NHKFMは2025年12月13日に「今日は一日“渋谷陽一”三昧」が放送されました。トータルで3時間45分と三昧シリーズとしては短いですが、ミュージシャン以外での特集自体が異例中の異例なので番組表に見えた時は驚きました。

 

リスナーのある方が「渋谷さん亡き後はすっかり洋楽迷子です。」のようなニュアンスでメッセージを寄せていたのが、私の場合も全く同じ想いであって、氏がパーソナリティを務めていたワールドロックナウとは正に渋谷陽一そのものだったと痛感するのであります。好き嫌いはあるとしても唯一無二の「音楽評論家」であり続けた方でした。

 

「今日は一日“渋谷陽一”三昧」に関してはNHKFMならでの、豊富な過去のアーカイブを編集してもっと聞かせて欲しかったとの期待が大きかったこともあり、個人的には少々残念でした。それに輪をかけたのはエンディングの編集でした。アーカイブからサウンドストリート最終回の別れ歌(Stairway to Heaven)を紹介する彼の肉声に続き同曲で幕を閉じる流れでしたが、時報を優先するためなのか何と!終わり間際に時間切れでフェイドアウトになってしまったのです。偶然かもしれませんが、同じNHKFMで2025年12月6日に「世界の快適音楽セレクション sameの音楽」内でコンサート映画The Song Remains the SameからStairway to Heavenを聴いたばかりだったことも手伝って、「せっかくの特集なのに、これじゃ渋谷さんが天国の階段から足を踏み外しちゃうじゃないか。」と気の毒にさえ思えてしまいました。

 

Jimmy Pageが1944年の1月生まれなので、もうじき82歳を迎えられるのですね。敬愛する同氏を念頭に置いてか、渋谷さんもまだまだ頑張らねばと仰っていたのを思い出します。

 

丸の内地下道で初見となるガシャポンに遭遇

少し前に所用で出かけた東京駅は丸の内地下道を歩いていると、「こんなところにもあるんだなぁ。」となかば呆れてしまいながらガシャポンゾーンが行く先に見えました。毎度恒例の観て回らないと気が済まない病が発症。そしていきなり視線の先にあったのが「歌川広重」の文字でありました。他にも「地元ではこんなの見たことないぞ。」というのが多く、外国人旅行客と思しき方々がガシャガシャしているのを見て、なるほど傾向が違うのは彼らをターゲットにも想定しているせいなのかと納得するのでした。

 

海洋堂意匠なのに200円!

引き寄せられたのは昭和世代であれば永谷園がお茶漬けのおまけ?で馴染みのある浮世絵を立体化したフィギュアでありました。海洋堂の名前が見え、しかも驚いたことに200円なのです。以前ガシャポン売場をうろついていた時「これ300円だって。安い!」と女子学生さんの声が聞こえてきて「ガシャポンって言ったら昔は100円が普通だったんだけれどね。」とため息をついたものです。

 

 

彼女たちの感覚を横取りするのであれば、「1回200円なんてヤバい!」ではあるものの、このような製品は少ない上にあったとしても出来に期待が持てないのが専らなのです。しかし、これは海洋堂とあるので驚いてしまったのです。

 

狙いは名所江戸百景「大はしあたけの夕立」でしたが

1回200円と言えどもどつぼにハマるのは避けたいので、2回までと決めていざ投入。欲しいのは名所江戸百景「大はしあたけの夕立」でした。出てきたのは東海道五十三次の「庄野・白雨。これはこれで自分にとっては限りなく当たりに近いのですが、2回と決めていたので再トライ。

 

 

少なくともダブりは避けたいとの願いは虚しく、この時点での心境としては外れ中の外れとなる「庄野_白雨」が転がってきました。ダブったのは玄関にでも飾っておこうと気を取り直している脇で、連れがお金を投入しているではないですか。そして落ちてきたのが名所江戸百景「大はしあたけの夕立とは。相変わらず引きの良い妻には驚かされます。

 

安藤広重じゃないのですね

先の永谷園のおまけや日本史で習った時は件の浮世絵を安藤広重作と覚えた記憶があるのですが、こちらのフィギュアでもそうであるように歌川広重が正しいようです。調べると本名が安藤重右衛門、「安藤広重」と呼ばれたことはあるようですが、本姓の安藤に広重の号を組み合わせて呼ぶのは不適切なので自身で名乗ったことはないとのこと。「私は歌川一門ですよ。」を名乗るが常識ということでしょうか。

 

 

この機会に「庄野」「白雨」について調べてみました。「庄野」とは東海道五十三次の45番目に当たる庄野宿のことで、現在の三重県鈴鹿市になります。白雨(はくう)は夕立のうち特に明るい空から降る雨や景色が白っぽくなるような雨を表すらしいです。そして「大はしあたけの夕立」にある「大はし」は日本橋の浜町から深川六間堀にかかっていた新大橋を、「あたけ(安宅)」は江戸時代にこの大橋は隅田川東岸にあった幕府船蔵周辺の俗称であり、それは係留されていた御座船「安宅丸」に由来するとのことです。

 

 

今回出したフィギュアは、いずれも広重の得意とする独特な雨の表現でも有名な作品が元になっていて、フィギュアの出来映えとしては「庄野_白雨」の方にやや軍配が上がる印象でしたので、ダブりはしたものの悪くない結果でありました。

 

 

タイトルは知らなかったけれど

NHKFMにて毎週放送の「THE ALFEE 終わらない夢」にて、長谷川きよし氏は1971年に発表されたアルバム「卒業」から「黒の舟歌」が選曲されました。なんでも野坂昭如氏が歌ったことで有名とのMCがあって、「黒の舟歌」なる曲名は知らなかったから「はて?何だろうか。」とさして気にもせず聞いていたのが、最初の歌詞が出てきて「なんだこれか!」と瞬時に理解したのです。かの有名な以下の歌詞。

 

男と女の間には

深くて暗い 河がある

 

楽曲そのものよりアレンジにびっくらこいたよ

歌に入ってからそれが何であるかは判明したとして、そんなことよりもっと驚いたのがイントロの管楽器によるフレーズとドラムスは物凄く聞き覚えがあって、King Crimsonの作品にあって一時期頻繁に聴いていたアルバムLizard、そこに収録されているIndoor Gamesへ一直線に繋がったのです。これは限りなく「拝借しちゃったのね。」に近く、演歌風な歌詞とプログレ風な演奏の不協和ぶりが半端なくてそれがかえってクセになりそうな強烈な印象。野坂昭如氏のバージョンは、はっきり言って嫌いでしたが、これは困惑するような笑えるような不思議な面白さがあります。

 

名前だけは知っていた

長谷川きよし氏は大昔に親父が買ったと思しき「黒猫のタンゴ」のシングルレコード外装に写真が載っていたのを見て名前だけは知っていました。彼の「どうしてあの日」という楽曲をエアチェックしてあったのと、「THE ALFEE 終わらない夢」でこの回を含めてこれまで3曲がオンエアされていたのを聞いたくらいでしたから、いかなるミュージシャンかはほとんど知らなかったのです。フラメンコやボサノバを基調とするギターの名手であると、THE ALFEEの坂崎氏が言うくらいなので凄いギタリストらしいのですが、「黒の舟歌」にはそれらしきギターは欠片もなく、歌っているだけで編曲には絡んでいないのかもしれないですね。

 

ちなみにリリースはKing CrimsonのIndoor Gamesの方が1970年で「黒の舟歌」より一年近く先なのでありました。神経質で如何にも細かそうなRobert Frippからクレームは果たしてなかったのでしょうか。どちらか言えばFripp卿はブートレグにも寛容のようですし、Indoor Gamesを収録するアルバム「Lizard」は長らく顧みられない作品でもあったようなので極東の地で引用されようが構わなかったのかも。とにかく久しぶりに魂げた長谷川きよし氏の「黒の舟歌」でありました。

 

 

と聞かれたら

 

朝、目が覚めたこと。

 

何も浮かばない時はそう答えることが多い。

 

 

 

2010年は「暑」

少し前に地元の八木橋百貨店へ出かけた時、催事場近くに毛筆による達筆で大きくと書かれたパネルが飾られていました。2010年に全国から募集した結果、最も多かった漢字一字がその「暑」だったようです。15年前だから東日本大震災の前年になるわけですが、その2011年の3月が寒かったのは覚えていても、その前年となる2010年がそんなに暑かったどうか思い出すことが出来ないのでした。毎年猛暑の夏になってしまっているから「暑」が特別響かず、むしろ冷夏だったら話題に挙がりそうなほどです。

 

「米」は有力かも

今年を表す漢字一文字は何になるでしょうか。ローカル世相で言えば伊東市や前橋市の首長に関する加熱報道から「嘘」あるいは「恥」が浮かんできましたが、ゴシップじみた下衆に過ぎるのでこれはあり得ないでしょう。全国的という意味ではかつての10kgの価格が今や5kgが相場になってしまったは有力かもしれません。消費者にとっては高くても生産者にとっては現状が適正であるとしたら、2025年はお米ビジネスにとっての分水嶺になる可能性があるからです。価格が上がれば上がるほどにお米が食の柱であることを強く認識させられて、米国とは日本の別称にこそ相応しいとさえ思える一年でした。

 

 

「熊」出没なるか?

競馬で言うところの後方から一気にごぼう抜きなる印象として、冬眠を控えた熊による騒動が思い浮かびます。全国的とは言えないまでも「こんな都市部まで現れたのは初めて。」との衝撃が各地で報道されており、埼玉県でもかねてより熊出没の知られた秩父地方のみならず、丘陵地帯の広がる中央部まで目撃情報が寄せられているのには驚きました。当該地域となる東秩父へのロードバイクによるヒルクライムではタヌキ、イタチ、それに野ウサギを見かけることはあっても、それらは一目散に逃げてゆくため野生動物に対する脅威はほぼ経験がないのです。

 

唯一ビビったのはヒルクライム中に目の前をうり坊連れのイノシシが横切った時で、多少距離のあったせいか運良く何事もなく過ぎましたが、ばったり遭遇の場合は子を守ろうとする母イノシシの先制攻撃を食らっていたかもしれないからです。これが熊だったなら想像するだけでも恐ろしくなります。鉢合わせではない状況と仮定して、追われたとしてもダウンヒルなら振り切れるかもしれませんが、亀の子印の登板中ならひとたまりもないこと必至。ということで、今年の漢字一文字として「」も票を集めそうな気がします。

 

 

ちなみに件のパネル近くには投票用紙と一緒に投票箱が設けられていたので、私は「米」と書いて投入しました。生産者さんには申し訳なく思いながらも、お米大好き人間としては家計に優しい10kgあたり3,000円前後の市場価格へ戻って欲しいと願をかけつつ。

往復60km強のサイクリングロード起点

先の三連休の事なのでほぼ一週間前になりますが、埼玉県行田市は利根川の大堰にある見沼元圦公園までサイクリングしました。ちなみに元圦とは「もといり」と読むそうで、調べたところ圦は近代的な見地からすると水門を意味し、国字を成り立ちとする漢字とのこと。なるほど、利根大堰から始まる見沼代用水路の水門が近くにある公園なので「見沼元圦公園」との名称な訳です。

 

この見沼代用水路沿いにはサイクリングロードが併走しており、ほとんど途切れることなく埼玉県の蓮田市や上尾市辺りまで続いているので、往復すれば60km以上を走ることが出来ます。まっ平らなので風がなければ気楽かつ快適なのですが、冬場の土手沿いでは特に北西からの強い季節風の洗礼を受けて、南部から見沼元圦公園へ向かうルートではかなりの負荷を覚悟する必要があります。

 

風車小屋のある公園

ところで景観上の象徴として見沼元圦公園には風車小屋があります。久しぶりに来たので「もしかしたら取り壊されているかも?」と思いながら近づくとまだ建っておりました。ただ他の遊具には軒並み「使用禁止」のテープが貼られているか、または何かを撤去したらしい形跡が認められるのみであって、基本的には荒れ果てた公園の佇まいが痛々しく見えました。公園内の案内も概ね朽ちていて、それなりに車の見える駐車場はドライバーの休憩か用足しが主な目的らしく、遊興の場たる公園としては生命を失いつつある印象です。

 

 

公園の象徴たる風車小屋には電源ケーブルが見えるので、かつてはモーターで風車を動かせたらしい痕跡が見えました。1990年代にはここを起点とするサイクリングロードをよく利用していましたが、記憶にある限りでは動いているのを見たことはないので、もうその頃からオブジェとしてのみの存在だったのかもしれません。1987年発行の地図を確認したところ、既にこの風車小屋が認められ、さらにネット情報などでは公園の整備されたのが1977年とあることから風車が動いていたのはおそらく開園当初だけだったのでしょう。

 

秋を彩る生きた化石の並木道

長かった夏から急激に季節が冬へ向かう傾向が強くなった影響でしょうか、今回走りに行った時にはイチョウの黄葉が一気に進み風に吹かれてはそれらを落とし始めていました。

 

秋から冬へと鮮やかに色づくこのイチョウとは、植物学上とても珍しい「一科一属一種」にして、いにしえの頃に宿した性質や形態が基本的に変わっていないことから「生きた化石」と言われる生物の一つとして数えられているとか。化石の調査から約4億年前の地球上に現れ、ジュラ紀には多種に渡って最も繁茂していたことが明らかにされています。それらのほとんどが氷河期に絶滅してしまい、生き残れたのが中国大陸にあった1種のみ。その唯一の種こそがいま世界中にあるイチョウの祖、つまりはこれが植樹されているので、驚くべきことに現生がすべて同一種になるのです。

 

これらイチョウが美しい頃はサイクリングが気持ちいい季節なのが、ここ数年はライド好適シーズンの短期化が加速していてあっという間に寒く空っ風吹きすさぶ冬になってしまいます。それでも関東地方では着込めば走れない寒さにはならないので、猛暑により走ると命の危険を覚えるほどの夏よりはマシかもしれません。

 

 

↓ 2007年の秋。比較すると2025年現在の放置された状態がよくわかります。

本当のきみは一体どれなの?

「現実の女の子は実に厄介なものだった。付き合うにはやたら気を使い、振り回され、怒られ、そして挙げ句の果てには捨てられる。」ドラマで観たような素敵な恋愛に比べると、想いを寄せる異性との恋愛は次第に描いていた理想からは遠ざかり、終いには複雑怪奇な様相を呈し始める。どれが本当の彼女なんだかまったくわからない。思い出す顔がいろいろありすぎるからなのだ。

 

全部をひっくるめて好きになれ

何か上手くいかず嫌なムードが充満する時、ふと気づくこと。それは「原因は半分自分にある。」ということ。こうした状況について松任谷正隆さんは「結婚離婚を繰り返す友人に、面と向かっては言えないが、このフレーズはピタリと当てはまる気がする。」と記しています。執筆当時に70歳を迎えていらした松任谷さんはこれらの解決策としての極意として

 

「全部をひっくるめて好きになること。」

「嫌いなことは素早く忘れること。」

 

と仰っています。

 

エッセイ「車のある風景」のコラム「クルマは女性が男性か」に綴られていた文章なので、当然クルマとの付き合いかたや所有車に対する複雑な想いなどを特に結婚生活と重ね合わせているわけで、なるほど自分自身にも当てはまると妙に感心したのです。

 

悟りの境地と宣うはほとんど皆ご老人なのに

尾崎豊の「たられば還暦」を間近に控えて、初めて聴いた頃は言葉を超えた何らかの意力に感動させられた彼の永遠の胸」を改めて聴きながら、少し前に読んでいたこのエッセイが連想されたのです。難解なこの楽曲で歌われていることの一義に、全くイコールではなくても近いように読めて、なおかつ松任谷さんの文章は端的で分かり易いがため腑に落ちたのでした。

 

「永遠の胸」を作詞作曲した当時の尾崎豊は24歳だったはずで、70歳の松任谷さんが気づかせてくれたことを歌っているのだから、若くしてどれだけ色々なことがあったのだろうかと、「永遠の胸」を繰り返し聴きながら生き急いでしまった若者の在りし日を偲ぶのでした。

 

対して私自身の現実はどうかと言えば、全部をひっくるめて好きになれないし、嫌いなことは素早く忘れることも出来ないのです。ただ、そう思い込むことは自分じゃない誰かと長く一緒に過ごすには大切かもしれないですね。これに付け加えるなら「諦めること」「気にしないこと」そして「独りよがりなこだわりを捨てること」かな。また、こうした心境の変化は加齢の影響も大きいと思えます。悟りの境地にあると仰る方々も概ね年寄りですから。

 

反感を覚えた「十七歳の地図」

多くのアイドル歌手が輩出されている昭和40年生まれ世代にあって、尾崎豊は異色の存在でありました。彼のことを雑誌で知り、興味本位で入手したシングル盤は記念すべきデビューアルバムの表題曲でもある「十七歳の地図」。

 

初めて聴いた時の印象はどうだったかというと、特にイントロの流れてきた瞬間は「これってBorn to Runのパクリじゃん!」でした。スリーブに採用されていた写真も白いTシャツにジーンズと、これまたBruce Springsteenっぽいし、Born to Runと同じく言葉数の多い歌詞にいたっては「こんなこと真顔で歌える奴が本当にいるのか?」なる驚きと同性かつ同世代ゆえの反感が大きく、十代の頃は正直フォローする気になれなかったものです。

 

↑ アルバム「誕生」ブックレットより

 

そしてアルバムの方は、後にどこかの街頭TVにて彼の永遠の胸」での演奏が映っていたのを見入ってしまったのがきっかけとなり、結果的に彼にとっての晩年も近くなろうという頃ようやく購入に到りました。先に聴いていたシングル盤の「十七歳の地図」がアルバムバージョンと別テイクであることもその時知ることになります。

 

また、井上陽水やJackson Browneを聴いていたという事実を知って、アルバム全体像からそれは合点がいくと同時に、編曲はともかくBruce Springsteenっぽいと感じた第一印象は制作側のイメージ戦略だったらしいと理解したのです。

 

聴き続けているB面曲「OH MY LITTLE GIRL」

「ずいぶん無理して歌っているなぁ。」と聞こえた「十七歳の地図」よりもロック色の強い歌声から逸れた、生来と思しき繊細な優しさのある声質が歌詞に寄り添うB面の「OH MY LITTLE GIRLの方が当時から今に到るまで好きであり続けています。ややもすれば袋小路に入り込みそうな観念的過ぎるきらいもある作品群や、同じバラードとして名曲とされる「I LOVE YOU」の少し息苦しさを禁じ得ぬ抜き差しならない雰囲気よりも、この楽曲の方に十代の頃の思い出が投影され易く、共感を覚えるからです。

 

尾崎豊の歌の多くに共通する街の風景や人恋しさ募る黄昏時、そして決して独りぼっちではないと確認しあうために、温もりや笑顔を求める絵が最も素直なカタチで現れているように思うのです。

 

 

そんな尾崎豊も存命であれば今年の11月29日には還暦を迎えるはずでした。道半ばにして突然逝ってしまった尾崎豊はかつてコンサートのエンディング曲「誕生」での終焉近く、観衆へ向けてこう語っていました。

 

人生は

きっと

自分のしたいことのためにあるんだと思う

 

だから

時間があると思う人は

まだ何かできると思う人は

 

今のうちに

うんと沢山

心の財産を

増やしておくといいと思う

 

そうすれば

君が求めている

その夢に

きっとたどり着ける

 

僕は

そう信じている

 

そして

君のために

そう

祈って歌い続けると

 

そして最後に

あの時

ステージを降りてからずっと考えてた

 

今日この日何を言えばいいか

それは

どんな困難にも負けないで

 

いつまでも夢を捨てないで

 

君たちへ

僕からの

精いっぱいの

愛情を

込めて

 

いつまでも

歌い続けることを

約束します

 

今日はほんとにどうもありがとう。

 

これを額面通りに受け取るのであれば、いつまでも歌い続ける約束は守られずに終わってしまったことになります。それを余儀なくさせた早逝はファンにとっての嘆き、そして尾崎豊にとっての無念でありました。しかし、彼が生み出した濃密な音源のなかで「彼は歌い続けている」ことを考えれば決して嘘でなく、命を削ってまで沢山の作品を残してくれたことには感謝しかありません。

 

そんな彼の楽曲の幾つかを久しぶりに聴き、十代の頃の恋愛感情を反芻しつつ、時の流れを辿りながら「いつまでも離れないと誓うんだ」と歌われた「OH MY LITTLE GIRL」の、時を経た今を彼がもし在ったならどう歌うのだろうかと想うのであります。

 

想像してみたその後のこと

ところで、久しぶりに尾崎豊の歌声に触れながら岸田智史の「きみの朝」がふいに浮かんできました。人によって感じ方は異なるかもしれませんが、エアチェックしてあった音源を聴いてみたら、なるほど二人の声質は似ているところがあるように聞こえました。そんな連想から、もし尾崎豊が役者に関心がありその適性があったなら、岸田智史がそうであったように教師役を演じたらどうだっただろうかと想像してみたのです。

 

彼のブレイクスルー作として知られる「卒業」で「先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか」と歌ってみせた彼が教師に転じるとしたなら、果たしてどのような脚本になるのだろうかとか、職員室側と生徒達の狭間でどう演じるのであろうとか。そんな未来があって欲しかったなぁと。

 

今回は入れたミュージアムカフェ・エミール

美術館や博物館にはお洒落なカフェやレストランの併設されていることが多く、館林美術館にもエミールという瀟洒な佇まいのそれがあります。前回来たときは大人気の「はしもとみお展」だったせいか、平日にも関わらず満席かつ待ちが出ていて残念無念の断念でしたが、同じく平日の今回は楽勝で入れました。

 

注文したのは以前頂いて感激した、数量限定の「ソーセージ&ベジプレート」です。地元食材をふんだんに使ったワッフルプレートということで、館林産ブランドの「百年小麦」によるワッフル生地は言うまでもなく、野菜にも気持ちのいい歯触りや香り、そして旨味があります。それだけでも十分美味しいのに、特筆すべきは中央にドンと置かれたソーセージがこれまた肉の旨味の強調された、野趣溢れる味わいがお野菜とよく調和して素晴らしいのです。

 

 

 

 

撮影OKと言われて入場したよ

はしもとみお展を観た段階で、次回特別展のパンフレットにロイヤルコペンハーゲンの磁器らしき写真が見え、興味があるので予定しておりました。こちらは前回の特別展とは対照的に空いていました。はしもとみお展と同じく、会場に入る前に「撮影OKですよ。」と言われたので「今回は作品と言うより工業製品寄りということかな。」と解釈して進みます。

 

 

展示品に対する全体的な印象は、日本の象嵌のような病的なまでの精緻さには乏しく、大らかで柔らかい造りの作品が多い感じ。生意気を言わせてもらうのであれば、大ざっぱな印象でもあります。そして造形として惹かれるのはやはりいきものを素材とした作品になります。眠り猫、子鹿、イタチそしてキノコを大胆に取り入れた壷など特に興味を引かれる作品を重点的に鑑賞しつつ、はしもとみお展よりは速度を上げて先へと進みました。

 

ガラス工芸ゾーンでは撮影ダメよと言われたよ

最後のゾーンらしい、スウェーデンのスモーランド地方でのガラス工芸品作品群は、そこに到るまでの陶磁器よりも美しさやカタチの絶妙さからグッと心に迫るものがありました。「さすがにこれは欧州ならではだなぁ。」と記念に撮っておこうかと構えているとこちらの撮影はご遠慮ください。」と近くの学芸員さんに怒られてしまいました。「入り口では撮影OKと言われただけで、そんな注意はなかったのに。」と少しだけ憤慨しながら、掲示の見落としがあったのだろうと反省して平謝り。既に何枚か撮ってしまっていましたが、お蔵入りとしました。撮影OKとされていた食卓展示のみ掲載。

 

 

前日午後の前奏曲

ほぼ1週間前になりますが、ツール・ド・フランスの名を冠するサイクルロードレースのエキシビション大会「さいたまクリテリウム」が今年も無事に継続、開催されました。途中コロナ渦に伴う中止を挟んで2013年から続いている大会ですが、私は大会本番を会場で観たことがなく、ほぼ毎年前日に屋外飲食(お酒を含む)だの物産展だのが楽しめるさいたまるしぇ」を楽しみにしていて、今年もこれを目的にさいたま新都心駅近くにあるけやき広場へ出かけました。

 

軽くワインとおつまみ

その土曜日は好天に恵まれ、公式には12時開店との飲食店テントハウスも定時を待たずに始まったので、テーブルが確保しやすいこともあり早めにワイン&グルメとなりました。ワインはグルナッシュ・ブランを使ったオレンジワインとグルナッシュの赤ワイン、つまみにはプチオードブル、ビーフシチューそれに燻製鴨のミネストローネ風を集め、その間に大会オリジナルグッズ販売ブースへ向かいます。こちらは出遅れて行列になっていました。狙っていたポロシャツはポリエステル100%だったので選択肢から外し、グリーンのTシャツへ変更しました。あとから日常使えるハンカチにしておけばよかったと少し後悔。

 

空きテーブル争奪戦のお昼時

12時を過ぎる頃にはけやき広場の特設会場は混み出して、丸テーブルは言うまでもなく縦列の長いテーブルも埋まってしまい、私たちが片づけを始めると退くのを明らかに待っている子連れの若夫婦から「ここ空きますか?」と聞かれ、追い払われるようにそそくさと離席します。今回はタッパーを用意してきたので、その後は夜に酒の肴に出来そうなのを幾つか仕入れて帰ることにしました。

 

タデイ・ポガチャルは不参加

ツール・ド・フランスの名を冠するためタデイ・ポガチャルには来て欲しかったのですが、昨年に続いて今年も不参加。彼が来てくれたのはヨナス・ヴィンゲゴー優勝の2023年でしたが、その年はヨナス・ヴィンゲゴーが不参加で代わりにポップスタンドが会場に立っておりました。今年はどうかといえば、ヨナス・ヴィンゲゴー参加に対して不在のポガチャルに関しては、彼の写真と実サイン入りポロシャツの入ったパネルが会場に飾られていました。後で抽選でプレゼントらしいです。

 

↑ 2023年のさいたまクリテリウムは不参加の優勝者代わりにポップスタンド

 

何年か前のさいたまるしぇ

2019年に行った時には、さいたまるしぇの会場に主催者側の元選手・マルセル・キッテルと出場選手のロマン・バルデ両氏がやって来て、ファンに囲まれていました。今回ワインを買ったブースにその時らしき写真が貼ってあったので「キッテルですね!」と聞いたところ「今年は(大会自体に)来ないかもしれないですよ。」とのことでした。

 

 

最初の頃はツール5勝のレジェンドライダーでもあるベルナール・イノーさんが事務局だったのが彼に代わって、そろそろお役御免なのかも。そうなると、今年現役引退したロマン・バルデがフランス人ということもあって彼が後継になるのかな?とか考えておりました。今年は誰か会場に遊びに来てくれたのかどうか。個人的にはヴァランタイン・パレパントルに会ってみたかったなぁと思うところです。

 

 

 

 

本番はテレビ観戦

大会当日の日曜日は朝からあいにくの雨天。降雨の少ないこの時期に残念な空模様です。さいたまるしぇも屋外なので、ただでさえ経済効果を疑問視されている同大会にとって痛手ですし、オフシーズンで専ら観光気分であろう選手の皆さんにも気の毒に思えてしまいます。ただ、さいたま新都心方面のレース時刻には雨は概ねあがっていたとみえて、レース中は雨に見舞われずに済んだ様子なのは何よりです。

 

 

それはさておき、ウェットな路面の残った市街コースからさいたまスーパーアリーナ内を通過する境目辺りにてタイヤのグリップ力が変わる影響からか、今大会最大の大物ライダーであるヨナス・ヴィンゲゴーが懸念されたポイントで落車に遭ってしまいました。

 

しかし、彼の戦列復帰を待機したチームメンバーによる引きも手伝い、最後は独走に持ち込んでの決勝ラインで魅せてくれました。ツール・ド・フランス制覇を最大目標としたレース期間中、奥様には家族から離れた日々が辛いなどと文句を言われていたそうですが、今回は家族同伴だったのでしょうか。来年以降もこの大会が続くのであれば是非また出場して欲しいものです。