水俣湾(熊本県)について想うこと★その10 ~ 反対運動 | ふるふワールド

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 漁民騒動

 

1957年(昭和32年)多発する水俣病(この時点ではチッソによる工場排水、有機水銀によるものとはわかっていない)熊本県は、水俣湾産魚貝類が危険につき摂食を差し控える警告を水俣病患者多発地域に発した。地元の報道で魚貝類の有毒性を知った消費者が、魚貝類の購入をやめた。そのために、患者世帯だけでなく、患者のいない漁民や魚仲買商、魚販売者も大きな打撃を受ける。それと同時に、旅館や料亭も利用者が激減した(水俣湾が一般海域として漁場開放され、水俣市漁協が操業を再開するのは平成9年)

水俣病は、水俣病患者の発生と漁民及び漁業関係者の生活破壊という二つの悲劇を引き起こした。

 

 

 

 

 

1957(昭和34)年 熊本大学医学研究班により奇病の原因が有機水銀である可能性が指摘されたが、加害者チッソはその責任を認めず、卑劣にも御用学者等を使って、他説で反論させた。

その間に発病者は水俣周辺から不知火海沿岸に拡大していく。地元で捕れた魚は売れず、漁民の生活はひっ迫していった。1959(昭和36)年8月には水俣市漁協の人々が補償を求める闘争を展開。10月には不知火海沿岸の漁民も決起した。翌11月には漁民たちの怒りが頂点に達し、チッソ水俣工場内に突入し、施設の一部を壊す騒ぎが起こった(漁民騒動)

 

 

 

 

その後、県知事が調停委員会を設置して県漁連(熊本県漁業協同組合連合会)とチッソの仲裁に入った。県漁連の25億円の要求に対して、最終的には補償3500万円と6500万円の融資、しかも漁民たちが工場に突入の際に壊した施設の弁償代1000万円が差し引かれたもの。

1世帯あたりわずか1万5千円程度。漁業をやめ、生活の道を閉ざされた漁民への補償としてはあまりに少ない額だった。

 

 

1959(昭和34)年11月 被害患者が組織する水俣病患者家庭互助会が、患者一人当たり300万円の補償をチッソに求めた

 

チッソは補償を拒否。互助会のメンバーは工場前に座り込む抗議行動に出るが、周囲の水俣市民の反応は冷たかった。前回も触れたように水俣市は「チッソ城下町」「企業城下町」であった。チッソ水俣工場の発展で日本有数の工業都市として水俣市以外の熊本県から、九州各地から、また遠方から職を求めて水俣市に転入してきた者もいる。患者が騒いで工場が生産そのものを中止した場合、また水俣から仮に工場が撤退した場合、この当時市民の半分がチッソ関連の工場で働いていたため、彼らが一斉に仕事を失うことにつながることになる(昭和24(1949)年の人口約4万2千人⇒1959(昭和34)年当時は約5万人弱

 

互助会とチッソは県知事を中心とする調停委員会によって見舞金契約を結ぶ。だが、これは調停委員会からこの契約をのまなければ調停をやめると言われた末での苦渋の選択だった。

見舞金は死者30万円、生存者の成人患者に年金10万円、未成年の患者3万円、葬祭料2万円

(水俣病は治らない。一生苦しみ続けなければならない)

(のちの訴訟でこの契約は公序良俗に反するとして無効になる)

 

 

 

 

この契約には、将来、水俣病がチッソによる工場排水が原因と決定しても、新たな補償金要求は一切行わない。しかもその裏でチッソ経営の医院長による猫実験で、原因は自社の工場排水だということを報告されていたにも関わらず社長以下、チッソ上層部はその報告を握り潰していた。まさに確信犯であり企業犯罪である。それを知っていた上での保身、責任逃れ、あくまで水俣病患者を犠牲にしながらの利益優先だった。

そして調停委員会、熊本県側もチッソ側だった。

多くの患者が釈然としない思いでやむなくその見舞金を受け取った。

人間の生命は、決して金に換算できるものではない。

見舞金契約には加害者側の謝罪の「心」も、人間の「涙」もなかった。

 

1968年 国がようやく水俣病の原因を、工場排水に含まれたメチル水銀化合物が原因と認め、チッソはアセトアルデヒドの製造を中止し、アセトアルデヒド化合物(有機水銀)の排水を止めた。

公害病認定された患者は2000人を超えたが、国の公害病認定の判断基準がこの1968年まで、とされたために公害病認定されていない者が1万人を超えた。その中には訴訟によってのちに公害病認定された者、チッソに一時金を支給をされた者などもいる。しかしながら診断を受けなかった者や、それ以前に亡くなった者、訴訟中に亡くなった者もいるのだ。

患者やその家族、どれほどの人々が苦しみ、尊い命が犠牲になったことか。そして治ることのないこの病気の苦しみは続くのだ。

 

 

ある人の水俣の人々に対する励ましの言葉がある。

 

「この中には、公害による病を抱えた方もいらっしゃるでしょう。しかし、それにも負けずに、強く生き抜くこと自体が、人々の希望となります。苦しみをかみしめてきた皆さんには、幸福になる権利がある。皆さんの手で社会を変えていくんです。」

「水俣の変革といっても、それはそこに住む一人ひとりの生命の変革、人間革命による以外ありません。一個の人間革命が、やがて一国の宿命転換をも可能にすることを説いているのが仏法です。皆さんは、この水俣の地にあって、『人間革命』即『社会の宿命転換』の原理を、証明していっていただきたい」

 

 

『水俣の

友に幸あれ

長寿あれ

仏土の海で

今世を楽しく』