サンスクリット語の「a」は否定の接頭辞で「〜に非ず(not)」を意味し、「dvaita」は「二元(duality)」を意味し、それゆえ英語ではNon-Dualityと訳されています。
※時々、区切る位置を間違えて「ad-vaita 」と書かれた説明を見かけますが、正しくは「a-dvaita」です。
しかし、ノンデュアリティ(非二元)の語源が「アドヴァイタである」と辞書的にわかったところで、人生の様々問題に直面し、混乱している精神に何らかの変容が起こるわけもなく、このままでは何の役にも立ちません。
そこで、アドヴァイタの意味を掘り下げるため、さらに検索してみると、「不二一元論」とか「シャンカラ」という人の名前が出てきます。さらに、「ネオ・アドヴァイタ」という言葉もあって、ラマナ・マハルシという人が「解放に到達するための道として、真我の探求を推奨した」という説明にたどり着くと、なんとなくわかったような気になります。
しかし、このような調査をどれだけ繰り返しても「知識による理解」の範疇からは一歩も出れません。
シャンカラも、ラマナ・マハルシも、苦からの解脱(安らぎ)に至る道として、自己とは何かの探求を推奨したことに違いありませんが、その説明を読んで「そういうことか!」と言葉の上で理解し、それをあなたが誰かに伝えようと発信したところで、それは他者が経験したことの受け売り、引用であり、あなた自身の考えでもなければ、生き方でもありません。
そして、それがどれほど崇高な教えであるように感じられても、あなたが抱えている不安や落ち着きのなさが消え去ることはありません。
なぜなら、その教えに、なんの疑いも持たず、ただ崇拝し、盲目的に従っているだけなら、あなたの精神はその教えに頼りきったまま(依存したまま)ぼんやりしだし、頼りきっていたものがなくなったら自分はどうなってしまうのだろう、という不安や恐れにつきまとわれるようになるからです。
私たちが暮らすこの物騒で暴力的な社会の中で、この先、どう生きていけば良いのかがわからず、それゆえ自分が抱えている不安や恐れを消すために、何かの教えに従い、頼りきり、生きていこうとしても、また新たな不安が発生してしまう。
このジレンマ、矛盾から抜けでる道は、あるのでしょうか?
これが長い歴史に中で、私たち人間が問い続けてきた問題です。
そして、この問題にあなたが真剣に向き合うなら、塞がっていた扉は開きます。
探るべきことは、「なぜ、私たちの精神は、何かにすがりつき頼ろうとするのか?」という心の動きを自己観察することです。
すると、「孤独感」があることに気づきます。
では、その孤独感は、どのような心の動きからもたらされるのか?
それを観察してみると、「観察者(私)」と「観察されるもの(私ではない人々)」を分割し、私の幸福を追い求める自己中心的な心の動きからもたらされていることが見えるようになります。
「私」と「私ではない人々」がこの地球上に別々に存在しあい、各々の幸福を求めて、お互いに争い、競争し合っている。
これが、私と私でない人たちが対立、葛藤し合う、二元性の思考によってつくり出された世界で繰り広げられている出来事です。
そして、「非二元(ノンデュアリティ)」とは、この二元性の世界の否定です。
なぜなら、真実は、虚偽(二元性)であるものが、否定されたときに現れるものだからです。
では、この二元性の虚偽は、何によって見抜かれ、消えるのでしょう?
それは、自己観察によってです。
あなたの心の中で、起きている「観察者」「観察されるものの」の分裂、そこから生じる孤独感、私ではない誰かが考え出した教義や人物への依存…これらの心の動きを観察し、その虚偽を見抜き、真実を見出せるのは、あなた以外になく、他人に任せにはできないからです。
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孤独感、分離感をつくり出す思考のプロセスをどのように観察すれば、虚偽が見抜かれ、不安や恐れのない、まったく異なる生き方ができるのか?
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