フランスの王権にたいする

陛下のご要求をはばもうとするものはただ一つ、

かのファラモン王から伝わる次の一条文のみです、

「In terran Salicam mulieres ne succedant」

「サリカ国において女子は相続することあたわず」

  ――キャンタベリー大司教(『ヘンリー五世』第一幕第二場)



イギリスはなんとなく「女王の国」というイメージがあります。私には。現元首が女王エリザベス2世であることもそうですが、エリザベス1世(在位1558-1603)ヴィクトリア女王(在位1837-1901)の代にイギリスが繁栄したという事実も「女王の国」のイメージを支えています。

この二人の他にもカクテル「ブラッディ・メアリ」にその名を残すメアリ1世(エリザベス1世の異母姉)や飲んだくれのアン女王(ブランデー・ナン)、夏目漱石が「倫敦塔」で言及している悲劇の女王ジェーン・グレイなど有名な女王が何人もいます。


一方、フランスには女王はいません。

カトリーヌ・ド・メディチマリー・アントワネットも王妃であって女王ではありません(英語だとどちらもQUEENだけど)。

現在ヨーロッパにはオランダやデンマークなど女王が治めている国をはじめいくつかの君主国がありますがすべて女性の継承権を認めています。


ではフランスに女王がいなかったのはなぜでしょうか。

その根拠が冒頭に掲げたキャンタベリーのセリフにある「サリカ法」です。


「サリカ国において女子は相続することあたわず」


どこかの国の皇室典範のような、そして漫画『リボンの騎士』にも出てきたようなこの法律。もともとはフランク人サリー族が作った法律です。フランス王はこの法律をたてにエドワード3世やヘンリー5世の要求する王位継承権を拒否し続けてきました。


ここでもう一度系図を見てください。(クリックすると拡大します)

『エドワード3世』

ユーグ・カペー(987-996)にはじまるカペー朝ルイ10世(1314-16)で直系が絶え、滅亡の危機を迎えます。彼は在位わずか2年で男子なく死亡。ただ后が妊娠中であったため、家臣たちは祈る思いで出産を待ちます。ここらへんの状況はわが国の徳川家綱(4代将軍)→綱吉への継承と似てますね*

祈りが天に通じてか、后は無事男子を出産。しかしジャンと名づけられたその男の子は生後わずか4日で死亡。ここに再び王位継承が問題となりました。

ルイ10世には実はもう一人子どもがいたのです。ジャンヌという、これもまだ6歳の子どもでしたが。ところがジャンヌ女王誕生に異議を唱える人物が出てきます。

ルイ10世には弟が二人いました。当然乳児のジャンには政権担当能力などありませんでしたから、叔父のフィリップが政務をとっていたのです。彼フィリップがジャンヌの王位継承無効を主張します。実はジャンヌの母とジャンの母は違う人物でした。ジャンヌの母マルグリットは家臣との不倫疑惑からルイ10世より離縁され、投獄。後に処刑されてしまいました。ですからジャンヌの血統には疑惑がある、とフィリップは主張したのです。しかしこれだけでは外聞も悪いですから、何とか他に根拠はないものか、と探した挙句に見つけたのが「サリカ法」だったのです。


*ジャンヌはその後ナバラ王国(現スペインの一部)女王ファナ2世となりました。


この時点では


「女子の王位継承を認めない」


という解釈であって、「女系による(つまり女子の子孫の)継承」についてはまだ問題になっていませんでした。

こうしてフィリップは王位を継ぎ、フィリップ5世を名乗ります。

ところが皮肉にもフィリップは王位を継いで6年で死去。その後を継いだ弟のシャルル4世も6年で死去。結局3人兄弟とも女子しか生まれず、つまり王位継承者を残せず相次いで世を去りました。自分で自分の首を絞めてしまったんですね。

1328年、カペー朝断絶。



フランス王位はフィリップ4世の弟ヴァロア伯シャルルの子、フィリップが継ぎ、フィリップ6世を名乗りました。ヴァロア朝(1328-1589)です。

ところで系図をご覧になってお分かりの通り、カペー朝最後の王シャルル4世とヴァロア朝の祖フィリップ6世の間は4親等。一方イングランド王エドワード3世は母イザベルを通じてフランス王の血が流れており、こちらは3親等。フィリップ6世よりも近い存在です。

ここで今まであいまいだった


「女子には王位継承権はないが、その子ども(男子)に継承権があるか、ないか」


が問題になってきます。

フランス王としてはもちろん「継承権なし」でしょう。

一方のイングランド、プランタジネット家の祖ヘンリー2世が前王朝(ノルマン朝)の娘の子どもとして王位を継承しているという事実が既にあるのですから、答えは「継承権あり」。



当時エドワード3世は16歳。未だ母とその愛人に実験を握られた存在でした。彼がフランス王位を主張するのはまだ少し先のこととなります。



次回は「百年戦争」です。




*1680年、徳川家綱が子どもなくして死亡。これは徳川幕府始まって以来の直系の断絶でしたから、後継者問題は深刻でした。当時権勢を誇っていた大老酒井忠清

「北条氏の先例に倣い皇族将軍を迎えよう」

と主張。「下馬将軍」といわれるほどの忠清の言葉です。殆どそれに決まりかけましたが、末席の老中だった堀田正俊が家綱の弟綱吉にすべきと主張します。これに水戸光圀らが賛成したため酒井案はつぶれ、堀田案が通りました。こうして五代将軍綱吉が誕生。正俊は大老に、忠清は辞任後まもなく死亡。

この後継者選択時の忠清の発言は権勢を私するものとして今でも忌み嫌われています。

ところが。

実はこの時家綱の側室で懐妊中だった人がいたのです。忠清が綱吉の継承を認めず、「皇族将軍を迎えよう」と言った裏にはこんな事情があったのです。生まれた子どもがもし男子であればその子に将軍を継がせ、宮様には京都に帰ってもらう、そういう算段だったそうです。

悪評の高い忠清でしたが、意外にも忠義の男だったんですね。

ちなみに誕生を待たれた子どもは不幸にも流産してしまいました。