水俣湾(熊本県)について想うこと★その5 ~ 【加害者・チッソ】前編 | ふるふワールド

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チッソは、明治の終わりに水力発電の会社としてスタート。その電力を利用してカーバイト工場(炭化カルシウム製造)を水俣に作り、やがて化学肥料の生産を始める。日本にとって重要な化学会社として成長した。 チッソの発展は水俣のまちの発展でもあった。水俣は人口が増え、熊本県下でも有数の工業都市となり、元工場長が市長を勤めるなど、地域に対するチッソの影響力や住民のチッソへの依存度も大きくなった。

チッソは化学肥料のほか、酢酸、塩化ビニ-ルやその成形に必要な可塑剤(かそざい) の生産に力を入れ、戦後も日本の高度経済成長を支える企業の一つとなった。 大正時代からチッソ工場排水による海の汚染は、たびたび問題になっていた。

 

しか し、チッソは1932年(昭和7)から1968年(昭和43)まで、酢酸や可塑剤などの原料となるアセトアルデヒドを作るときに触媒として無機水銀を使用し、その過程で副生されたメチル水銀を1966年(昭和41)まで、ほとんど無処理のまま海に流していた。 チッソは工場排水が水俣病の原因とわかってからも、操業中止はしなかった。 最初の水俣病裁判の判決の中で、このような企業倫理の欠落は厳しく批判された。

 

 

 

 

 

▼水俣病の原点合成酢酸

チッソの水銀垂れ流しは1932年(昭和7年)から1968年(昭和43年)

 

  • 1906年 - 曾木電気株式会社設立。社長は野口遵鹿児島県伊佐郡
  • 1907年 - 日本カーバイド商会設立。
  • 1908年 - 曾木電気株式会社と日本カーバイド商会が合併し、商号を日本窒素肥料株式会社に変更。

 

1908年(明治41年)  日本窒素肥料株式会社 (チッソの前身)が水俣に工場をたてる

1932年(昭和7年) チッソが水俣病の原因物質のメチル水銀を水俣湾に流し始める 

 

水俣工場では、カーバイトからアセトアルデヒドを経て酢酸を合成する工程が工場長・橋本彦七(のちの水俣市長)の手によって完成していった。このアセトアルデヒドを合成する工程が水俣病発生の原因物質をつくった。

 

  • 1950年1月12日、日本窒素肥料株式会社は、企業再建整備法に基づき、新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再発足。本社は東京都千代田区
  • 1956年 - 水俣病患者の公式確認。

 

1958年(昭和33年)9月 水俣病が公式確認され(1956年5月)、水俣湾周辺に患者が次々に発生したので、新日窒水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から八代海に面した水俣川河口の八幡プールへ変更し、広大な廃棄場に排水した。しかしこのために水俣川河口付近から不知火海沿岸に水俣病患者が発生した。

 

 

変更後、赤の四角の部分

これによって水俣市の北部、芦北地方や八代市まで被害が拡大したと思われる

 

 

1959年 ▼再び百間排水口へ

事態を重視した通産省(当時)は、1959年にチッソに水俣川への排水を中止するよう行政指導し、チッソはサイクレーターという効果のない見かけだけの浄化槽を設置して、再び百間排口に排出することにした。

 

1959年7月 熊本大学水俣病研究班が「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」と発表

  • 7月、不知火海沿岸漁民総決起大会と水俣市内デモ行進。それに続く工場への乱入と警官隊との衝突により、100余名の負傷者が出る
  • 12月、水俣病患者と家族でつくる「水俣病患者家庭互助会」と新日本窒素肥料は「見舞金契約」を結んだ。この契約はのちに水俣病第1次訴訟判決(1973年3月20日)で「公序良俗に反する」として無効とされた
 
 
 

1960年 

  • 1月、泥・廃水プールでの廃水処理(排泥にメチル水銀を吸着させて除去)が開始
  • 8月、精留塔ドレーン(廃液)のリサイクル(循環方式)の実施

 

チッソが水銀浄化をうたって設置した排水浄化装置「サイクレーター」

完成は1959年12月19日。同年末、チッソは患者側と低額の見舞金契約

を締結。世間では水俣病問題が終結したかのように扱われたが、そもそもこの装置に水銀除去機能などなかった】

 

この後もチッソは9年間工業廃水を垂れ流し続ける

 

 

 

化学工業メーカーのチッソ。もともとその工場内では労災事故が多く発生していたそうで、従業員の労働環境を顧みず利益を追求する経営姿勢があったようだ。1959年頃には水俣病は工場からの工業廃水が原因だということは周知の事実になり、激しい住民運動やデモが起こった。

 

チッソは水銀浄化のために排水浄化装置「サイクレーター」を設置したが、これは浄化機能などないただの循環装置でまったくのダミーだった。浄化装置を作るには莫大な費用が掛かり、あくまで利益を優先して水俣病の被害拡大を知りつつ、住民や患者をだまして工場廃水を流し続けた

チッソ社長及び経営陣の判断であろうが悪質極まりなく、確信犯的な企業犯罪、集団殺人と言っても過言ではないと思う

 

このチッソの体質は自分たちさえよければ他人などどうなってもいい、自分たちの利益や保身のためには被害が拡大しようが、患者が増えようが、苦しもうがどうでもいいというエゴイズムの極致、別の言い方をすれば人間に内在する元品の無明(がんぽんのむみょう)としか言いようがない

 

水俣病を含め第2水俣病と言われた新潟県阿賀野川水銀中毒、富山県のイタイイタイ病、四日市ぜんそくの4大公害病に代表される大気汚染、水質汚濁、、

経済至上主義、利益追求のための環境破壊にとどまらず結果的に住民の健康を害し、命の尊厳までも踏みにじる公害問題の根源的原因だと思う

人間のエゴイズム、冷酷、残虐性は戦争も然りで、戦争という大義名分でのナチスによるユダヤ人大量大虐殺(ホロコースト)もその一例ではないだろうか

 

 

 

 

見舞金契約1959年)

水俣病患者と家族でつくる「水俣病患者家庭互助会」とチッソが1959年12月30日に結んだ。同社が水俣病の責任を認めないまま、死亡患者に一時金30万円と葬祭料2万円、成人の生存患者に年金10万円、未成年の場合同3万円を支払う内容で、当時としても極端に低額だった。将来、水俣病の原因がチッソの工場排水が原因と分かっても、患者側は新たな補償金の要求は一切行わない、とする内容も盛り込んでいて、後に水俣病第1次訴訟判決(73年、熊本地裁)で「公序良俗に反する」として、契約は「無効」とされた。

 

⇒1985年日航機墜落事故でも日本航空側は事故に巻き込まれた被害者の遺族に対しての補償金を安くすませようとしてマスコミに報道され、世間からも激しい批判を浴び、再度交渉に入ったということがあった