたし」と言い、相手のことを「あなた」と呼び合って、いつでも対話しあえる関係性の中で生きています。

また、あなたが自分のことを、時に「わたし」と言ったり、「僕」「俺」と言ったり、「わたくし」と言ったり、自分の子供の前では「パパはね」「ママはね」と言ったりして一人称を使い分けているのは、何より私たち日本人が、相手との関係性を重んじて言葉を使い分け、良好な関係を築こうとする、他の言語にはあまり例を見ない日本語特有の文化の中で生きてきたからに他なりません。

目の前の相手に向かっても、「あなた」という言葉を直接使わずとも、「すみません」呼べかければ、「わたしのことですか」と相手が応じてくれるのも、私たちが既に「わたしーあなた」と呼びかけ合い、同じ日本語を使って言葉を交わし合える関係の中で生きている、ということです。

つまり、私たち人間が現に生きているのは、「わたし」あっての「あなた」であり、「あなた」あっての「わたし」であり、そのどちらか一方が欠けても、「わたし」も「あなた」も存在しえない世界で生きている、ということです。

ですから、私たちが日常の会話の中で使っている「わたし」という言葉の言語使用を否定し、「私はいない」と言っているなら、それは私たちが生きているこの人間的世界(人称的世界)の否定であり、「わたしーあなた」の関係性の世界で現に生きづらさを感じて悩んでいる人に対して、決まり文句のように「私はいない」と何度繰り返した告げたところで、それは冷たく響くだけで、なんの救いにもなりません。

その人がなぜ、この世界の中で生きづらさを感じているかに耳を傾け、相手の聞くあり、行き詰まっている人に対して、ような教義を信じてどれだけ実践してみたところで、私たちはどこにも至ることはできず、そこに解放もなければ、幸福も自由もありません。


お知らせ
自分を見失わず、他の人と共に良好な関係を築いて幸福に生きたい方は、矢沢大輔のノンデュアリティ・プライベートセッションをお受けください。

昨日は、アクティブ・ブレインの読書法コースを開催しました。

 
読書法コースでは、単行本や新書をどのような手順で読み、内容をどうまとめれば、内容が記憶に残り、仕事や生活に活かせるようになるかをお教えしているのですが、昨日は、法律の文章を覚えられなくて困っている方が参加されていました。
 
「どうすれば、効率よく法律を覚えられるようになるのか?」という質問を受けてから一日が過ぎたのですが、こんなふうにお答えしたほうがよかったかなと思える考えが出てきたので、ブログでその内容を皆さんにもお伝えしておこうと思います。
 
まず、「法律」というのはルールです。
 
ルールというのは、紙に書かれた決まり事で、ルールを知らなければ、野球も、サッカーも、将棋も楽しめません。
 
ルールを知らなければ、ゲームも楽しめない。
そういう意味では、「ルールを知る」ことは大事なことです。
 
しかし、「ルールを知る」というのは、ルールを理解することであって、記憶することではありません。
 
たとえば、野球を楽しむには(プレイするにしろ、観戦するにしろ)、野球のルールを知っておく必要がありますが、それは野球のルールブックを熟読して、内容を記憶する作業とは異なります。
 
野球を楽しんでいる子供であれ、プロ野球選手であれ、ルールブックを熟読してルールを記憶したわけではなく、実際に野球をプレイしながら、ルールの理解を深めていったからです。
 
一切、プレイする(楽しむ)ことなく、ルールブックだけを読み、ルールを覚えようとする作業ほど、脳にとって、退屈で耐え難いものはありません。
 
実際にプレイをしていれば、いろんなケースに遭遇することになり、様々な経験を通じて、ルールというものは、自然に把握できるようになるものだからです。
 
今、法律の勉強をしている人は、野球でいえば、選手ではなく、審判になることを目指してルールをまなぼうとしているのでしょうが、プロ野球の審判になった人だって、実際に 野球のグラウンドに何度も立ち、実際にプレイをジャッジする経験を積み重ねて、プロの審判になっています。
 
ルールブックに書かれた文字だけを読んで、正確にその内容を記憶したところで、審判にはなれません。
 
今、実際に起こっている出来事に対して、ルールに基づいた正確なジャッジを素早く下せる。
 
これが審判の仕事であり、実際のケーススタディの経験を積まずして、その能力を高めることはでいないからです。
 
もし、あなたが今、法律の勉強をしていて、思うように学習がはかどらないと感じているなら、実践がともなわない、文字だけを見て内容を記憶しようとする机上の学習に陥っていないか、一度、ご自分で確認してみてください。
 
お知らせ
英語学習も、英単語や文法を覚える暗記中心の学習から、スマホを使って発話練習を繰り返す実践的な学習に切り替えると、3ヶ月ほどで英語を使って外国人とコミュニケーションを取れるようになります。
英語を話せるようになる学習法を知りたい方は、下記の講座にご参加ください。
 
また、次回のアクティブ・ブレイン読書法は、11月18日に開催します。

今日は私が暮らしている商店街のお祭りの日だ。

商店街を歩いていると、金魚すくいの準備をしている人たちがいて、大騒ぎになっていた。
 
金魚すくいの水槽のなかの金魚の約3分の2が、お祭りが始まる前に、死んでしまっていて、底に沈んでしまった大量の金魚を水槽から取り出す作業に、みんな大慌てになっていたのだ。
 
「この暑さのせいだろうか?」「酸素が足りないんだろうか?」「いや、ここに運搬されている最中に、もう弱っていたんだよ。悪いのは業者だよ」
こうして、話は犯人探しの方向に進んでいった。
 
マインドは、こんなふうに、思い通りに物事が運ばなかった時に、自分の外側に、悪者を探しだそうとする。
マインドは「正しい」と「誤り」の2点があるなら、正しい側に自分を位置づけ、「私は間違ってはいない」と主張したがる。
 
そして、自分の正しさを主張するには、誤った側に自分以外の誰かがいなければ、そう主張できないので、敵を探そうとする。
 
これが二元論に陥ったマインドの動きで、「正しいのは私の方」という主張が始まった瞬間から、敵が生み出されることになり、対立、争いがはじまる。
 
しかし、「正しい私」と「誤った誰か」がいるというこの分離から始まる争いから、平和や愛がもたらされることはない。
 
マインドは、「正しい」と「誤り」の2点のうちの片側に自分を位置づけ、他者と争いたがるけれど、これはマインドがつくりだしている分離の物語に過ぎない。
 
本当のあなたは、正しさも、誤りも主張しない非二元の気づきであり、平和であり続けている。
 
お知らせ
マインドは、平和、愛を探し求めていますが、平和、愛は、知識を使って理解できるような概念ではありません。
それは、存在そのものの特性であり、それに気づけるのは、非二元(ノンデュアリティ)の気づきだけです。
気づきの存在をダイレクトに体験してみたい方はノンデュアリティのプライベート・セッションをお受けください。