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ジュンパ・ラヒリの「ローマ物語」を読んだ!
ジュンパ・ラヒリの「ローマ物語」(新潮クレスト・ブックス:2026年7月30日発行)を読みました。
ろくでもない町ね。
でも、とってもきれい――
歴史ある町の片隅で、
絶え間なく生まれる
人間ドラマ。
自身もローマに魅了され
7年間暮らした著者が、
静かで激しい愛を注いだ
9篇の物語
ローマはずっと
天国と地獄の間で揺れている。
歓迎されない移民、なじめない外国人、脱出できない
この地で生まれ育った人・・・誰もが孤独を抱え、
他者の赦しを恋い焦がれる。
変容し続ける「永遠の都」を描きながら、
世界の「今」に到達する9つの物語。
ラコンティ・ロマ―二
郊外の貸別荘の管理をする移民家族。一家の娘は、客が帰ったあとの部屋で思いがけないものを見つける。久しぶりの再会を喜ぶ女性教授と喪中の女性。昼食で出かけた老舗トラットリアで、女性教授だけが驚くべき扱いを受ける。友人の大邸宅で毎年開かれるパーティで、ある男が陥った闇。親友の恋人が「ダンテ・アリギェーリ」の名でよこしたラブレター。ラヒリにイタリア語の魅力を教えてくれたというアルベルト・モラヴィアによる1954年刊行の同名短篇集「ロマ物語」への輝けるオマージュ。
イル・フォリオ
自分を受け入れ、心を奪ったローマへの――時には悲痛な、ときには批判的な、しかし常に熱烈な言葉。ここでは旅行者や移民の目から見たr-間、別の視点から見たこの永遠の都が描かれ、苦悩、屈辱、砕けた愛など、登場人物の感情が反映されている。また、移民や外国人への親切そうな視線や言葉に隠されたブルジョワのさもしさ、卑屈な人種差別主義も描きだされる。
ヤマザキマリ
ラヒリの視線はローマの隅から隅へと万番なく生きわたり、おらゆる立場の人々の心情を丁寧に引き出していく。一人暮らしの未亡人。子どもを故郷に置いてきた出稼ぎ移民。ローマへ休暇に訪れる教養と財力を持った人々。人間に対する期待も諦めもなく、悲しみすら厚い瘡蓋となってしまいながら、またどこかに秘かな幸福の気配を求める人々。情に厚い人々の、無気力と無関心。登場人物たちは年齢も不明だし、それぞれの出自も国籍もわからない。しかしそうした人物一人ひとりの生き方は、今日日を生きる私たちに重なり合う。
九リティカ・レッテラリア
ラヒリが語るのはステレオタイプのローマではない。モニュメントや名所はほとんど登場しない。郵便局の順番待ちの列、テーヴェレ川の橋、緑に囲まれたヴィッラなど、主要な場面は無名の場所に設定されている。ラヒリは表面的な、また裕福な外国人訪問者にありがちな好奇の目でローマを見るのではなく、無名の人々が暮らす場所を凝視している。
ジュンパ・ラヒリ:
1967年、ロンドン生まれ。両親ともコルタカ出身のベンガル人。2歳で渡米。コロンビア大学、ボストン大学大学院を経て、99年「病気の通訳」でO・ヘンリー賞、同作収録の「停電の夜に」でピュリツァー賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞はか受賞。2003年、長編小説「その名にちなんで」発表。08年刊行の「見知らぬ場所」でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。13年、長篇小説「低地」を発表。家族とともにローマに移住し、イタリア語での創作を開始。15年、エッセイ「べつの言葉で」、18年、長篇小説「わたしのいるところ」、21年、詩集「思い出すこと」を発表。22年からコロンビ教鞭を執る。を執る。同年、エッセイ「翻訳する私」を発表。
中嶋浩郎:
1951年、松本生まれ。東京大学教育学部卒業。フィレンツェ大学留学。長年、フィレンツェ大学で講師を務め、現在広島在住。著書に「フィレンツェ、職人通り」「図説メディチ家」、訳書にジュンパ・ラヒリ「べつの言葉で」「わたしのいるところ」「思い出すこと」、ベッピ・キュッパーニ「救い」、ミレーナ・アグス「祖母の手帖」、「ルネサンスの画家ポントルモの日記」、ステファノ・ペンニ「聖女チェレステ団の悪童」など。
過去の関連記事:
ジョン・スタージェス監督の「大脱走」を観た!
ジョン・スタージェス監督の「大脱走」を、NHKBSで観ました。
NHKBS101 2026年8月18日(火)13:00
シネマ「大脱走」
以下、KINENOTEによる。
解説:
第二次大戦中の出来事。ドイツの誇る、第3捕虜収容所に収容された連合軍将校たちが、大脱走を敢行した一大史実である。原作は当時英空軍スピットファイヤー・パイロットで、実際にこの大仕事に参加していたポール・ブリックヒル。1950年に出版された著書“ザ・グレート・エスケープ”は超ベスト・セラーになった。製作者兼監督は「荒野の3軍曹」ジョン・スタージェス。撮影は「ウエスト・サイド物語」でアカデミー賞を獲得したダニエル・L・ファップ。脚色は「アスファルト・ジャングル」の著書で知られるW・R・バーネットとジェームズ・クラベルが共同で担当している。音楽は「終身犯」のエルマー・バーンスタイン。出演者は「戦う翼」のスティーヴ・マックィーン、チャールズ・ブロンスン、ジェームズ・コバーンをはじめ、「噂の二人」のジェームズ・ガーナー、英国からリチャード・アッテンボロー「ロベレ将軍」のハンネス・メッセマーなど。
あらすじ:
新たに作られたドイツの北部第3捕虜収容所に、札つきの脱走常習者・連合軍空軍将校たちが運び込まれた。しかし早くも“心臓男”と異名をとったヒルツ(スティーブ・マックィーン)は鉄条網を調べ始めるし、ヘンドレー(ジェームズ・ガーナー)はベンチをトラックから盗み出す始末だ。まもなく、ビッグXと呼ばれる空軍中隊長シリル(リチャード・アッテンボー)が入ると、大規模な脱走計画が立てられた。まず、森へ抜ける数百フィートのトンネルが同時に掘り始められた。それはトム・ディックハリーと名付けられた。全員250名が逃げ出すという企みだ。アメリカ独立記念日トムが発覚してつぶされた。が、ほかの2本は掘り続けられた。しかし、あいにくなことに掘り出し口が看取小屋の近くだったため、脱走計画は水泡に帰し、逃げのびたのはクニー(チャールズ・ブロンソン)と、彼の相手ウィリイだけであった。激怒した収容所ルーゲル大佐が、脱走者50名を射殺したと威嚇した。やがて、“勇ましい脱走者”の生存者を乗せたトラックが到着したとき、ゲシュタポの車が収容所の入口に止まり、ルーゲルは重大過失責任で逮捕された。かくてドイツ軍撹乱という彼らの大使命は果たされたが、幾多の尊い生命が失われていった。再び収容所に静けさが訪れたが、ヒルツやヘンドレイは相変わらず逃亡計画を練りあちらこちらでその調査が始まっていた。
東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観た!その5

東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観てきました。
18年ぶりの大回顧展
洋画壇の若き闘将 前田寛治
前田寛治は、1921(大正10)年に東京美術学校を卒業、同年帝展に《花と子供等》が入選し、翌年11月に渡仏、2年半ほど滞在します。近代以降のフランス絵画を冷静に見渡しながら、クールベ、アングル、マネらの仕事を研究し、自らの絵画と思想を確立しようとしました。また、友人であるマルクス主義理論家・福本和夫の影響による芸術論を打ち立て、労働者の姿を描くようにもなります。
1925年に帰国、帝展に出品した《J・C嬢の像》が特選となり、以降も特選を重ね、1929(昭和4)年に帝国美術院賞を受賞しました。また、1926年に一九三〇年協会をパリ時代の仲間とともに結成、前田はこの会の中心人物となって実験的な作品を発表しました。1928年には「前田写実研究所」をつくって後進への指導をおこない、美術雑誌への寄稿や講演などで絵画論を展開しながら、制作においてそれを実践し、詩的感性を発揮した深みのある作品を次々に生み出したのです。1930年に33歳という若さで亡くなりましたが、まさに時代の寵児であり、近代洋画史に名を刻むにふさわしい活躍ぶりでした。
前田寛治の仲間たち、一九三〇年協会出品作品も紹介
前田は、一緒にパリの空気を吸った4人の若き画家仲間である里見勝蔵、小島善太郎、佐伯祐三、木下孝則とともに、日本における新しい油彩画の創造を目指す美術団体「一九三〇年協会」を1926年に設立しました。同協会は、1930年の前田の死とともに独立美術協会へと移行していきましたが、当時の旧態依然とした画風が蔓延する帝展や二科展に対抗する新しい時代の勢力として注目を集めました。日本近代洋画史を語るうえで欠かせないグループであったと言えるでしょう。
前田寛治の作品にみられるふたつのポイント
◎その1:ポエジイ
東京美術学校時代、前田寛治はノートに「絵は詩である」(1922年1月)と書きつけています。彼は画業の初期に、いい絵画にはポエジイがあることを発見しました。終生「ポエジイのない絵は駄目だ」「詩がなくなると絵は萎(しな)びる」と周囲に語っていたそうです。「描きつつ深まる」をモットーに、前田は自らの作品に詩を求めて制作を続けていたに違いありません。
◎その2:レアリスム
前田寛治は日本近代美術史のなかで、現代社会を描くという意識を他に先んじてもち、描き続けた画家です。その結果《棟梁の家族》をはじめとした名作が誕生しました。前田は絵画論のなかで、写実の基本的な3要素は「質感」「量感」「実在感」を得ることだとしています。描く対象をただ忠実に再現する絵画ではなく、それを超えた表現を摸索し、表現しようとしたのです。
第1章 ”絵は詩である”
第2章 パリ留学―写実への目覚め実在感を求めて
第3章 帰国後の活躍―実在感を求めて
第4章 一九三〇年―”生命の写実”
第5章 ”如何に超越すべきか”
第5章 ”如何に超越すべきか”
生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム
一九三〇年協会設立100年
図録
編集: 鳥取県立美術館(友岡真秀)
東京ステーションギャラリー(田中晴子)
和歌山県立近代美術館(田村允英)
NHKエンタープライズ(吉田南都子)
発行: NHKエンタープライズ中部
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東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観た!その4

東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観てきました。
18年ぶりの大回顧展
洋画壇の若き闘将 前田寛治
前田寛治は、1921(大正10)年に東京美術学校を卒業、同年帝展に《花と子供等》が入選し、翌年11月に渡仏、2年半ほど滞在します。近代以降のフランス絵画を冷静に見渡しながら、クールベ、アングル、マネらの仕事を研究し、自らの絵画と思想を確立しようとしました。また、友人であるマルクス主義理論家・福本和夫の影響による芸術論を打ち立て、労働者の姿を描くようにもなります。
1925年に帰国、帝展に出品した《J・C嬢の像》が特選となり、以降も特選を重ね、1929(昭和4)年に帝国美術院賞を受賞しました。また、1926年に一九三〇年協会をパリ時代の仲間とともに結成、前田はこの会の中心人物となって実験的な作品を発表しました。1928年には「前田写実研究所」をつくって後進への指導をおこない、美術雑誌への寄稿や講演などで絵画論を展開しながら、制作においてそれを実践し、詩的感性を発揮した深みのある作品を次々に生み出したのです。1930年に33歳という若さで亡くなりましたが、まさに時代の寵児であり、近代洋画史に名を刻むにふさわしい活躍ぶりでした。
前田寛治の仲間たち、一九三〇年協会出品作品も紹介
前田は、一緒にパリの空気を吸った4人の若き画家仲間である里見勝蔵、小島善太郎、佐伯祐三、木下孝則とともに、日本における新しい油彩画の創造を目指す美術団体「一九三〇年協会」を1926年に設立しました。同協会は、1930年の前田の死とともに独立美術協会へと移行していきましたが、当時の旧態依然とした画風が蔓延する帝展や二科展に対抗する新しい時代の勢力として注目を集めました。日本近代洋画史を語るうえで欠かせないグループであったと言えるでしょう。
前田寛治の作品にみられるふたつのポイント
◎その1:ポエジイ
東京美術学校時代、前田寛治はノートに「絵は詩である」(1922年1月)と書きつけています。彼は画業の初期に、いい絵画にはポエジイがあることを発見しました。終生「ポエジイのない絵は駄目だ」「詩がなくなると絵は萎(しな)びる」と周囲に語っていたそうです。「描きつつ深まる」をモットーに、前田は自らの作品に詩を求めて制作を続けていたに違いありません。
◎その2:レアリスム
前田寛治は日本近代美術史のなかで、現代社会を描くという意識を他に先んじてもち、描き続けた画家です。その結果《棟梁の家族》をはじめとした名作が誕生しました。前田は絵画論のなかで、写実の基本的な3要素は「質感」「量感」「実在感」を得ることだとしています。描く対象をただ忠実に再現する絵画ではなく、それを超えた表現を摸索し、表現しようとしたのです。
第1章 ”絵は詩である”
第2章 パリ留学―写実への目覚め実在感を求めて
第3章 帰国後の活躍―実在感を求めて
第4章 一九三〇年―”生命の写実”
第5章 ”如何に超越すべきか”
第4章 一九三〇年―”生命の写実”
生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム
一九三〇年協会設立100年
図録
編集: 鳥取県立美術館(友岡真秀)
東京ステーションギャラリー(田中晴子)
和歌山県立近代美術館(田村允英)
NHKエンタープライズ(吉田南都子)
発行: NHKエンタープライズ中部
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ロジャー・ミッチェル監督の「ノッティングヒルの恋人」を観た!
ロジャー・ミッチェル監督の「ノッティングヒルの恋人」を、NHKBSで観ました。
NHKBS101 2026年8月27日(木)
シネマ「ノッティングヒルの恋人」
以下、KINENOTEによる。
解説:
アメリカのスター女優としがない本屋の店主の、偶然から生まれたラブストーリー。監督はロジャー・ミッチェル。脚本は「ビーン」のリチャード・カーティス。製作は「フォー・ウェディング」のダンカン・ケンワージ。製作総指揮はリチャード・カーティス、「エリザベス」のティム・ビーバンとエリック・フェルナー。撮影は「フェアリー・テイル」のマイケル・コールター。音楽は「マイ・フレンド・メモリー」のトレヴァー・ジョーンズ。美術は「イングリッシュ・ペイシェント」のスチュアート・クレイグ。編集は「スカートの翼ひろげて」のニック・ムーア。衣裳は「スカートの翼ひろげて」のシューナ・ハーウッド。出演は「グッドナイトムーン」のジュリア・ロバーツ、「ボディ・バンク」のヒュー・グラントほか。
あらすじ:
アナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)はハリウッドの大女優。そんな彼女がロンドンのノッティングヒルにある書店に足を運ぶ。店主のウィリアム(ヒュー・グラント)は突然のことにびっくり。さらに彼は買物の帰りに偶然アナとぶつかり、ジュースをかけてしまう。慌てた彼は服を乾かすよう申し出て、アナを家に招く。何とか彼女を送り出して間もなく、彼女が戻って来てウィリアムにキスをして立ち去る。夢のような時が過ぎて数日後、ウィリアムに電話があったとルームメイトのスパイク(リス・エヴァンス)から聞かされる。早速アナが宿泊しているホテルに向かい、雑誌記者と偽り部屋に入る。ウィリアムは妹の誕生日パーティーにアナを誘い、彼女も誘いに応じる。その後もデートを重ねる二人。ところがある晩二人がアナの部屋に行くと、有名俳優の恋人が彼女の帰りを待ち構えていた。彼氏の存在にショックを受けたウィリアム。そして半年後。マスコミのほとぼりが冷めるまで家に置いて欲しいとアナが突然やって来る。だがそれも同居人スパイクが口を滑らせたことでマスコミが殺到。アナは二度と会わないと言い残し、雑踏の中へ消える。一年後。アナの撮影現場を訪れたウィリアムは気持ちを伝えられない。彼女が店に来てもつれない態度を取ってしまう。それを見かねた友人たちは一丸となってウィリアムをホテルに送り届ける。記者会見場にもぐりこんだ彼は、再び記者になりすまし彼女に告白。アナもプロポーズに応え、会場は結婚会見に早代わり。二人はロンドンでゆったりと時を過ごすのだった。
東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観た!その3

東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観てきました。
18年ぶりの大回顧展
洋画壇の若き闘将 前田寛治
前田寛治は、1921(大正10)年に東京美術学校を卒業、同年帝展に《花と子供等》が入選し、翌年11月に渡仏、2年半ほど滞在します。近代以降のフランス絵画を冷静に見渡しながら、クールベ、アングル、マネらの仕事を研究し、自らの絵画と思想を確立しようとしました。また、友人であるマルクス主義理論家・福本和夫の影響による芸術論を打ち立て、労働者の姿を描くようにもなります。
1925年に帰国、帝展に出品した《J・C嬢の像》が特選となり、以降も特選を重ね、1929(昭和4)年に帝国美術院賞を受賞しました。また、1926年に一九三〇年協会をパリ時代の仲間とともに結成、前田はこの会の中心人物となって実験的な作品を発表しました。1928年には「前田写実研究所」をつくって後進への指導をおこない、美術雑誌への寄稿や講演などで絵画論を展開しながら、制作においてそれを実践し、詩的感性を発揮した深みのある作品を次々に生み出したのです。1930年に33歳という若さで亡くなりましたが、まさに時代の寵児であり、近代洋画史に名を刻むにふさわしい活躍ぶりでした。
前田寛治の仲間たち、一九三〇年協会出品作品も紹介
前田は、一緒にパリの空気を吸った4人の若き画家仲間である里見勝蔵、小島善太郎、佐伯祐三、木下孝則とともに、日本における新しい油彩画の創造を目指す美術団体「一九三〇年協会」を1926年に設立しました。同協会は、1930年の前田の死とともに独立美術協会へと移行していきましたが、当時の旧態依然とした画風が蔓延する帝展や二科展に対抗する新しい時代の勢力として注目を集めました。日本近代洋画史を語るうえで欠かせないグループであったと言えるでしょう。
前田寛治の作品にみられるふたつのポイント
◎その1:ポエジイ
東京美術学校時代、前田寛治はノートに「絵は詩である」(1922年1月)と書きつけています。彼は画業の初期に、いい絵画にはポエジイがあることを発見しました。終生「ポエジイのない絵は駄目だ」「詩がなくなると絵は萎(しな)びる」と周囲に語っていたそうです。「描きつつ深まる」をモットーに、前田は自らの作品に詩を求めて制作を続けていたに違いありません。
◎その2:レアリスム
前田寛治は日本近代美術史のなかで、現代社会を描くという意識を他に先んじてもち、描き続けた画家です。その結果《棟梁の家族》をはじめとした名作が誕生しました。前田は絵画論のなかで、写実の基本的な3要素は「質感」「量感」「実在感」を得ることだとしています。描く対象をただ忠実に再現する絵画ではなく、それを超えた表現を摸索し、表現しようとしたのです。
第1章 ”絵は詩である”
第2章 パリ留学―写実への目覚め実在感を求めて
第3章 帰国後の活躍―実在感を求めて
第4章 一九三〇年―”生命の写実”
第5章 ”如何に超越すべきか”
第3章 帰国後の活躍―実在感を求めて
生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム
一九三〇年協会設立100年
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編集: 鳥取県立美術館(友岡真秀)
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18年ぶりの大回顧展
洋画壇の若き闘将 前田寛治
前田寛治は、1921(大正10)年に東京美術学校を卒業、同年帝展に《花と子供等》が入選し、翌年11月に渡仏、2年半ほど滞在します。近代以降のフランス絵画を冷静に見渡しながら、クールベ、アングル、マネらの仕事を研究し、自らの絵画と思想を確立しようとしました。また、友人であるマルクス主義理論家・福本和夫の影響による芸術論を打ち立て、労働者の姿を描くようにもなります。
1925年に帰国、帝展に出品した《J・C嬢の像》が特選となり、以降も特選を重ね、1929(昭和4)年に帝国美術院賞を受賞しました。また、1926年に一九三〇年協会をパリ時代の仲間とともに結成、前田はこの会の中心人物となって実験的な作品を発表しました。1928年には「前田写実研究所」をつくって後進への指導をおこない、美術雑誌への寄稿や講演などで絵画論を展開しながら、制作においてそれを実践し、詩的感性を発揮した深みのある作品を次々に生み出したのです。1930年に33歳という若さで亡くなりましたが、まさに時代の寵児であり、近代洋画史に名を刻むにふさわしい活躍ぶりでした。
前田寛治の仲間たち、一九三〇年協会出品作品も紹介
前田は、一緒にパリの空気を吸った4人の若き画家仲間である里見勝蔵、小島善太郎、佐伯祐三、木下孝則とともに、日本における新しい油彩画の創造を目指す美術団体「一九三〇年協会」を1926年に設立しました。同協会は、1930年の前田の死とともに独立美術協会へと移行していきましたが、当時の旧態依然とした画風が蔓延する帝展や二科展に対抗する新しい時代の勢力として注目を集めました。日本近代洋画史を語るうえで欠かせないグループであったと言えるでしょう。
前田寛治の作品にみられるふたつのポイント
◎その1:ポエジイ
東京美術学校時代、前田寛治はノートに「絵は詩である」(1922年1月)と書きつけています。彼は画業の初期に、いい絵画にはポエジイがあることを発見しました。終生「ポエジイのない絵は駄目だ」「詩がなくなると絵は萎(しな)びる」と周囲に語っていたそうです。「描きつつ深まる」をモットーに、前田は自らの作品に詩を求めて制作を続けていたに違いありません。
◎その2:レアリスム
前田寛治は日本近代美術史のなかで、現代社会を描くという意識を他に先んじてもち、描き続けた画家です。その結果《棟梁の家族》をはじめとした名作が誕生しました。前田は絵画論のなかで、写実の基本的な3要素は「質感」「量感」「実在感」を得ることだとしています。描く対象をただ忠実に再現する絵画ではなく、それを超えた表現を摸索し、表現しようとしたのです。
第1章 ”絵は詩である”
第2章 パリ留学―写実への目覚め実在感を求めて
第3章 帰国後の活躍―実在感を求めて
第4章 一九三〇年―”生命の写実”
第5章 ”如何に超越すべきか”
第2章 パリ留学―写実への目覚め実在感を求めて
生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム
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東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観た!その1
東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム」を観てきました。
18年ぶりの大回顧展
洋画壇の若き闘将 前田寛治
前田寛治は、1921(大正10)年に東京美術学校を卒業、同年帝展に《花と子供等》が入選し、翌年11月に渡仏、2年半ほど滞在します。近代以降のフランス絵画を冷静に見渡しながら、クールベ、アングル、マネらの仕事を研究し、自らの絵画と思想を確立しようとしました。また、友人であるマルクス主義理論家・福本和夫の影響による芸術論を打ち立て、労働者の姿を描くようにもなります。
1925年に帰国、帝展に出品した《J・C嬢の像》が特選となり、以降も特選を重ね、1929(昭和4)年に帝国美術院賞を受賞しました。また、1926年に一九三〇年協会をパリ時代の仲間とともに結成、前田はこの会の中心人物となって実験的な作品を発表しました。1928年には「前田写実研究所」をつくって後進への指導をおこない、美術雑誌への寄稿や講演などで絵画論を展開しながら、制作においてそれを実践し、詩的感性を発揮した深みのある作品を次々に生み出したのです。1930年に33歳という若さで亡くなりましたが、まさに時代の寵児であり、近代洋画史に名を刻むにふさわしい活躍ぶりでした。
前田寛治の仲間たち、一九三〇年協会出品作品も紹介
前田は、一緒にパリの空気を吸った4人の若き画家仲間である里見勝蔵、小島善太郎、佐伯祐三、木下孝則とともに、日本における新しい油彩画の創造を目指す美術団体「一九三〇年協会」を1926年に設立しました。同協会は、1930年の前田の死とともに独立美術協会へと移行していきましたが、当時の旧態依然とした画風が蔓延する帝展や二科展に対抗する新しい時代の勢力として注目を集めました。日本近代洋画史を語るうえで欠かせないグループであったと言えるでしょう。
前田寛治の作品にみられるふたつのポイント
◎その1:ポエジイ
東京美術学校時代、前田寛治はノートに「絵は詩である」(1922年1月)と書きつけています。彼は画業の初期に、いい絵画にはポエジイがあることを発見しました。終生「ポエジイのない絵は駄目だ」「詩がなくなると絵は萎(しな)びる」と周囲に語っていたそうです。「描きつつ深まる」をモットーに、前田は自らの作品に詩を求めて制作を続けていたに違いありません。
◎その2:レアリスム
前田寛治は日本近代美術史のなかで、現代社会を描くという意識を他に先んじてもち、描き続けた画家です。その結果《棟梁の家族》をはじめとした名作が誕生しました。前田は絵画論のなかで、写実の基本的な3要素は「質感」「量感」「実在感」を得ることだとしています。描く対象をただ忠実に再現する絵画ではなく、それを超えた表現を摸索し、表現しようとしたのです。
第1章 ”絵は詩である”
第2章 パリ留学―写実への目覚め実在感を求めて
第3章 帰国後の活躍―実在感を求めて
第4章 一九三〇年―”生命の写実”
第5章 ”如何に超越すべきか”
第1章 ”絵は詩である”
生誕130年 前田寛治―ポエジイとレアリスム
一九三〇年協会設立100年
「」
図録
編集: 鳥取県立美術館(友岡真秀)
東京ステーションギャラリー(田中晴子)
和歌山県立近代美術館(田村允英)
NHKエンタープライズ(吉田南都子)
発行: NHKエンタープライズ中部
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イーユン・リーの「自然のものはただ育つ」を読んだ!
イーユン・リーの「自然のものはただ育つ」(河出書房新社:2025年11月30日初版発行)を読みました。
生きることは自然な流れ。
でも私やうちの子どもたちにとっては
決してそうではない。
10代の息子二人を自死で失った作家による、
悲しみを超える「人生の極み」について書かれた
唯一無二の心揺さぶれれるエッセイ。
「それでもなお人生を生きねばならない」
全米図書賞ノンフィクション部門最終候補作
「夫と私は二人の子どもをもうけ、二人とも亡くした。2017年に16歳のヴィンセント、そして2024年に19歳のジェームズ。どちらも自死を選び、どちらも自宅からそう遠くない場所で亡くなった」
「私の悲哀に終わりはいらない。……悲しみとは言葉であり省略化であり、その言葉よりはるかに大きなものの単純化にほかならない」
事実は生々しく正確であり、胸が張り裂けるほど衝撃的だ。
「ガーディアン」紙
この勇気ある本が愛の証しというのは控えめな表現だろう。
「オブザーバー」紙
他に類をみない、異質で深遠で、また目をそらさないという断固たる決意に満ちた回想録である。
「ニューヨーク・タイムズ」紙
彼女は悲しみについて深く考えないと書いている。なぜなら、悲しむという言葉は、終わりがあるプロセスを示唆するからだ。
「タイム」誌
イーユン・リー:
1972年、北京生まれ。北京大学に入学し、生物学を専攻。卒業後の1996年にアメリカに留学し、アイオワ大学大学院で免疫学の研究をしていたが、やがて英語で執筆するようになり、進路を変更して同大学院の創作科に編入した。2005年に短編集「千年の祈り」を刊行し、フランク・オコーナー国際短編賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ガーディアン新人賞などを受賞。続いて2009年、初の長篇「さすらう者たち」を発表。その他の著書に「黄金の少年、エメラルドの少女」「独りでいるより優しくて」「理由のない場所」「もう行かなくては」「ガチョウの本」「水曜生まれの子」などがある。これまでにPEN1/マラマッド賞、PEN/フォークナー賞、PEN/ジーン・スタイン賞、O・ヘンリー賞など数々の賞を受賞。現在、プリンストン大学で創作を教えながら、執筆を続けている。
篠森ゆりこ:
翻訳家。訳書に、イーユン・リー「千年の祈り」「さすらう者たち」「黄金の少年、エメラルドの少女」「独りでいるより優しくて」「理由のない場所」「もう行かなくては」「ガチョウの本」「水曜生まれの子」、クリス・アンダーソン「ロングテール」、マリリン・ロビンソン「ハウスキーピング」など。著書に「彼女の言葉でたどる生涯」がある。
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