サンスクリット語の「a」は否定の接頭辞で「〜に非ず(not)」を意味し、「dvaita」は「二元論(duality)」を意味し、それゆえ英語ではNon-Dualityと訳されています。
しかし、ノンデュアリティ(非二元)の語源が「アドヴァイタである」と辞書的にわかっても、このままでは何の役にも立ちません。
そこで、「アドヴァイタ」の意味を調べるために、さらに検索すると、「シャンカラ」という人物の名や「不二一元論」という言葉に続いて「ウパニシャッドの梵我一如を徹底したもの」という説明にたどりつきます。
そして、今度は「梵我一如」の意味を調べてみると、
「梵(ブラフマン)とは、宇宙を支配する原理」
「我(アートマン)とは、個人を支配する原理」
「この梵と我が同一であり、それを知ることにより、永遠の至福に至る」
「それが究極の悟りとされる」という説明に至りつきます。
しかし、知らなかった言葉の意味をわかろうとして、このような作業をいくら繰り返しても(検索するにしても、本を読むにしても)、知識の量(知らなかった固有名詞の数)がただ増えていくだけで、「至福」にも「悟り」にも、至れません。
なぜなら、言葉による理解は、仏教では「分別知」と呼ばれ、物事に「言葉」を貼り付けて、その意味を理解しようとする分別心の働きこそ、苦しみを生む原因だとされているからです。
たとえば、今、目の前に富士山が見えているとして、その山の部分に「富士山」という固有名詞を貼り付けた瞬間、「富士山」と「富士山以外のもの」が分割されてしまうため、言葉による理解のことを「分別知」と読んでいます。
これに対して、仏教では、「無分別智」こそが、分別を離れた真実の智慧とされ、「悟った人」を表すブッダとは、この無分別智で世界を見ている人のことを指しています。
ここで、なぜ、「アドヴァイタ(不二一元論)」から「仏教」の話へと、突然、話題が切り替わったのかと、疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう。
ここで、不二一元論とは、「ウパニシャッドの梵我一如を徹底したもの」と前述したことを思い出してください。
その「徹底」とは何かというと、実は、我(アートマン)の存在を否定した釈迦(ブッダ)の教えを取り入れ、「実在するのは梵(ブラフマン)のみ」となったのが「不二一元論」で、インドでは、不二一元論が完成した頃、仏教との差異がほぼなくなってしまったのです。
ちなみに、大乗仏教には「不二に入る」という言葉がありますが、これは悟りの境地に入ることを意味し、不二(二ではない)とは、「生/滅」「幸/不幸」の二項対立から離れ、自由になっていることを表しています。
また、私の経験談としては、日本の曹洞宗の禅師が、踊り子の舞いを見ている最中に、突然、悟ったという話を伝え聞いた時、これは、梵我一如を悟ったインドの哲人の話とも、「考えるな。見よ!」と言った西洋の哲学者の言説とも一致していることに気がつきました。
そして、この哲学者が「人は自分が使っている言葉のマジックによって、自ら出口の見えない袋小路にハマるが、哲学の目的はそこからの出方を示すことだ」と語っていたことを思い出し、袋小路にハマった本人に言葉のマジックの解き方を示すためなら「言葉も使える」と確信できるようになったのでした。
もし、あなたの心に、モヤモヤとした正体不明の不安な感覚があり、「この感覚がきれいさっぱり消えた時には、晴れやかな気分で毎日を生きられるようになる」と思っているなら、それは、言葉のマジックがつくり出した袋小路の世界の中の話であり、その延長線上には、出口はありません。
袋小路からの出口は、袋小路の入口のみ。
つまり、どこで言葉(分別知)のマジックに引っかかり、袋小路に迷い込んでしまったのかを「知る」こと。
この「知」のことを、仏教では「無分別智」と呼ぶのでしょうが、こうして言葉にしてしまうと、これもまた新たな「分別知」となってしまうので、もう黙るしかなくなります。
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