仕事の動きは起きるが、労働者はいない。
歩行の動きは起きるが、歩行者はいない。
運転の動きは起きるが、運転手はいない。
考えは起きるが、考える人はいない。
このような言葉を聞くと、マインドは混乱する。
何かの動きが起きているなら、それをやっている主体者がいるはずだと、マインドは考えているからだ。
「私」が仕事をしている。
「私」が歩いている。
「私」が運転している。
「私」が考えている。
マインドは、そう思い込んでいるので、「行為は起きても、それをやっている人はいない」と指摘されると、マインドはたいてい、こんな反応を起こす。
ほら、私は、今、自分の意志で、右手を上げたぞ!
行為者はちゃんといるじゃないか!と。
では、「右手を上げよう」と思ったその思考は、あなたの意志によるものだっただろうか?
右手を上げようという思考が現れるコンマ数秒前に、あなたは「右手を上げよう」という思考がコンマ数秒後に現れ出てくることをわかっていただろうか?
「右手を上げよう」と思った思考さえ、ある瞬間にひとりでに現れ出てきたのではないだろうか?
この次に現れる思考をコントロールし、決めているような思考者など存在していない。
そして、歩行が起きている最中にも、あなたは気づくかもしれない。
歩行の最中に、足も手もひとりでに動いていることに。
動きはひとりでに起きている。
呼吸も、消化も、心臓の動きも、ひとりでに起きている。
あなたが気を抜いたからといって、動きは止まらない。
仕事も起きるし、歩行も起きるし、会話も起きるし、食事も起きるし、うたた寝もひとりでに起きる。
非二元性に目覚めて、「動かしている私、コントロールしている私などいなかった」と気づいても、生の躍動が止まることはない。
仕事の動きが起きている時には、その仕事をありのままに、お茶を飲む動きが起きている時には、お茶の美味しさとくつろぎの感覚をありのままに楽しめるようになる。
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