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水俣湾の有機水銀汚染地帯を住民の反対を押し切り、強引に埋め立てて造ったエコパーク水俣には違和感がある。水俣病の水俣という負のイメージを払拭するためにスポーツ施設やバラ園、道の駅など明るいイメージに変える試みは行政の立場に立てば分からなくはない。だが水俣病資料館を公園の奥の奥に配置しているところにまず違和感を覚えた。もちろん公園の入り口付近に置いた場合、観光客を含む他地域から訪れた人に水俣病を強調することになるのでそれはマズイとは思うが、、

 

 

第2に資料館のすぐそばに水俣病総合研究センターと熊本県環境センターを置く違和感。たしかに水俣病を教訓にして水質調査や環境保全に取り組んでいるのかもしれないが、このエコパーク水俣(水俣市広域公園:広大な埋め立て地)のすぐ先の海(水俣湾沖)と南は鹿児島県出水市(南隣の阿久根市にも被害が及んだ)から北は熊本県八代市まで手が付けられない大量の有機水銀が今も海底に堆積している。下手に除去しようとすると沈殿した水銀が浮き上がり二次被害の悪夢が再来する。こんな状態で環境保全と言っても説得力に欠ける。

また資料館のすぐそばにあることで水俣病はもう過去のもの、今は対策しているから大丈夫なんですよ、とアピールしている白々しい政治的行政的な思惑のように思えないではない。

 

 

水俣病総合研究センター

水俣病の研究の推進に役立つように総合的医学研究を実施して、患者の医療の向上を図ることを目的として設置された施設

 

 

熊本県環境センター

水俣病の教訓を活かしながら学び、考えるための施設

 

 

 

水俣市の小中高校の生徒は公害問題、社会問題になった水俣病について、通常の授業内容とは別にかなりの特別授業を受けているのだろうと思っていたが、相思社の方の話によると今はしっかり対策が取られていて、公害問題対策のモデルケース、環境モデル都市になっていると教えられているらしい。

 

大量の残存有機水銀があるのに??

モデルケースが聞いて呆れる

すっかり牙を抜かれた洗脳教育を受けているのだなと言いたくなる

 

 

むかし町のあちこちにあったどぶ川、今は道路や歩道もきれいに整備されてどぶ川にもコンクリートのフタがされ、歩道の一部になっている。だが、どぶ川がなくなったわけではなくすぐ下にあるのだ

 

どうも行政や国のやり方というものは臭いものにはフタをする、都合の悪いものは隠すそういう風潮、体質を感じることが多々あり、このエコパーク水俣にもそれを感じた。それが今回、実地視察した時の違和感の正体だと思う。

 

見た目は普通の広大な公園

別の言い方をすれば大量水銀の上にきれいな公園でフタをしましたということ

 

 

   有機水銀垂れ流しの元、百間排水口

 

     エコパーク水俣の竹林園

 

水俣駅側から見て一番手前にある竹林園

百間排水口のすぐ近くから入れる

全国から竹を集めたきれいな公園だが、この下にも大量の水銀が、、

 

 

 

チッソ工場は1932年(昭和7)から1968年(昭和43)までの36年もの間、有機水銀を含んだ排水を流し続けた。水俣湾に溜まった水銀の量は70~150トン、またはそれ以上ともいわれ、水銀を含んだ大量のヘドロが海底にたまり、水銀に汚染された魚がいた。

 

熊本県は1974年(昭和49)に水俣湾内から汚染された魚が出て行かないように仕切網を設置して、汚染された魚の除去作業を始めた。1997年(平成9)に仕切網を取り払うまでの23年間に487トンもの魚をとって処分した。同97年に「水俣湾の安全宣言」を行って仕切り網を全て撤去。

仕切り網の中で捕獲された規制値以上(メチル水銀0.3ppm)の汚染魚は、セメントで固めて2500本以上のドラム缶に詰められ、現在水俣市資料館駐車場となっている地下に埋められいる。

 

また、1977年から水俣湾の海底にたまった水銀を含んだヘドロを除去するために、カッターレスポンプ浚渫船で総水銀25ppm以上の水銀を含んだヘドロを吸い上げて護岸内に埋め立てた(大きい掃除機で吸い上げるイメージ)。埋立区域を鋼矢板セルで囲んで護岸を造り、親水護岸の内側に封じこめて埋め立てる工事を行い、14年の期間と485億円をかけて、1990年(平成2)に工事は終了。東京ドーム13.5個分の広い埋立地が完成。現在はエコパーク水俣(水俣市広域公園)になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

浚渫※(しゅんせつ)海域の汚泥は、汚泥のまき上げを極力防止するため、カッターレスポンプ船で海水と共に浚渫して埋立地に入れて汚泥を沈降させ、多量の海水は余水処理を行って工事水域(護岸工事内)に再び放流した。

汚泥を入れ終わった埋立地は、汚泥とシラスとを区別するための布製のシートを張り、網状のロープで押さえ、シラスを水と共に厚さ80cmに撒きだす表面処理を行った後、山土で厚さ1m以上覆土して、汚泥は封じ込められた。

(※浚渫⇒川底の土砂やヘドロを取り除くこと)

 

平たくいうと、水銀汚染がひどすぎてどうにもならない水俣湾を埋め立てて、特殊加工した火山灰で汚染土壌をシールドして、山土をかぶせたということ。

 

 

▼護岸工事で既存の護岸との接点部分は概ね鋼矢板セル式で築造された。

 

 

 

カッターレスポンプ浚渫船

土砂吸入管を海底に設置させ水底土砂を水ジェットで掘削し浚渫ポンプで吸い上げる浚渫船。本船は、ラダー先端より噴射するジェット水で海底土砂を切り崩す方式を採用しており、残存機雷水域でも安全な浚渫が可能である。また、通常のカッタ装置への取り替えも容易である。

 

 

 

 

埋め立て・海について

 

 

Q1 きれいな海に戻るまで、どれくらい時間がかかったのですか、また、現在漁師さん達は、どんな活動をされているのですか?

A1 仕切り網設置から撤去まで23年の年月がかかりました。

また、現在、漁師さんたちは、マダイ、ヒラメ、クルマエビ、カサゴなどの稚魚の放流、海底の清掃・耕耘、産卵場や稚魚の育成場となる「海草の森」の造成など、漁獲資源を増やすための活動を行っています。

 

Q2 現在の水俣湾の様子 水俣の現在の漁業の様子、また、魚の状況。 水俣の人は今は安心して魚を食べているのか

A2 現在、水俣湾で捕れる魚の平均水銀値は、国の定めた暫定基準(総水銀0,4ppm、メチル水銀0, 3ppm)を下回っています。1997年7月には、熊本県知事が安全宣言を行い操業が開始されており、 その後も水銀の調査は続けられ、安全であることが確認されています。 

また、サンゴの生息が確認され、きれいな海になっていますが。魚がたくさん獲れた豊穣の海には戻りません。一度壊れた自然を取り戻すことはとても難しいのです。

 

Q3 埋め立てられたヘドロは今後大丈夫なのか。

A3 熊本県の水俣湾埋立地護岸等の検討委員会では、現在のところ問題はないとされていますが、護岸に使用された鋼矢板セルの耐用年数、大地震時の液状化現象や護岸の崩壊など課題はあります

 

 

 

『水俣、地下に眠る水銀 埋め立て地、液状化など懸念』

(2017年朝日新聞より)

 

水俣病のような被害を二度と起こさない決意が込められた「水俣条約」(国際的水銀規制)が発効し、水銀が世界的に規制されることになった。ただ、条約名に冠された熊本県水俣市には、かつて垂れ流された水銀が今も埋められたままだ。

不知火海に面した広大な埋め立て地に芝生の広場やバラ園、テニスコートなどが並ぶ水俣市の公園「エコパーク水俣」。

 

見た目はフツーの公園だが、この下には大量の有機水銀が今も眠っている

(※地中にある大量水銀の上にきれいな公園でフタをしてみました、ということ)

 

埋め立て地は、水俣病の原因企業チッソが長年水銀を含む排水を流してきた水俣湾の奥部にあたる。水銀値の高い汚泥がたまったエリアを鋼板で囲って海と仕切り、そこに水銀値が比較的低い沖合の汚泥を浚渫(しゅんせつ)して埋め立て、さらに、汚染されていない山の土で覆った。全体で約58ヘクタール。1982~85年に鋼板を設け、90年に埋め立てが完成した。

 

鋼板の耐用年数は約50年とされていた。熊本県は、腐食の進行が想定より遅いとして少なくとも2050年ごろまで性能を維持できるとしているが、その後の方針は決まっていない。

(※元々は海だった土地で塩分濃度も高いため、鋼板の腐食も早いと思われる)

 

元国立水俣病総合研究センター国際・総合研究部長で、今も水俣で水銀の研究を続ける赤木洋勝さん(75)は、地震で埋め立て地が液状化し、水銀を含む水が地表に噴き出すことを懸念する。「水銀を集めて囲っただけの場所。汚染が残ったまま条約の地をアピールするのはちぐはぐだ」と話す。

 

熊本学園大の中地重晴教授(環境化学)は、750億円かければ、埋め立て地の水銀汚泥を掘り起こし浄化することができる、との試算を14年に発表した。鋼板や護岸はいずれ更新しなければならず、この先、大地震や大津波に襲われるかもしれない。「ずっと未来まで鋼板や護岸をつくり続けるのか。後世に大きな負の遺産を残したままでは、水俣病の教訓を生かすことにならない」と指摘する。

水俣条約12条は、水銀で汚染された場所を「汚染サイト」として特定し、リスクを評価して管理する努力を締約国に求めている。だが、埋め立て地について熊本県は「今も安全性を確認しながら管理しており、問題はない」、環境省も「既存の土壌汚染対策法で対応が可能だ」として、汚染サイトとすることに消極的だ。

 

チッソの廃棄物処分場跡、護岸役の市道にひび

 

http://teisitu.blog.jp/archives/555539.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漁民騒動

 

1957年(昭和32年)多発する水俣病(この時点ではチッソによる工場排水、有機水銀によるものとはわかっていない)熊本県は、水俣湾産魚貝類が危険につき摂食を差し控える警告を水俣病患者多発地域に発した。地元の報道で魚貝類の有毒性を知った消費者が、魚貝類の購入をやめた。そのために、患者世帯だけでなく、患者のいない漁民や魚仲買商、魚販売者も大きな打撃を受ける。それと同時に、旅館や料亭も利用者が激減した(水俣湾が一般海域として漁場開放され、水俣市漁協が操業を再開するのは平成9年)

水俣病は、水俣病患者の発生と漁民及び漁業関係者の生活破壊という二つの悲劇を引き起こした。

 

 

 

 

 

1957(昭和34)年 熊本大学医学研究班により奇病の原因が有機水銀である可能性が指摘されたが、加害者チッソはその責任を認めず、卑劣にも御用学者等を使って、他説で反論させた。

その間に発病者は水俣周辺から不知火海沿岸に拡大していく。地元で捕れた魚は売れず、漁民の生活はひっ迫していった。1959(昭和36)年8月には水俣市漁協の人々が補償を求める闘争を展開。10月には不知火海沿岸の漁民も決起した。翌11月には漁民たちの怒りが頂点に達し、チッソ水俣工場内に突入し、施設の一部を壊す騒ぎが起こった(漁民騒動)

 

 

 

 

その後、県知事が調停委員会を設置して県漁連(熊本県漁業協同組合連合会)とチッソの仲裁に入った。県漁連の25億円の要求に対して、最終的には補償3500万円と6500万円の融資、しかも漁民たちが工場に突入の際に壊した施設の弁償代1000万円が差し引かれたもの。

1世帯あたりわずか1万5千円程度。漁業をやめ、生活の道を閉ざされた漁民への補償としてはあまりに少ない額だった。

 

 

1959(昭和34)年11月 被害患者が組織する水俣病患者家庭互助会が、患者一人当たり300万円の補償をチッソに求めた

 

チッソは補償を拒否。互助会のメンバーは工場前に座り込む抗議行動に出るが、周囲の水俣市民の反応は冷たかった。前回も触れたように水俣市は「チッソ城下町」「企業城下町」であった。チッソ水俣工場の発展で日本有数の工業都市として水俣市以外の熊本県から、九州各地から、また遠方から職を求めて水俣市に転入してきた者もいる。患者が騒いで工場が生産そのものを中止した場合、また水俣から仮に工場が撤退した場合、この当時市民の半分がチッソ関連の工場で働いていたため、彼らが一斉に仕事を失うことにつながることになる(昭和24(1949)年の人口約4万2千人⇒1959(昭和34)年当時は約5万人弱

 

互助会とチッソは県知事を中心とする調停委員会によって見舞金契約を結ぶ。だが、これは調停委員会からこの契約をのまなければ調停をやめると言われた末での苦渋の選択だった。

見舞金は死者30万円、生存者の成人患者に年金10万円、未成年の患者3万円、葬祭料2万円

(水俣病は治らない。一生苦しみ続けなければならない)

(のちの訴訟でこの契約は公序良俗に反するとして無効になる)

 

 

 

 

この契約には、将来、水俣病がチッソによる工場排水が原因と決定しても、新たな補償金要求は一切行わない。しかもその裏でチッソ経営の医院長による猫実験で、原因は自社の工場排水だということを報告されていたにも関わらず社長以下、チッソ上層部はその報告を握り潰していた。まさに確信犯であり企業犯罪である。それを知っていた上での保身、責任逃れ、あくまで水俣病患者を犠牲にしながらの利益優先だった。

そして調停委員会、熊本県側もチッソ側だった。

多くの患者が釈然としない思いでやむなくその見舞金を受け取った。

人間の生命は、決して金に換算できるものではない。

見舞金契約には加害者側の謝罪の「心」も、人間の「涙」もなかった。

 

1968年 国がようやく水俣病の原因を、工場排水に含まれたメチル水銀化合物が原因と認め、チッソはアセトアルデヒドの製造を中止し、アセトアルデヒド化合物(有機水銀)の排水を止めた。

公害病認定された患者は2000人を超えたが、国の公害病認定の判断基準がこの1968年まで、とされたために公害病認定されていない者が1万人を超えた。その中には訴訟によってのちに公害病認定された者、チッソに一時金を支給をされた者などもいる。しかしながら診断を受けなかった者や、それ以前に亡くなった者、訴訟中に亡くなった者もいるのだ。

患者やその家族、どれほどの人々が苦しみ、尊い命が犠牲になったことか。そして治ることのないこの病気の苦しみは続くのだ。

 

 

ある人の水俣の人々に対する励ましの言葉がある。

 

「この中には、公害による病を抱えた方もいらっしゃるでしょう。しかし、それにも負けずに、強く生き抜くこと自体が、人々の希望となります。苦しみをかみしめてきた皆さんには、幸福になる権利がある。皆さんの手で社会を変えていくんです。」

「水俣の変革といっても、それはそこに住む一人ひとりの生命の変革、人間革命による以外ありません。一個の人間革命が、やがて一国の宿命転換をも可能にすることを説いているのが仏法です。皆さんは、この水俣の地にあって、『人間革命』即『社会の宿命転換』の原理を、証明していっていただきたい」

 

 

『水俣の

友に幸あれ

長寿あれ

仏土の海で

今世を楽しく』

 

 


 

責任を認めないまま、終息を狙った低額の「見舞金契約」

 

1959(昭和34)年、水俣病の患者らと交わした「見舞金契約」。水俣病の原因がチッソであるとは認めない『見舞金』。死者30万円、生存者年金(成人10万円、未成年者3万円)、葬祭料2万 円などとなっており、当時としても極端に低額なもの

 

そして、もし将来、チッソの工場排水が原因だと決まっても、新たな補償金の要求は一切行わないという、今後責任を追及されても補償はしないという予防線、責任逃れ、無責任極まりない対応だった。

 

⇒この契約は、のちに判決で公序良俗に反するとして「無効」とされた

 

 

 

水俣病を止められなかった「企業城下町」の構造

~チッソはなぜ責任を否定し続けられたのか

 

1973(昭和48)年3月、第1次訴訟が始まった時点では、チッソはまだ発生源であることを否定していた。

(1968(昭和43)年の5月にチッソがアセトアルデヒドの製造中止してから5年後)

事態は紛糾し、チッソの態度に業を煮やした水俣病の患者やその支援者がチッソの一株株主となって、株主総会に参集したこともあった。

なぜチッソがそこまで責任を認めなかったのか理解に苦しむ

 

当時はチッソを擁護する発言が多かった。たとえば訴訟も、当時は水俣の市民から一部批判が起きた。チッソは当時、日本の中核を担うといっても過言ではない、重要な企業となっていた。重化学工業へと日本の産業が転換していく中で、大きな役割を果たしていた。だからこそ、国も簡単にチッソが原因だとは認めなかった。

彼らの地域への影響も強かった。チッソは、水俣市の経済を一手に担うほどの存在となっており、水俣市はチッソの「企業城下町」のようになっていた。水俣市の税収の半分以上がチッソ関連となる時期もあり、地域と企業の関係は非常に強かった。

だからこそ、水俣病の被害が表面化し、それを訴える住民が現れても、他の住民から批判される、ひどい場合は差別されるという事態が起きた。

 

 

 

 

最初に漁民が被害を訴え始めたとき、それを批判する住民も多かった。また、被害が拡大する中で、マスコミの報道が増えたが、それにより漁業以外の産業も風評被害で打撃を受け、水俣出身というだけで結婚や就職などにおける差別も生じた。

その際、チッソではなく患者に怒りの矛先が向けられていた事実があったようだ。チッソと被害に遭った患者(とその家族)の深い溝だけでなく、チッソで働いている従業員とその家族、患者・その家族との市民同士の感情的な対立も深刻だった。

チッソ城下町という背景、水俣の経済を担うチッソが加害者だったからこそ、住民と住民の対立構造が起きてしまった。チッソが責任を否定し続けることを助長することにもなったようだ。

 

 

 

 

チッソ・水俣工場が、原因となったアセトアルデヒドの製造を停止したのが1968(昭和43)年の5月。そして、停止から4カ月が経過した同年9月、ついに政府は工場排水が原因だという見解を示す。

この頃、新潟でも第2水俣病と呼ばれた有機水銀中毒が発生しており、非常に大きな社会問題になっていた。1968年8月にチッソの労働組合の「恥宣言」。水俣病の公式確認からここまで、労働組合として企業に責任を追及しなかったことを「恥」とし、その後は、組合として水俣病に取り組む姿勢を明確に宣言したもの。ここに至ってチッソの社員からも、ようやくこうした動きが出てきた。

1959年8月(昭和34)の漁民による反対運動から数えると9年後のことである。

 

 

 

 

『前回のおさらいと補足』

 

1959年7月に有機水銀が原因の可能性を医学研究班から指摘された

チッソは御用学者を使って原因は工場排水ではないと他説で反論、煙に巻こうとした(責任逃れ、保身)

水俣だけではなく、公害を垂れ流した企業側は数多くの死者や患者が出てもシラを切りとおそうとしてきた

住民を守るべき行政担当者もその企業が、税収をはじめ地域経済のよりどころなので対応は弱腰だった

企業の支援を受ける政治家たちも企業擁護に狡猾に動いた

住人の中には公害企業に長いものには巻かれろの姿勢を取り続けたものも

その保身ともたれあいの心が作り出した構造がたくさんの犠牲者を出した

 

 

 

ある被害者の、加害者・チッソに対しての発言

 

『銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆(幹部)の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に42人死んでもらう

(幹部の)奥さん方にも飲んでもらう。胎児性の(子供)生まれるように。そのあとに順々に69人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

 

 

 

被害拡大の一因 ~ 食品衛生法適用されず

 

熊本県は食品衛生法に基づき、水俣湾の魚介類の捕獲や摂食の禁止を検討し、昭和32年(1957年)8月に厚生省(現在の厚生労働省)に食品衛生法の適用の照会をした。だが厚生省は水俣湾内の魚介類すべてが有毒化しているという明らかな根拠は認められないとして、熊本県・行政からの自粛にとどまった。

結果的にはこのために被害が拡大したといえる。

 

 

 

病気に対する差別

 

当初、水俣病は伝染病の疑いがあると考えられ、患者は隔離病棟に入れられた。患者を出した家は消毒され、人々はその家の前を鼻をつまんで駆け抜けた。親しい人も病が伝染ることを恐れて来なくなった。

共同井戸を使うことも禁じられ、子供も仲間外れに。患者の家族が買い物に行っても、手で金を受け取ってもらえずにザルや箸が使われた。その精神的苦痛は察するに余りある。無知が人々の誤解や偏見を生み、患者やその家族の苦しみを生んだ。

 

 

 

被害者に補償金が出るようになると、「お金目当てのニセ患者だ」などと誤解 に基づく差別や「補償金をもらってよかね。私も水俣病になりたい」といった妬みや誹謗中傷 があった。

当時、チッソに依存して生活している人たちが多く(最盛期は水俣市民の約半分がチッソで働いていた)、企業城下町という意識が市民の中に浸透しているため、工場を守る、自分たちの生活を守るという気持ちから、患者の行う活動(補償を求める活動)を快く思っていない人たちもいた。

患者・その家族をとりまく環境はつらいものだった。同じ市民でありながら、患者・家族とそのほかの市民との対話はとだえ、地域社会のつながりまで壊れてしまった

また、患者・家族だけでなく水俣市民がよその人から差別されることがあった。それは、水俣病が空気や食べ物で伝染ったり、遺伝したりすると思われたり、水俣地方特有の病気(風土病)と間違われたりしたため。水俣出身だということで就職や結婚を断られたり、水俣を通るときは電車やバスの窓を閉めたりするなどの差別を受けることも。そのため、市民が水俣出身と胸をはって言えないことも多かった。

 

 

 

 

 

 

Q 水俣病の人は差別を受けて外に出られなかった時、どうやって生活していたのか。

A 差別が最もひどいときは、差別やいじめを恐れて、家族に患者がいることを隠して生活をしていた、雨戸を閉めてひっそりと暮らしていたこともあった

 

Q 水俣病への差別はどんなものがあったのか。

A 当時は病気のことがよく分かっておらず「奇病だ、伝染病だ」といわれのない差別や偏見があり、患者やその家族と会うことを拒まれる、近所付合いがなくなる、共同の井戸を使用できない、店で物を売ってもらえない、外を出歩くことを許されないなどで、石を投げられたりもしたという患者もいた。

病気に対する補償がされると、妬みやお金目当てのニセ患者と思われ、地域の中で孤立した人もいた

 

Q 水俣病の患者さんやその家族の方の苦しみや願い。

A 病状の苦しさ、身体的な辛さ、家族を病気で失った辛さはもちろんのこと、地域内の身近な人たちからの差別や偏見、いじめなど精神的な苦痛が辛い、苦しいという方も多くおられる。語り部講話では、相手の立場になって考え、差別や偏見、いじめを行わないようにしてほしいといったことを話されている。

 

Q 水俣病にかかった人は、病気の他に苦しいことはどんなことか。

A いじめや差別が辛かったといわれる。特に、地域内や近所、あるいは親戚から受けた差別やいじめは非常に苦しく心が深く傷ついたようだ。

 

Q 水俣病の患者やその家族の方は、どのような思いや願いをもっているのか。

A 患者やその家族は、それぞれの考えや立場があり、一概にはいえないが、水俣病のことを理解して 差別や偏見をなくすこと、水俣病のような公害を二度と起こしてほしくないことなど、それぞれの想いを広く伝え、理解してほしいと願っておられると思う。

 

 

 

【病気に対する補償がされると、妬みやお金目当てのニセ患者と思われ】

1979年(昭和54年)G民党政調会長・某の発言

 

熊本県では申請すれば水俣病患者になってカネがもらえるから、そのうち県民全部が水俣病患者になる。私も熊本に住んで水俣病患者になりたい】 

 

患者への差別、侮蔑発言の極み

弱者切り捨て、単独過半数の傲慢、利権でつながった政治屋集団

時代は変わってもここはこういう体質