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千葉雅也の「現代思想入門 人生が変わる哲学。」を読んだ!

 

千葉雅也の「現代思想入門 人生が変わる哲学。」(講談社現代新書:2022年3月20日第1刷発行、2022年4月8日第3刷発行)を読みました。

 

千葉雅也の作品は、芥川賞候補作を二作品を読んだだけです。

そのつながりで買ってはみたけれど、これは言うのも恥ずかしい、

僕のもっとも不明な分野の話です。

 

現代思想の入門書と書いてはあるものの、現代思想って、何?

ここで言う「現代思想」とは、1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しています。フランスを中心としたものなのですが、日本ではしばしば、それが「現代思想」と呼ばれてきました。

その代表者として挙げたのが、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシャル・フーコーの三人です。この三人で現代思想のイメージがつかめる、それがこの本の方針です。

 

本の帯には、以下のようにあります。

デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカン、メイヤスー・・・。

複雑な世界の現実を高解像度で捉え、

人生をハックする、「現代思想」のパースペクティブ

・物事を二項対立で捉えない

・人生のリアリティはグレーゾーンに宿る

・秩序の強化を警戒し、逸脱する人間の多様性を泳がせておく

・権力は「下」からやってくる

・搾取されている自分の力を、より自律的に用いる方法を考える

・人間は過剰なエネルギーの解放と有限化の二重のドラマを生きている

・無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組む

・大きな謎に悩むよりも、人生の世俗的な深さを生きる

「現代思想」は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、

秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。

それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。

 

入門書の決定版、とはいえ、「はじめに」のはじめでもう、訳が分からなくなってしまいました。一応、本の字面は追いましたが、お手上げです。またまたお得意の、目次だけを書いて、お茶を濁すとしましょう。

 

目次

はじめに 今なぜ現代思想か

  今なぜ現代思想を学ぶのか

  入門のための入門

  ポスト構造主義とポストモダン

  構造主義

  二項対立の脱構築

  グレーゾーンに事こそ人生のリアリティがある

第一章 デリダ―概念の脱構築

  独特なデリダのスタイル

  二項対立からズレていく差異

  パロールとエクリチュール

  二項対立立の分析

  非本質的なものの重要性

  近いか遠いか

  脱構築の倫理

  未練り込みでの決断をなす者こそ「大人」

第二章 ドゥルーズ―存在の脱構築

  ドゥルーズの時代

  差異は同一性に先立つ

  ヴァーチャルな関係の絡まり合い

  すべての同一性は仮固定である

  家族の物語ではなく、多様な実践へ

  ダブルで考える

  「すぎない」ことの必要性

  ノマドのデタッチメント

  管理社会批判

  接続と切断のバランス

第三章 フーコー―社会の脱構築

  権力の二項対立的図式を揺さぶる

  「正常」と「異常」の脱構築

  権力の三つのあり方

  規律訓練―自己監視する心の誕生

  生政治―即物的コントロールの強まり

  人間の多様性を泳がせておく

  「新たなる古代人」になること

ここまでのまとめ

第四章 現代思想の源流―ニーチェ、フロイト、マルクス

  秩序の外部、非理性的なものへ

  ニーチェ―ディオニュソスとアポロンの拮抗

  下部構造の方へ

  フロイト―無意識

  精神分析の実践と作用

  無意識と偶然性

  物語的意味の下でうごめくリズミカルな構造

  近代的有限性

  マルクス―力と経済

  すべての人が自分自身の力を取り戻すには

第五章 精神分析と現代思想―ラカン、ルジャンドル

  現代思想の前提としての精神分析

  人間は過剰な動物である

  本能と制度

  ラカン―主体化と享楽

  去勢とは何か

  欠如の哲学  

  つながるイメージの世界と言語による区別

  現実界、捉えられない「本当のもの」

  ルジャンドル―ドグマ人類学

  儀礼による有限化

  否定神学批判

第六章 現代思想のつくり方

  新たな現代思想家になるために

  現代思想をつくる四つの原則

  デリダ―原エクリチュール

  ドゥルーズ―差異それ自体へ

  レヴィナス―存在とは別の仕方で

  四原則の連携

  ポスト・ポスト構造主義への展開

  マラブー―形態の可塑性

  メイヤスー―絶対的な実在とその変化可能性

第七章 ポスト・ポスト構造主義

  二十一世紀における現代思想

  思弁的実在論の登場

  意味づけの外にある客観性

  実在それ自体の相対主義

  内在性の徹底―ハーマン、ラリュエル

  複数性の問題と日本現代思想

  有限性の後での新たな有限性

  複数的な問題に有限を取り込む

  世俗性の新たな深さ

付録 現代思想の読み方

  読書はすべて不完全である

  現代思想を読むための四つのポイント

  原文の構造を英語だと思って推測する

  レトリックに振り回されず、必要な情報だけを取り出す

  固有名詞や豆知識を無視する

  概念の二項対立を意識する

  ケース1:「なんかカッコつけてるな」

  ケース2:「カマし」のレトリックにツッコまない

  ケース3:お飾りを切り詰めて骨組みだけを取り出す

  ケース4:言い訳の高度な不良性

おわりに 秩序と逸脱

 

千葉雅也:

1978年、栃木県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は哲学・表象文化論。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に「働きすぎてはいけない」(河出文庫、第四回紀伊國屋じんぶん大正、第五回表象文化論学会賞)、「ツイッター哲学」(河出文庫)、「勉強の哲学」(文春文庫)、「思弁的実在論と現代について」(青土社)、「意味がない無意味」(河出書房新社)、「デッドライン」(新潮社、第41回野間文芸新人賞)、「ライティングの哲学」(共著、星海社新書)、「オーバーヒート」(新潮社、「オーバーヒート」第165回芥川賞候補、「マジックミラー」第45回川端康成文学賞)など。

 

過去の関連記事:

芥川賞候補作、千葉雅也の「オーバーヒート」を読んだ!

千葉雅也の芥川賞候補作「デッドライン」を読んだ!

年森瑛の芥川賞候補作「N/A」を読んだ!

 

年森瑛の芥川賞候補作「N/A」を読みました。第167回芥川賞候補作は、読むのは3作目です。

 

始まりはこうです。

保健室だよりの見出しが目に入った。

「低体重は月経が止まる危険性があります」

「将来のために過度なダイエットはやめましょう」

その日から、炭水化物を抜くのが始まった。母に何か言われたら、食べ過ぎると眠くなって勉強や部活に身が入らなくなるから、と答えた。元々平均体重より痩せているほうだったので、生理が来なくなるのはあっという間だった。

 

「まどかはどこへ行くん」「人と会う」。人って、 と鼻で笑われた。「彼氏って言えし」。うみちゃんのことを彼氏と呼ぶのは何となく嫌だった。恋人というほど甘ったるくもなく、相方というほどくだけた関係ではなく、最近流行りのパートナー呼びも、中身が伴わないハリボテの名匠に感じられた。付き合っている人、というのがまどかの中で今のところしっくりくる名称だった。

 

「こないだ家でやった時、彼氏がさ」「うん」「途中でうわーっ!て叫ぶから、何かと思ったらちょうど血祭が来てて」「ああ」「シーツ汚したらヤバいから、ブリッジ? 逆プランク?みたいに尻浮かせて、秒でベットから降りたんだけど、完全に引かれた」「ブリッジで?」「血祭のほう。いや、どっちもなのかな?女はみんな慣れてるけど、男はたぶんナマでみたことないじゃん、血。びびってた。どばっと出たから」。

 

母に勧められるがまま受験して、運よく合格していた私立中高一貫女子高に進学した。入学早々に、簡単にさわれるけど実際には誰も手を出さない王子様として担がれた。仲のいい友だちは何人かできても、かけがいのない他人は見つからなかった。半ば諦めて、高校二年生まで進級したところでうみちゃんと知り合った。秋ごろ、教育実習生として彼女はやってきた。

 

うみちゃんは高一のクラスの担当で、黒板に書く文字が汚すぎて読めないという評判が学年を越えて流れてきた。その日の夜にDMが来た。受験の相談に乗るから、よかったら話しながら軽くごはんとか、という内容だった。連れていかれたイタリアンバルで、うみちゃんはDMで言った通りに受験の相談に乗ってくれた。帰り道に「私と付き合ったら絶対に面白いから付き合わない?」と言われて、この人、最初からこのつもりだったんだ、と初めて気付いた。

 

まどかがこの身体になってから、母は狼狽し、激昂し、号泣し、それらの感情をまどかの前では出さないように苦心した。まどかを責めないように、体型のことを口にしないように、様々な資料を読んで、勉強した通りに接した。恐らく母が相談したのだろう、呼び出された保健室でも、先生による、丸っこくてやさしい言葉がまどかの表面を転がっていった。「瘦せていなくてもありのままのあなたの姿が美しいですよ」「生理は汚くないし恥ずかしくないことですよ」。

 

まどかは、ただ股から血が出るのが嫌なだけで、みんなのように嫌々言いつつも毎月やり過ごすことができなかっただけで、美しいとか、汚いとかは、どうでもよかった。嫌なものは嫌だ。それだけのことが伝わらなかった。痩せることは生理を止めるための手段であって目的ではなかったのに、拒食症の女の子と見なされたので、拒食症の女の子用の言葉だけが与えられた。かけがいのない他人ほしさにうみちゃんと付き合ってみただけだった。それでLGBTの人で固定されてしまった。同性との恋愛関係を望む人になってしまった。

 

第127回文學界新人賞は、五篇を最終候補とし、青山七恵、東浩紀、金原ひとみ、長嶋有、中村文則、村田沙耶の六選考委員により、選考が行われた。

 

五作とも完成度の高い小説だった。蓋を開けてみれば全会一致で受賞作が決まった。と、選考委員の金原ひとみ。

高校生のまどかは常に違和感を抱えている。恋愛にも、性別にも、生理にも。どこにいても異物として生きる彼女には、それでも同性の恋人がおり、普通に友達がいて、学校では女の子たちから王子様扱いをされ、家族関係にも大きな問題はない。まどかのいる世界には気遣いが行き渡っている。母親は彼女の摂食障害に気づいているものの直接的な言及を避けてるし、言いにくいことを伝えようとする友人は相手を傷つけない伝え方をググっている。しかしその世界に於いても取り残される少数派に、まどかは入っている。本作には紛うことなき現代を生きる人間がぶち当たっている壁が克明に描かれている。周囲の人々の想像力の限界にうんざりしているまどかが、終盤で己自身の想像力の限界に直面する構成も効いている。本作は不足も過剰もない。完璧な正解と言いたくなるほどバランスの取れた作品だ。欠点がないこと以外の欠点は見当たらない。

いや~っ、驚きました、絶賛です。

 

もう一人、東浩紀の選評を。僕は男性側の東の選評に共感を。

受賞作の主人公は生理を忌避しダイエットで身体管理をしている瘦身の女子高生。ひょんなことから同性愛者の女性元教育実習生と交際することになるが、関係がSNSを通じて友人に露見し関係を中断することになる。主人公としては生理を忌避しているだけなのに、拒食症や同性愛者として分類され、他者の視線のもと勝手な物語を押し付けられる。そんなカテゴリー化の暴力への違和感を主題としているが、かといって主人公が完全に無垢な被害者として描かれているわけではない。関係の露見に慌てた主人公の振る舞いはあまりにも利己的で、元教育実習生に対しては加害者とも言える。作品の結末はその両義性を強く意識したものになっており、そこを高く評価した。

 

そのうえでひとつ注文をつけると、評者としては作品世界があまりにも狭く、また女子校的感性(?)を前提とshすぎているように感じた。物語は10代と20代の女性だけの会話で進み、母親も教師も関与しない。その限定ゆえの迫真性は認めるが、他方で腑に落ちないところもある。とりわけ元教育実習生との関係である。肉体肉体関係があるようにもみえるが、他方プラトニックなようにもみえる。そこを明確にしないと結末の意味も不明確なように思うが、評者は男子校出身で女子校文化から遠く、また年齢も重ねているので単純に読めていないだけかもしれない。

 

文学界新人賞で満場一致で推された作品、この勢いで芥川賞受賞なるか?読んでいない候補作があと二作あります。さてさて、どうなるか?

新宿武蔵野館で、シアン・ヘダー監督・脚本の「コーダ あいのうた」を観た!

 

 

新宿武蔵野館で、シアン・ヘダー監督・脚本の「コーダ あいのうた」を観てきました。

 

 

以下、KINENOTEによる。

 

解説:

サンダンス映画祭4冠に輝き、映画祭史上最高額の約26億円で落札されたヒューマンドラマ。仏映画「エール!」のハリウッドリメイク版。家族の中で唯一耳が聞こえるルビーは歌の才能に恵まれ、音大進学を夢見るが、その才能を信じられない両親に反対される。出演は、ドラマ『ロック&キー』のエミリア・ジョーンズ、「シング・ストリート 未来へのうた」のフェルディア・ウォルシュ=ピーロ、「愛は静けさの中に」のマリー・マトリン。監督・脚本は、「タルーラ ~彼女たちの事情~」のシアン・ヘダー。

 

あらすじ:

豊かな自然に恵まれた海の町で、両親と兄と暮らす高校生ルビー(エミリア・ジョーンズ)は、家族の中で一人だけ耳が聞こえる。ルビーは幼いころから、陽気で優しい家族のために通訳となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、ルビーは秘かに憧れるクラスメイトのマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)と同じ合唱クラブに入部する。顧問の先生から歌の才能を見出されたルビーは、都会の名門音楽大学の受験を強く勧められる。しかし、ルビーの歌声を聴くことができず、娘の才能を信じられない両親は、家業の方が大事だと大反対する。ルビーは悩んだ末、夢よりも家族の助けを続けることを選ぶが、父は思いがけない方法で娘の才能に気づき、意外な決断をする……。

 

 

 

 

 

 

 

朝日新聞:2022年6月25日

ひもとく コーダ(CODA)

映画「コーダ あいのうた」が米アカデミー賞で作品賞を受賞したことで、「コーダ」についても世間にかなり知られてきたようだ。コーダ(CODA)とは、Children of Deaf Adult/sの略で、「聞こえない親を持つ聞こえる子供」のこと。1980年代に米国で生まれた言葉で、両親とも聞こえない場合だけでなくどちらか一方だけでも、また親がろう者でも難聴者でもその子供はコーダとされる。

山下絋加の芥川賞候補作「あくてえ」を読んだ!

 

山下絋加の芥川賞候補作「あくてえ」を読みました。

 

「あくてえ」はこうして始まります。

あたしは日頃から、あくてえばかりつく。「あくてえ」は、悪口や悪態といった意味を指す甲州弁で、たとえば東京生まれ東京育ちのあたしが、周囲の人間に「あくてえ」と言っても、大抵の場合意味は通じない。けれどあたしからすれば悪口のことを、あくてえと言う方がしっくりくる。耳が先にそっちの言葉を覚えたからだ。母親が幼少期にCDで流した英語はちっとも耳に馴染まなかったのに、幼い頃から生活を共にしてきたばばあの話す、方言と独自の言語が入り交じった下品でやぼったい言葉遣いは全身で吸収し、気がつけばあたしの一部になっていた。「ばばあ」という自分の祖母に対する呼称も、あたしなりのあくてえで、ばばあのまえでは「ばあちゃん」と呼びながら、陰では「ばばあ」と侮蔑を込めて呼んでいる。

 

九十歳の誕生日を迎えたばかりのばばあは、来月、白内障の手術を控えている。ここ最近は、仕事を終えて帰ればその話題で持ちきりだった。生まれつき声のでかいばばあと、耳の遠いばばあのために声を張らなくてはいけないきいちゃんの声は、いつもマンションの二部屋先まで響いている。リビングのカーペットに膝をつき、ソファに座り込むばばあの顔を下から覗き込むようにして説得に励んでいたきいちゃんは、おかえりぃ、と掠れた声であたしに向き直る。「お義母さんがね、手術受けたくないって言いだすのよ。ゆめからも何とか言ってあげてくれない?」。

 

登場人物はほぼこの三人。ばばあときいちゃんとわたしです。それに加えて離婚した親父が・・・。進行役はほぼわたし。

 

きいちゃんは首からかけた黄色いエプロンで二の腕を隠す。黄色が好きだから、きいちゃん。本名は沙織だけど、きいちゃん。母親だけど、きいちゃん。ママとかお母さんとか沙織ちゃんとか、色んな呼称を経て「きいちゃん」に辿り着いた。この0呼び方が、他のどんな呼び方よりも、いちばんしっくりくる。友達親子なんて言葉があるけれど、あたしときいちゃんもおそらくそれに近い。親に対する敬意や畏怖の前に、対等であるという感覚が強い。

 

何かを発端にあたしとばばあがいがみ合ったり憎しみあったりして険悪なムードになろうと、家庭の中で揉め事が起ころうと、深刻な問題にまで発展してこなかったのは、三人の間に通底する奇妙な明るさや楽観性に加え、鳩の帰巣本能のように、戻るべき場所に戻ろうとする習性が働いているような気がしてならない。

 

やせ細り、ほとんど骨と皮みたいな風貌にくわえ、聴力が低下しているのに、ばばあの声にはあたしやきいちゃんよりもずっと張りがある。「お金のことはお母さんが心配しなくても大丈夫ですよ。私がなんとかするので」。ばばあの身体の衰えが顕著になったこの一年ほど、あたしやきいちゃんは、寝る時間、飽きる時間、食事の時間、パートの時間など、すべてばばあに合わせた生活スタイルだ。離婚する前は、親父に尽くし、親父の生活スタイルに合わせたいた。きいちゃんはいつも自分の時間を誰かの為に使って生きている。自分の時間を、自分のためだけに使うことを決してしない。

 

今のきいちゃんも、日々忙しない。朝はばばあを起こしてトイレに行かせ、オムツの交換と着替えをさせ、朝食を食べさせ、迎えにきた施設職員に引き渡し、パートが終わったらその足で掛かりつけの病院に薬をもらいに行き、家に帰ったら、ばばあの為に減塩に仕上げた夕食の準備をし、食べさせ、片付け、寝かせる。ばばあが自力でできることは、食って寝て排泄することだけだ。あいつはひとの時間も食って生きている。

 

「そういえば、八月に送ったのは、いつ発表されるの?」。きいちゃんは、あたしが自分の小説を送った文学賞の話をしているのだ。あたしは小説家になりたかった。小説家になりたかったが、小説家になるための小説を書きたくなかった。二度目の落選で、あたしはまた振出しに戻ったように感じた。あたしは焦っていた。「・・・発表、もうすぐかな」「楽しみだね、合格発表」「合格って、受験じゃあるまいし」「ゆめは小さい頃から文章が上手かったから、きっと小説家になれるよ」。きいちゃんの言葉を曖昧に笑って受け流す。来年は成人を迎える娘を、きいちゃんは無条件で認める。何もかも、全肯定してくる。

 

「ハズレくじひいたね」。なぜきいちゃんに向かって急にそんな言葉を吐いたのか、自分でもよくわからなかった。浮気して子供まで作って出ていった男と結婚しただけでもハズレなのに、別れた後もその男の母親の面倒を見るなんて、ハズレもいいところ。

 

親父と連絡がつかなくなったのは、ばばあが退院してひと月ほど経った頃だった。毎月あたしの銀行口座に振り込まれる生活費の入金がなく、LINEで催促の連絡をいれたが、一週間経っても既読すらつかない。電話やメールを入れても一向につながらなかった。すぐにきいちゃんに報告すると、もう少し待ってみようと返答がある。それからひと月経っても親父からの連絡はなく、次第に様子がおかしくなっていった。「ゆめちゃん、千円貸してくれたりしないよね?」などと頼み込んでくる。

 

親父からの送金が途絶え、日に日にやつれていくきいちゃんと、それとは対照的に元気で盛んにお喋りするばばあの顔を見るのが嫌で、だんだん帰宅が億劫になった。しかし、嫌なことばかりではなかった。派遣の更新月の前に、勤務先の会社から、正社員として雇用してもらえることが決まったのだ。

 

あたしか書く小説は必ず終わりを迎えるし、良くも悪くも決着がつくのに、現実はそうではない。ずっと続いていくのだ。優しくしようと穏やかな気持ちで思った直後に殺したいほどの憎しみが襲ってくる。家族三人で決意を固めた翌日には、三人で死んでしまえたらと本気で思う。

 

現代のさしせまって切実な問題を、面白おかしくまとめています。が、果たして、芥川賞か、と言うとちょっと疑問です。

 

 

高瀬隼子の芥川賞候補作「おいしいごはんが食べられますように」を読んだ!

 

高瀬隼子の芥川賞候補作「おいしいごはんが食べられますように」を読みました。わりと気持ちよく読めました。

 

年に2回ある芥川賞(ここでは直木賞は無視します)、長年の習慣で、読まなきゃならないし、ブログに書かなきゃならないので、ホント、憂鬱です。なんと今回の候補作は全員が女性だそうです。

 

さて、「おいしいごはんが食べられますように」ですが・・・。

昼休みの十分前、支店長が「そば食べたい」と言い出し、「おれが車出すから、みんなで、食べに行くぞ」と数人を引き連れ、木嘘久野インター近くにあるそば屋まで出かけて行く、というような和気あいあいとした職場の話。

 

昼休み時間を少しオーバーして、支店長たちが戻ってきた。ただいまぁ、と公絵を上げながら扉を開いたのはパートの原田さん。「そばめっちゃおいしかったようぉ、支店長がおごってくれたの、全員分!」と報告。後ろに続いた芦川さんも「やっぱりみんなで食べるごはんが一番おいしいですよね」という。藤さんが「芦川さん、あのさあ、その机に置いてあるお茶、こないだ出たばっかの新商品でしょ。勝手に一口もらっちゃった」。すぐに原田さん藤さん勝手に飲んでぇ、きもちわるーい、と非難した声を上げたが無視される。芦川さんは隣の席で、後輩の押尾さんが不快そうに顔を歪めtのが目に入った。芦川さんは、そうですかあ、と間延びした声を出した。

 

わたし芦川さんのこと苦手なんですよね、って言ったら二谷さんは笑った。絶対笑った。そう思うのに、一瞬で表情が消えたので自信がなくなる。自信っていうのは、笑ったっていう事実があったことについてじゃなくて、二谷さんは芦川さんよりわたしのことが好きなはず、っていう方の。

 

社外研修会の帰り、「この辺り、初めて来たんですけど、二谷さん詳しいんですか」そう言うと、二谷さんは全然、と首を横に振った。「そこらへんの居酒屋に適当に入るつもりだかr、押尾さんも予定がなかったら一緒に食う?」。その誘い方がただの同僚という感じがしてよかったので、付いて行った。生ビールを二杯目を空ける頃には、支店長の悪口はひととおり言い終えていた。支店長よりも直接指示を受ける藤さんについては、こちらな「まあまあ」と深くは話さない。

 

ジョッキを顔に近付けて唇を触れる前に、「わたし芦川さんのこと苦手なんですよね」と言った。二谷さんがビールを飲むのを止めてわたしをわたしを見た。二谷さんはへえ、と言って目を細めた。今日はそういう話をする日なんだね、とその目が言っている。「苦手って、どういうところが」。「いりろ、ありますけど、例えば今日の研修会に来てないところとか」。朝、電車に乗って会場へ向かっている時、芦川さんからメッセージが届いた。体調が悪いので今日の研修を欠席する、という内容だった。

 

「ときどき、あるみたいだね。芦川さんがしんどくなって休むこと」、「っていうか、できないことを周りが理解しているところが、ですかね」。「別に芦川さんが言ってるわけじゃないですが、わたしはこれが苦手でできませんって表明しているわけじゃない。でも支店長や藤さんや他のみんなも、うちに来てまだ三ヵ月しか経ってない二谷さんでも、分かってるでしょ。それで、配慮している。それがすっごい、腹立たしいんですよね」。「それじゃあ、二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」。冗談です、いじわるすぎましたね、と口を開きかけた時に、二谷さんが「いいね」と言った。ほら、大丈夫だった。

 

入社は二谷の方が芦川さんより一年早く、入社から六年間は東北の支社にいた。三か月前に転勤してきて、ここでの仕事は芦川さんから教わる形で引き継ぐことになっていた。後になって、藤さんから「芦川さん、前にいた会社でハラスメント、みたいなの受けていたらしくて、今も、声がでかい男の人はあんまり得意じゃないらしいんだよね」と説明され、入社時期としては一年先輩にあたる芦川さんが、年齢は一つ上で、今年三十になる人なのだと知った。二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女を想像するのも平気になった。それは不思議なことで、なんとなくかわいいと思っていた時よりも、彼女の弱いところにばかり目がいくようになった後の方が、想像の中の彼女は色気を放った。

 

ラスト、 

口いっぱいにスポンジを詰め込み、歯の表と裏と歯茎の間までクリームを塗り込みながら、食べる。すごい、と言うと芦川さんが笑う。すごくきらきらした顔で笑う。うれしそうに見える。ほ んまにうれしいんかそれ、とケーキでいっぱいにな  った口の中で言うと、芦川さんが「え?」と笑った顔のまま聞き返す。おれたち結婚すんのかなあ、と二谷が言う。結婚、のところだけなんとなく聞き取れたよう、で、芦川さんが目を見開く。目のふちに塗られたシルバーのアイシャドーがきらりと光る。ふっくらとした涙袋が震える。「わたし、毎日、おいしいごはん作りますね」と、クリームでコーティングがしてされた甘い声でささやく。揺らがない目にまっすぐ見つめられる。幸福そうなその顔は、容赦なくかわいい。

 

たまたま「文藝2022年夏季号」を見ていたら、高瀬隼子の「おいしいごはんが食べられますように」について、下のように書いてました。う~ん、そこまで読むか、まあ、なんとも言えません。

 

高瀬隼子の「おいしいごはんが食べられますように」は、人を追い詰める構造を個々人の内部から描いたものである。小説は、過去のハラスメントを受けた経験を持ち、自分へのケアを行わずには物事を成り立たせることのできない女性と、そうした女性に憎悪を募らせていく人々を描く。「おいしいごはん」とは弱さを抱えた人が適切にケアされる理想的な社会の象徴である。けれどもその理想は、自らへのケアが不得手で、ケアを負担に感じてやまない人々にとっては疎ましいものでしかないのだ。その齟齬を丹念に描いていくこの小説は、全てを束ねる「物語」の不可能性を、狂おしく表現するものであった。「文芸季評:水上文」

 

第167回芥川賞候補者

「うた日記」の鴎外 永田和宏!

朝日新聞:2022年6月24日

 

軍医でもある森鴎外は従軍中の詩歌を集めた「うた日記」の冒頭に、こんな趣旨の作品を載せた。「世の批評家よ、あんまりうるさく咎(とが)めてくれるな。日記の歌がみんな秀歌だったら、俺は歌の聖(ひじり)だろうよ」

歌人永田和宏さんが「図書」5月号で紹介しつつ、「思わず頬が緩んでしまう」と書いていた。「天声人語」より

 

「天声人語」の言わんとしていることは、「世にある居直りの多くは、見苦しいものばかりだ」として、先日公表された東京五輪・パラリンピックの公式報告書などについて批判しています。鴎外の「うた日記」には、「つまらないものとして世の人が焼いてしまうと言うのなら、焼かれてもよかろう」とまで書いています。

 

なぜ鴎外が、日記という形で詩歌集を発表しようとしたのか、そこに描かれている世界、戦争という<非常の景>を詩歌として詠うことにどのような意味があったのか。そんな<内容>に関わる疑問は、永田は意識して触れていません。

 

「うた日記」の鴎外 

――音韻定型詩の可能性への挑戦 永田和宏(歌人・細胞生物学)

 

岩波書店からの小冊子「図書」、毎月一回配本されていて、僕も読んでいます。が、書く人と内容にもよりますが、なかなか難しい。5月号は永田和宏さんが書いたのをみつけて、こんなところにも寄稿しているのかと驚きました。

2022年5月1日発行 

図書 第881号 岩波書店

 

過去の関連記事:

永田和宏の「あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春」を読んだ!

永田和宏「ほんとうに俺でよかったのか 」!

永田和宏の「歌に私は泣くだろう 妻・河野裕子 闘病の十年」を読んだ!

河野裕子・永田和宏「たとへば君 四十年の恋歌」を読んだ!

「歌仙はすごい 言葉がひらく『座』の世界」を読んだ!

 

 

古市憲寿の「10分で名著」を読んだ!

 

古市憲寿の「10分で名著」(講談社現代新庫:2022年5月20日第1刷発行)を読みました。

 

古市憲寿は、初期の、芥川賞候補作など数冊、読みました。コメンテーターとして、テレビで観ることもありました。どういう人かはよくわかりません。社会学者、と名のっているようですが・・・。最近、「ヒノマル」という長篇小説が出たようですが、購入するまでには至っておりません。

 

さて、「10分で名著」、題名からしてNHKの「100分de名著」をパロっているのは明らかです。「名著」として選ばれているのは、文句の言いようのない「古典」ばかりです。この本は、ほとんどその道の達人、「最強の水先案内人」に多くを負っています。なぜかアインシュタインの「相対性理論」が入っています。まさに「虫のいいガイド本」です。でも、やっぱり本は読まなくては分かったことにはなりません。

 

本のカバーには、以下のようにあります。

最強の水先案内人が

プロに「読みどころ」を聞いてみた――。
『神曲』『源氏物語』『わが闘争』『資本論』……、名著を読まなくても楽しめる、虫のいいガイド本、誕生!


好きな女性とはセックスできず、

添い寝しかできない男の悲哀――『源氏物語』
莫大な印税収入でヒトラーは自信をつけた――『わが闘争』


手に取ってみたけれど、挫折した……、

でもあきらめるのはまだ早い! 

聞き手=古市憲寿+構成=斎藤哲也の

名コンビが贈る名著ショートカット。

幸いなことに、「名著」や「古典」には人生を掛けて、その一冊と向き合ってきたようなプロがいる。何の前提知識もなく、いきなり分厚い古典を読んで、「やっぱり難しい」とあきらめてしまうのは、あまりにも勿体ない。もちろんプロの言うことが100%正しいとは限らない。初読者が思いも寄らぬ発見をする可能性はゼロではない。確かに本の読み方に正解はない。だが、「名著」や「古典」は、古今東西、数え切れない人に読まれてきたのだ。せっかく地図がある街を、手ぶらで歩くのは、あまりにも効率が悪い。結果的に地図を見ないとしても、一応は先人の言うことを聞いておいて損はない。というわけで、厳選した12の「名著」や「古典」について、その道のプロの読み方、読見どころを聞いてきた。本書はいわば「名著の歩き方」ということになる。――「はじめに」より

目次

はじめに
第1回 ダンテ「神曲」――都市市民が生まれて、煉獄が生まれた 原基晶
第2回 紫式部「源氏物語」――「宇治十帖」の不器用で流されやすい登場人物たち 大塚ひかり
第3回 プルースト「失われた時を求めて」――宝探しのように自分の読みたいところを探す 高遠弘美
第4回 アインシュタイン「相対性理論」――時間も空間も一つではない 竹内薫
第5回 ルソー「社会契約論」――「明日からこの国を、この世界をどうしよう」と考えるヒント 東浩紀
第6回 ニーチェ「ツァラトゥストラ」――「神は死んだ」など好きなパワーワードを探してみる 竹田青嗣
第7回 ヒトラー「わが闘争」――大衆を小馬鹿にした第6章「戦時宣伝」 佐藤卓己
第8回 カミユ「ペスト」――「自分事」となると、一気に読みやすくなる 佐々木匠
第9回 「古事記」――縄文系と弥生系の世界観が混在していた 三浦佑之
第10回 マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」――単なる恋愛小説ではない 鴻巣友季子
第11回 アダム・スミス「国富論」――啓蒙の時代にお金儲けは肯定された 野原慎司
第12回 マルクス「資本論」――「新しい世界」の秘密を明らかにしようとした 的場昭弘

 

古市憲寿:

1985年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に抽出し、クールに援護した著書「絶望の国の幸福な若者たち」、世界の戦争博物館を巡り戦争と記憶の関係について考察した「誰も戦争を教えてくれなかった」(以上、講談社)で注目され、メディアで活躍。他著書に「絶対に挫折しない日本史」「楽観論」(以上、新潮新書)、「古市くん、社会学を学び直しなさい!」(光文社新書)など。

小説に「平成くん、さよなら」「ヒノマル」(以上、文藝春秋)、「百の夜は跳ねて」(新潮社)、「アスク・ミー・ホワイ」(マガジンハウス)などがある。

 

過去の関連記事:

古市憲寿の芥川賞候補作「平成くん、さようなら」を読んだ!

古市憲寿の芥川賞候補作「百の夜は跳ねて」を読んだ!

古市憲寿の「奈落」を読んだ!

栗原康の「アナキスト本をよむ」を読んだ!

 

栗原康の「アナキスト本を読みました。というのは、うそです。

 

購入しただけで「積読」状態ではもったいない。とはいえ、この手の本、すべてを読むのはとてもじゃないけど不可能、というほかない。なにしろ、幅が広く、奥が深い。まあ、ほんの数冊ですけど、持ってはいますが、いつ読めるか…。

 

僕が栗原康の本を読むきっかけは、「村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」に出会ったことによります。なにしろ題名に驚かされました。なんじゃ、これは!しかも岩波から出てるじゃないですか。どんな人かと思って調べてみると、大杉栄研究もしてるアナキスト研究者ということが分かってきました。テレビの番組で見てみると、なんとまあ、アナキストとは程遠い優男じゃあないですか。いっぺんに好きになりました。一遍上人も研究しているし。先日は「100分deパンデミック」に出てましたね。

 

もう、しかたがありません。

この場は、「もくじ」を書いて、お茶を濁すほかありません。

これがまたすごい。

 

アナキスト本をよむ もくじ

 

はじめに 1

アナーキズム研究の新展開(田中ひかる「ドイツ・アナーキズムの成立」)

あらゆる債務を帳消しに!(ミレー+トゥーサン「世界の貧困をなくすための50の質問」)

怨念の労働(笙野頼子「金毘羅」他)

古くて新しいゼネストという希望(遠野はるひ・金子文夫「トヨタ・イン・フィリピン」)

グリーンキャピタリズム批判に向けて(高祖岩三郎「新しいアナキズムの系譜学」)

 

2011年3月、地震と津波がおきて、原発が爆発した。

反原発という遊び(ジョン・ホロウェイ「革命 資本主義に亀裂をいれる」)

子ども社会主義(「大杉栄自叙伝」)

腹切り念仏論(伊達政保「現在につづく昭和40年代激動文化」)

やりたいことしかもうやらない(鶴見済「脱資本主義宣言」)

あらゆる窃盗は革命的である(アラン・セルジャン「アナーキストの大泥棒」)

みさかいなく跳ねてやる(聖戒編「一遍聖絵」)

やさしくしてください(羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」)

生きることゴキブリの如し(平井玄「ぐにゃり東京」)

革命的赤ちゃん主義(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」)

汚物上等、くそでもくらえ(足立正生「断食芸人」)

われわれは圧倒的にまちがえる(マウリツィオ・ラッツァラート「記号と機械」)

貧乏人は日本をほろぼす(プレイディみかこ「THIS IS JAPAN」)

マヌケは暗闇である(松本哉「世界マヌケ反乱の手引書」)

仕事は仕事、いつでもやめろ(小川さやか「『その日暮らし』の人類学」)

たいへん、わるのり、騒乱だ(不可視委員会「われわれの友へ」他)

芸術は常軌を逸している(砂古口早苗「裁て、飢えたる者よ」)

 

2017年、元祖アナキスト・一遍上人の伝記を書いた。

国土じゃねえよ、浄土だよ(自著「死してなお踊れ」)

[特別収録:安藤礼二氏との対談]いくぜ極楽、なんどでも―日本のアナキズムの原点・一遍

倫理じゃねえよ、不倫だよ(原口剛「叫びの都市」)

人民の犯罪を煽動せよ(ピヨトール・アルシノフ「マフノ運動史1918-1921」) 

精神のあき地をとりもどせ(森まゆみ「暗い時代の人々」)

あなたの人生、パンクさせます(プレイディみかこ「花の命はノー・フューチャーDELUXE EDITION」)

ハラハラしようぜ(松下竜一「狼煙を見よ」)

仏は無職だ、このやろう(丹野未雪「あたらしい無職」他)

オラ、投石がしてえ(長嶋有「もう生まれたくない」)

セミ一匹、うたえばババア(藤城かおる「唖蝉坊伝」)

ろくなもんじゃねえ!(植木等「夢を食いつづけた男」)

あらゆるセックスはぜったいにただしい(本田由紀・伊藤公雄編著「国家がなぜ家族に干渉するのか」)

天皇制に鼻血ブー(「磔刑の彼方へ 小田原紀雄社会活動全記録」)

[特別収録:守中高明氏との対談]他力の思想を生きる―無償の救いをブン投げよう

いい感じ!(高見順「いやな感じ」)

神話じゃねえよ、民話だよ(井波律子「水滸伝」)

奴隷のあばれ方(マルクス・シドニウス・ファルクス「奴隷のしつけ方」)

 

2020年春、コロナで支配がつよまった。

万国の子どもたちよ、駄々をこねろ(江口幹「渇きのままに」)

紙は死んだ(瀬戸内寂聴「遠い声 菅野須賀子」)

くそったれの人生、スパークジョイ!(プレイディみかこ「ワイルドサイドをほっつき歩け」)

アナルコ・ニヒリズム宣言!(マニュエル・ヤン「黙示のエチュード」他)

怨、怨、怨、されど怨(森元斎「国道3号線」)

暴動はケアだよ、Be WATER!(藤野裕子「民衆暴力」)

燃やし燃やされ、焼き焼かれ(中里介山「大菩薩峠」)

キツネがくる(デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ」)

物語に鉄砲をぶっぱなせ(早助よう子「恋する少年十字軍」)

 

人名・作品名索引

 

NHK「100分deパンデミック」出演時
 

栗原康: 

1979年埼玉県生まれ。政治学者、作家、大学非常勤講師(東北芸術工科大学ほか)。早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程満期退学、専門はアナキズム研究。2017年、第10回「池田昌子記念 わたくし、つまりNobody賞」受賞。

単著:「G8サミット体制とはなにか」(以文社 2008、増補2016)、「大杉栄伝―永遠のアナキズム」(夜光社 2013、第5回いける本大賞)、「はたらかないで、たらふく食べたい―『生の負債』からの解放宣言」(タバブックス 2015)、「現代暴力論―『あばれる力』を取り戻す」(角川新書 2015)、「村に白痴になれ―伊藤野枝伝」(岩波書店 2016、岩浪現代文庫 2020)、「死してなお踊れ―一遍上人伝」(河出書房新社 2017、河出文庫 2019)、「アナキズム―一丸となってバラバラに生きろ」(岩波新書 2018)、「執念深い貧乏性」(文藝春秋 2019)、「奨学金なんかこわくない!―『学生に賃金を』完全版」(新評論 2020)など。

監修・編著:「日本のテロ―爆弾の時代60S-70S」(河出書房新社 2017)。「狂い咲け、フリーダム―アナーキズム・アンソロジー」(ちくま文庫 2018)など。

共著:「経済的徴兵制をぶっ潰せ!―戦争と学生」(岩波ブックレット 2017)。「菊とギロチン―やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ」(原作:瀬々敬久・相澤虎之助、タバブックス 2018)。「文明の恐怖に直面したら読む本」(白石嘉治との対談、Pヴァイン 2018)。「半島論―文学とアートによる叛乱の地勢学」(響文社 2018)。「平成遺産」(淡交社 2019)など。

近年ははたらきすぎだが、座右の銘は「はたらかない、でたらふく食べたい」。大好物はビール、ドラマ鑑賞、詩吟、河内音頭、長淵剛。

 

過去の関連記事:

買ってはありますが、積読状態の本が数冊あります。

栗原康の「サボる哲学 労働の未来から逃散せよ」を読んだ!

栗原康の「執念深い貧乏性」を読んだ!

栗原康の「大杉栄伝 永遠のアナキズム」を読んだ!

栗原康の「死してなお踊れ 一遍上人伝」を読んだ!

栗原康の「アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ」を読んだ!

栗原康著「村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」を読んだ!

テアトル新宿で、瀬々敬久監督の「菊とギロチン」を観た!

デニス・ホッパー監督の「イージー・ライダー」を観た!

 

世界サブカルチャー史 

欲望の系譜選 アメリカ幻想の70S

2022年6月18日(土) 10:30PM(1H30M) NHKBSプレミアム

 

たまたまNHKBSの「世界サブカルチャー史」を観ていたら、大きく「イージー・ライダー」が取り上げられていました。

 

「イージー☆ライダー」1969年公開

監督:デニス・ホッパー

 

 

 

 

バイクにまたがった若者たち、

アウトサイダーが自由とアメリカン・ドリームを求めるたび。

しかし、監督のデニス・ホッパーはアメリカに

忍びよる影もまた捉えようとしていた。

 

例えば大都市では黒人と白人の争いで

街のあちこちでやきうちさわぎがあったし

ヒッピーは街に繰り出してドラッグの使用を

堂々と主張し、ラヴ・インが行われ

国中がヴェトナム戦争に対して

失望​​​​​するようになっていたりで

恐ろしいほどに悪い状態だったんだ。

「イージーライダー」伝説

―ピーター・フォンダとデニス・ホッパーより

 

ここからが映画です。

 

デニス・ホッパー監督の「イージー・ライダー」を観ました。この映画、あまりにも有名で知ってはいましたが、なぜか観る機会がありませんでした。ちょっと僕より上の世代、ということもあったし…。たまたまNHKBSで放映していたので、録画して観ました。

 

シネマ「イージ・ライダー」

2022年6月19日(日) 0:00AM(1H36M) NHKBSプレミアム

 

以下、KINENOTEによる。

 

解説:

アメリカの真の姿を求め、自由な旅を続けた2人の若者の物語。監督は俳優出身でこれが第一作のデニス・ホッパー。脚本は、製作を兼ねたピーター・フォンダとデニス・ホッパー、テリー・サザーンの共作。

撮影はラズロ・コヴァックスが担当。全編に流れるニューロックを、“ザ・バンド”、“ステッフェンウルフ”、ジミー・ヘンドリックスなどが演じている。製作総指揮はバート・シュナイダー。出演はプロデュース第一作に張り切るピーター・フォンダ、「OK牧場の決斗」に出演していた、監督のデニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン、アントニオ・メンドザなど。テクニカラー、スタンダード。1969年作品。

 

あらすじ:

マリファナの密輸で大金を手にしたキャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)は、大型オートバイを買い、旅に出た。2人は、自由の国アメリカの幻影を求めて、フロンティア精神の母体、南部をめざし、気ままにオートバイを走らせた。途中、一人のヒッピー、ジーザス(アントニオ・メンドザ)を同乗させた二人は、彼の案内でヒッピー村に入っていった。しかし、村の住人たちは、行動で自由を表現する2人を拒絶するのだった。再び旅を続けた彼らは、ラスベガスで警察に留置されてしまった。それは、許可なしでパレードに参加しただけの理由だった。そこで知り合った酔いどれ弁護士ジョージ(ジャック・ニコルソン)と意気統合した2人は、彼をつれて謝肉祭を見物すべく、ニューオリンズへオートバイを走らせた。3人は、マリファナを吸い、野宿をしながら旅を続けた。そんな3人を、保安官をはじめとする沿道の村人は悪口と殺意をもって迎えた。彼らを国境から出すまいとする村人はある夜、野宿をしていた3人を襲撃。キャプテン・アメリカとピリーはかろうじて逃げのびたが、ジョージは惨殺されてしまった。ジョージを失った2人は謝肉祭にも魅力を感じなくなり、娼婦を連れて墓地に行った。そこで、アメリカの保守性を呪訴し、自由がカケラも見当たらないことを悲しんだ。やがて、オートバイで州境にさしかかった彼らに、2人の農夫が乗った1台のトラックが近づいて来た。何かをわめきながら、1人の農夫が発した突然の銃弾にオートバイごと転倒するビリー。後を追ったキャプテン・アメリカも、続いて発射された弾丸にオートバイと共に吹っ飛んでしまった。自由の国アメリカの真の姿を求めた彼らへの、これがファナティックな現実の返答だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西村賢太の「雨滴は続く(未完)」を読んだ!

 

芥川賞作家の西村賢太さんが5日、東京都内の病院で死去した。54歳だった。

芥川賞作家の西村賢太さんが5日、東京都内の病院で死去した。

 

西村賢太の「雨滴は続く(未完)」(文芸春秋:2022年5月30日第1刷発行)を読みました。連載最終回の執筆途中に著者が急逝したため、本作は未完の遺作となりました。

 

”最後の私小説作家”が、

生命を賭して紡ぎ続けた

畢生の大作1000枚。

仰ぎ見る師・藤澤淸造に少しでも近付くべく、時に女たちに心奪われながらも、寛多は作家への道を歩み始める――。

 

2004年暮れ、北町貫多は37年の人生においてはじめての高揚を味わっていた。同人誌に発表した小説が、大手文芸誌「文豪界」に転載されたのである。にわかに訪れたチャンスをものにして、”輝かしき新進作家”になるべく、苦悩しながらも奮闘する作家前夜の日々。

 

始まりはこうである。

このところの北町貫多は、甚だ得意であった。元来、と云うか、生まれついてこのかたの不運続きで、37歳と云う年齢を虚しく経(た)ててきた彼にとり、それはかつて味わったことがない昂揚であり、覚えた様(ためし)のない心境でもあった。――ことの起こりは、二箇月近く前に届いた一通の葉書である。文豪春秋の文芸誌「文豪界」編輯部から届いた一通の葉書である。編輯者によるところの短文は、寛多の作品が2004年下半期の<同人雑誌優秀作>に決定したことを伝えるものであり、ついては該作を「文豪界」の12月号に転載するので、追ってゲラを送付、訂正箇所を手直しした上で早急に戻してほしい、との意の文言が続いていた。

 

それからが苦難の道、「文豪界」とか「群青」とかの商業誌にはさすがの貫多もそう簡単には食い込めません。

 

そして終わりはこうである。

一応の習慣になっている階下の集合郵便受けを覗きに行った貫多は、・・・一通の茶封筒があることに気付いた。裏面を返すと、差出人として<日本文学振興会   

 芥川賞直木賞係>と印字されている。・・・予想通りに、その文意は今期の芥川賞候補にあがったとの知らせであった。・・・ヘンな云い草だが、何か呆気ない感じもしていた。芥川賞と云うとその候補になるのも茨の道かと思っていたが、こんなに簡単に、こんな手易くなれるものかと拍子抜けがした感じであった。それが故、このとき貫多の口から洩れたのは、「うわ・・・本当に候補とか来ちゃったよ。さすがは、ぼくだな」との、まるで抑揚のない、吐いたそばから消え去る空虚な独言であった。

 

これからという時に、この小説は485ページで<未完>となり、この続きは永遠に目にすることができなくなりました。こんな終わり方ってあるんですね。

気になるのは、〇〇新聞の記者葛山久子と、おゆうこと川本那緒子とのその後についても。不思議なのは、貫多が困った時に助け船を出してくれる12歳年上の落日堂店主新川です。

 

西村賢太: 
1967(昭和42)年7月、東京都江戸川区生れ。中卒。新潮文庫版「根津権現裏」「藤澤淸造短篇集」、角川文庫版「田中英光傑作選 オリンポスの果実/さよなら 他」を編集、校訂、解題。著書に「どうで死ぬ身の一踊り」「暗渠の宿」「二度とはゆけぬ町の地図」「小銭をかぞえる」「廃疾かかえて」「随筆集 一私小説書きの弁」「人もいない春」「苦役列車」「寒灯・腐泥の果実」「西村賢太対話集」「小説にすがりつきたい夜もある」「一私小説書きの日乗」(既刊7冊)「棺に跨がる」「疒(やまいだれ)の歌」「下手に居丈高」「無銭横町」「痴者の食卓」「東京者がたり」

「形影相弔・歪んだ忌日」「風来鬼語 西村賢太対談集3」「蠕動で渉れ、汚泥の川を」「芝公園六角堂跡」「夜更けの川に落葉は流れて」「羅針盤は壊れても」「瓦礫の死角」などがある。2022年2月、急逝。「夢魔去りぬ」

 

過去の関連記事:

西村賢太の「一私小説書きの日乗 憤怒の章」を読んだ!

西村賢太の「瓦礫の死角」を読んだ!

西村賢太の「下手に居丈高」を読んだ!

西村賢太の「けがれなき酒のへど 西村賢太自選短篇集」を読んだ!

西村賢太の「蠕動で渉れ、汚泥の川を」を読んだ!

西村賢太の「棺に跨る」を読んだ!

西村賢太の「廃疾かかえて」を読んだ!

西村賢太の「暗渠の宿」を読んだ!

西村賢太の「随筆集 一私小説書きの弁」を読んだ!

西村賢太の「小銭をかぞえる」を読んだ (記事なし)

西村賢太の「どうで死ぬ身の一踊り」を読んだ!

西村賢太の「小説にすがりつきたい夜もある」を読んだ!

西村賢太の「寒灯・腐泥の果実」を読んだ!

山下敦弘監督の「苦役列車」を観た!

西村賢太の「歪んだ忌日」を読んだ!
西村賢太の「苦役列車」を読んだ!

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