責任を認めないまま、終息を狙った低額の「見舞金契約」
1959(昭和34)年、水俣病の患者らと交わした「見舞金契約」。水俣病の原因がチッソであるとは認めない『見舞金』。死者30万円、生存者年金(成人10万円、未成年者3万円)、葬祭料2万 円などとなっており、当時としても極端に低額なもの
そして、もし将来、チッソの工場排水が原因だと決まっても、新たな補償金の要求は一切行わないという、今後責任を追及されても補償はしないという予防線、責任逃れ、無責任極まりない対応だった。
⇒この契約は、のちに判決で公序良俗に反するとして「無効」とされた
水俣病を止められなかった「企業城下町」の構造
~チッソはなぜ責任を否定し続けられたのか
1973(昭和48)年3月、第1次訴訟が始まった時点では、チッソはまだ発生源であることを否定していた。
(1968(昭和43)年の5月にチッソがアセトアルデヒドの製造中止してから5年後)
事態は紛糾し、チッソの態度に業を煮やした水俣病の患者やその支援者がチッソの一株株主となって、株主総会に参集したこともあった。
なぜチッソがそこまで責任を認めなかったのか理解に苦しむ
当時はチッソを擁護する発言が多かった。たとえば訴訟も、当時は水俣の市民から一部批判が起きた。チッソは当時、日本の中核を担うといっても過言ではない、重要な企業となっていた。重化学工業へと日本の産業が転換していく中で、大きな役割を果たしていた。だからこそ、国も簡単にチッソが原因だとは認めなかった。
彼らの地域への影響も強かった。チッソは、水俣市の経済を一手に担うほどの存在となっており、水俣市はチッソの「企業城下町」のようになっていた。水俣市の税収の半分以上がチッソ関連となる時期もあり、地域と企業の関係は非常に強かった。
だからこそ、水俣病の被害が表面化し、それを訴える住民が現れても、他の住民から批判される、ひどい場合は差別されるという事態が起きた。
最初に漁民が被害を訴え始めたとき、それを批判する住民も多かった。また、被害が拡大する中で、マスコミの報道が増えたが、それにより漁業以外の産業も風評被害で打撃を受け、水俣出身というだけで結婚や就職などにおける差別も生じた。
その際、チッソではなく患者に怒りの矛先が向けられていた事実があったようだ。チッソと被害に遭った患者(とその家族)の深い溝だけでなく、チッソで働いている従業員とその家族、患者・その家族との市民同士の感情的な対立も深刻だった。
チッソ城下町という背景、水俣の経済を担うチッソが加害者だったからこそ、住民と住民の対立構造が起きてしまった。チッソが責任を否定し続けることを助長することにもなったようだ。
チッソ・水俣工場が、原因となったアセトアルデヒドの製造を停止したのが1968(昭和43)年の5月。そして、停止から4カ月が経過した同年9月、ついに政府は工場排水が原因だという見解を示す。
この頃、新潟でも第2水俣病と呼ばれた有機水銀中毒が発生しており、非常に大きな社会問題になっていた。1968年8月にチッソの労働組合の「恥宣言」。水俣病の公式確認からここまで、労働組合として企業に責任を追及しなかったことを「恥」とし、その後は、組合として水俣病に取り組む姿勢を明確に宣言したもの。ここに至ってチッソの社員からも、ようやくこうした動きが出てきた。
1959年8月(昭和34)の漁民による反対運動から数えると9年後のことである。