少し前にFM放送のクラシックカフェという番組をエアチェックした。ドビュッシーは未だに好きなのかどうなのか自分自身にもわからない作曲家であって、だいぶ昔に「小組曲」を同じくFM放送で聞いたのがきっかけでCDを買ったこともある。この日はその「小組曲」も選曲されていたので録ったのだった。まず聞いたことのない「ピアノのために」なる曲がかかり、その後に買ったCDでは管弦楽による編曲だった「小組曲」がピアノの連弾で流れてきた。

 

「ピアノのために」は第3曲のトッカータが少し気になったくらいで、「小組曲」も想像の範囲を超えてはいなかったから大して感慨を覚えなかったが、前者の構成を調べるためにWeb検索をしているうちに「牧神の午後への前奏曲」が見えた。そうなのだ。この作品こそがドビュッシーを好きなのかどうなのかわからなくさせている張本人なのを思い出した。雲をつかむような、とりとめのない、高揚感を抱くこともない不可思議な音楽。それなりに長いので、聞き終わらないうちに眠れそうな、睡眠導入の効果はありそうだが、意図して聴きたいと思わせてはくれなかったのである。

 

 

 

 

 

さらにWeb検索を続けていると、この作品をモチーフとしてニジンスキーが振付を施したバレエにたどり着いた。歴史的事実として既に知ってはいたが、いい時代になったもので112年前の初演とされる映像の一部を見ることが出来た。衝撃だった。微かに知るニジンスキーとは伝説のバレエダンサーであって、神がかった跳躍をもって知られたとされているのが、その映像にはそうした特徴は微塵もなかったのである。のみならず、ガラスに張り付いたような、パントマイムを想起させる動きはまるでパラパラ漫画みたいだし、何と言っても横溢するエロティシズムが音楽と融けあっていたからなのだ。ドビュッシーがバレエ音楽を意識して作曲したのか私には定かではなく、残された映像に施された編集の妙はあるとしても、ここへ来て初めて「牧神の午後への前奏曲」の真髄を聴けた気がしたのである。

 

 

 

ニンフとの戯れの末、袖にされたニジンスキー演じる牧神は身に着けていた衣の残されたことを知り、失意から一転、抱きしめては恍惚となる。それをおかずに自慰行為を暗示して終わるというのだから、初演における驚きは如何ばかりだっただろうか。しかも、ドアーズのジム・モリソンがステージ上でマスターベーションをした(証言のみで映像証拠は残されていない)1969年はマイアミの悪夢と称されるコンサートよりも半世紀以上前の舞台ときている。尤も、ジム・モリソンの方は事前に観た舞台に感化されたらしいとは言え、泥酔の挙句果たした行為であり、芸術性を欠いたただのフリークショーに過ぎないのだから、同列に並べるべきではないのであろう。

 

 

この楽曲の魅力がわからなかったのは、偏に私の想像力が欠けていたゆえであって、これからはニジンスキーによる解釈の助けを借りて「意図して聞く」ことが出来そうで嬉しい。それから、久々に聴いてみて、繰り返される主題にピンクフロイドエコーズに終わりの方で聞けるユニゾンリフが脳内にて重なって響いてくるのに気づいた。おそらくは何の関係もないだろうけれど、エコーズは端から好きな楽曲であったので「牧神の午後への前奏曲」も潜在意識では気になり続けていた作品であったのだろうと思う。

 

だいぶ昔に買った件の「小組曲」を収録するCDのスリーブを観れば、これはニジンスキーだかヌレイエフだか誰がモデルかは別として、明らかにバレエ世界へと変怪した牧神であって、しかも同カタログに共通する意匠とあれば、ドビュッシーによる「牧神の午後への前奏曲」の音楽とニジンスキーの創出した舞踊はもはや不可分としたいくらいなのだ。バレエも含めて舞踊にはほとんど興味はなかったのに、今はこの演目を体験したくなっている自分がある。