水俣湾(熊本県)について想うこと★その6 ~ 【加害者・チッソ】後編 | ふるふワールド

ふるふワールド

映画が3割、残りはノンジャンル
記事への感想もらえたら嬉しいです...つらつら続けて10年目

1956(昭和31)年の5月、初めて奇病発生が確認され、水俣は騒然となり始める。伝染病ではないかと人々は恐れ、奇病と呼んだ。水俣保健所、水俣市立病院、市の医師会、それに市の衛生部は五月二八日、水俣市奇病対策委員会を結成し、熊本大学医学部に原因調査を依頼する。

 

これを受けて熊大医学部は、水俣奇病研究班を結成。伝染病ではないこと、水俣湾産の魚介類の摂取による、ある種の重金属中毒と考えられる、その時点では原因物質は特定されてはいないものの、問題の所在を適確に指摘していた。

水俣工場に強い疑いの目がむけられていた時の水俣市の市長は橋本彦七。彼は、水俣病の原因物質が副生されることになるアセトアルデヒド酢酸合成工程の発明者で、水俣工場の元工場長。

 

水俣病の原因が科学的に解明された後も、政府は原因者を公表せず知らないフリを決めこむ。しかし、新潟にまったく同じメカニズムから発生する有機水銀中毒症の多発が判明するに及んで逃げ切れないことを知り、厚生省は68(昭和43)年、水俣病は、「水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因である」と断定するに至る。

 

 

 

  • 1958(昭和33)年
  • 新日本窒素肥料社長に吉岡喜一が就任。
  • 34年より同社水俣工場の廃液に起因する水俣病が社会問題となり、39年社長退任。51年1月メチル水銀を含む工場排水を水俣川にたれ流し、水俣病患者を発生させたとして、患者側から殺人傷害罪で告訴され、熊本地検から業務上過失致死傷罪で起訴された。54年一審で7人の被害者中の2人について致死罪が成立、二審を経て、最高裁上告審でもこの判決が支持され、63年3月に有罪(禁固2年、執行猶予3年)が確定した。

 

1965(昭和40)年 社名を新日本窒素肥料からチッソに変更

 

メチル水銀垂れ流し時期  

昭和7年(1932年)~ 昭和43年(1968年)

 

●歴代社長

白石宗城1951年(昭和26年)~ 1958年(昭和33年) この白石や前社長が刑事告訴されなかったことも疑問

 

吉岡喜一1958年(昭和33年)~ 1964年(昭和39年)  水俣病の原因を作った新日本窒素肥料の社長として刑事訴追を受け、1988年に最高裁で業務上過失致死傷罪を認めた上で社長吉岡と元工場長の西田栄一とともに有罪判決が確定。この2人の有罪は当然として前社長の白石、その前の社長や工場長の責任も問われるはずなのだが、吉岡と西田にすべての責任をなすりつけ終わらせる姑息さ、国も絡んだ闇があるのではと思う

 

 

江頭豊1964年(昭和39年)~ 1971年(昭和46年)※

 

1964年 江頭がチッソ社長に就任

1968年(昭和43年)5月 水俣工場、アセトアルデヒド製造を中止

つまり熊本大の原因究明以降も9年間もチッソは海に水銀を垂れ流し続けた。

 

長年に渡って有機水銀という毒を流し続けた百間排水口、この看板が立っていた

 

看板の横に犠牲者の供養の祠

 

水俣病を引き起こした負の遺産・今も残る百間排水溝

 

 

 

1970年 チッソが総会屋を使って、株主からの責任追及を回避

これを「社長江頭が暴力団を使って水俣病患者の声を封じ込めた」と評価する人もいる

 

1971年 江頭豊がチッソ社長を退任(在任7年間)

 

※江頭 豊 チッソ株式会社社長1964年12月 - 1971年7月)。

明治41年生まれ。昭和8年日本興業銀行に入社。昭和37年新日本窒素肥料(現チッソ)にうつり、昭和39年(1994年)社長。46年会長。チッソ水俣工場の排水が原因となった水俣病の補償交渉にあたる。昭和48年水俣病訴訟で患者側勝訴となり、会長を辞任

水俣病の初期の7年間、江頭豊がチッソの社長として補償・責任問題についてチッソの陣頭指揮を取っている。

 

ウィキペディアの水俣病」には社長・江頭の一字もない。江藤が社長に就任後の4年間は工業廃水を流し続けていたにも関わらず、刑事告訴されていない

邪推だが天皇家皇太子妃雅子の母方の祖父ということで不名誉な履歴は不都合

圧力が掛かったとも思える

 

 

 

2018(平成30)年

 

水俣病の原因企業チッソの後藤舜吉社長(83)が、「救済は終わっている」との発言について、大阪市で28日に開かれた株主総会で問われ、「特措法水俣病被害者救済法)による救済は終わっている。一部を除いて被害者への支払いは終えており、その意味で救済が終了したのは間違いない」と述べた。また、「救済の終了とは言いがたい」との考えを示した環境相との見解の違いを認めた。

 

⇒早く水俣病に、都合が悪いことに幕を引きたいようにしか受け取れない。

 

 

 

現チッソ(当時は新日本窒素肥料)が昭和7年からメチル水銀を含む工業廃水を流し始めた時代背景

 

昭和7年(1932年)の出来事

五・一五事件 (海軍将校と陸軍士官候補生の一団が犬養首相を襲ったテロ事件。

軍部の政治的影響力が拡大し、政党内閣制崩壊

アメリカが日本と中国に、日本の満州占領不承認のスティムソン・ドクトリンを通告する。

 

昭和8年(1933年)

 

日本が国際連盟を脱退し「非常時」の掛け声高まる

日本軍、山海関で中国軍と衝突。関東軍出動(山海関事件)。

ヒトラーが独首相に就任。

ローズベルト、米大統領に就任。ニューディール政策の開始。

 

※当時、日本は軍事的に中国に侵略中、国際的に非難を浴びて国際連盟を脱退して日中戦争、太平洋戦争へと突入していく。明治時代の富国強兵ではないが軍備増強に向けて軍事政府が工業を推奨していた

 

日中戦争  1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件 ~ 1945年8月日本の降伏で終わった

太平洋戦争 1941年(昭和16)12月7日 – 1945年9月2日

 

 

有機水銀垂れ流し 昭和7年(1932年) ~ 昭和43年1968年

 

昭和39年(1964年) 東京オリンピック

おおよそ昭和30年(1955年)から昭和47年(1972年)が高度成長期

戦後の高度成長期の中で国も工業発展を推奨していた時期

戦争と高度経済成長の違いがあるが国が工業推進を推奨していた点は共通項