堀江敏幸の「熊の敷石」を読んだ! | とんとん・にっき

堀江敏幸の「熊の敷石」を読んだ!


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堀江敏幸の「熊の敷石」は、2001年に芥川賞を受賞したときに「文芸春秋」に掲載されたものを読んだ、という記憶があったのですが、今回文庫本で読んでみると、まったく内容の記憶が残っていません。2001年と言えば、今から7年前のことですから忘れることはないと思うのですが、単なる記憶違いか?堀江敏幸の作品は昨年夏、地方都市のビルの管理会社に勤める蕗子さんの亡くなった父親との心のやりとりを繊細に描いた「めぐらし屋」を読んでから、その後、文庫本の「雪沼とその周辺」を読みました。こちらは、第9階川端康成文学賞、第40階谷崎潤一郎賞、第8回木山捷平文学賞と、文学賞を総なめにした感のある連作短編集です。「熊の敷石」は、川上弘美が解説をしているというので、文庫本で再度読んでみようと思ったのですが、先に書いたように、読んでみると内容の記憶がありません。


「熊の敷石」は、2000年12月号の「群像」に掲載されたものを、他の短編と合わせて2001年2月に単行本として刊行されたものです。僕の読んだ文庫本は、2007年9月21日第4刷発行となっています。調べてみると「熊の敷石」の芥川賞受賞は、第123回の町田康の「きれぎれ」、松浦寿輝の「花腐し」の後で、第124回の青来有一の「聖水」と同時受賞だったようです。文庫本の裏表紙には、「『なんとなく』という感覚に支えられた違和と理解。そんな人とのつながりはあるのだろうか。フランス滞在中、旧友ヤンを田舎に訪ねた私が出会ったのは、友につらなるユダヤ人の歴史と経験、そして家主の女性と目の見えない幼い息子だった」と、あります。


フランス留学の経験のある日本人の「私」が、フランスを再び訪れて、ノルマンディの小さな田舎町でこの2年ほど音信不通になっていた旧友・ヤンと再会します。彼は1年のうち何ヶ月かアルバイトで稼ぎ、金が貯まるとあちこちへ旅をして写真を撮っているという生活で、パリ郊外のアトリエを引き払っていました。電話をしてみると、明日からアイルランドへ発つという。いま会っておかなければ、また数年会えないと思い、パリから2時間の列車の旅を経て、約束の駅で両耳にピアスをつけたスキンヘッドのヤンと再会します。彼の家へ行く途中、石切場へ寄り彼は撮影をします。車を止めて少し休んだ教会前広場で案内板を見ると、モン・サン・ミシェルの尖塔が見える最も遠い地点、とあります。彼の家は海の見えるアヴランシュから車で30分のところにあるという。「リトレのアヴランシュか?」と聞くと、地元出身の有名人だという。偶然にも、「私」が持ち越していた仕事は、「フランス語辞典」を書いたリトレの伝記の紹介文と部分訳をつくることで、リュックにはその本が入っていました。


「私」はヤンと出会った頃のことを思い起こします。ユダヤ人街へ出かけてサンドイッチを食べたときのことや、ヤンの母方の祖母はポーランド人で祖父はロシア人と彼が話してくれたことなどです。「どうしてぼくをこんな街に連れて来ようと思ったんだ?」と聞くと、ヤンは「なんとなくね。きみにはなんとなくそいう話をしたくなるところがあるよ。柔道家でもないのに、受け身がうまい」と返され、彼の言いたいことが「なんとなく」わかりました。他人と交わるとき、その人物と「なんとなく」という感覚に基づいて相互理解が得られるかどうかを判断します。国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現れ、持続するときは持続し、消えるときは消えます。数年ぶりに再会し、「なんとなく」連れて来られたアヴランシュ近郊で、「私」はその時の気持ちによく似ていると感じます。


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ヤンと「私」の関係を、「ながくつきあっている連中と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のない、ちょうど宮沢賢治のホモイが取り逃がした貝の火みたいな、それじたい触れることのできない距離を要請するかすかな炎みたいなもので、国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現われ、持続するときは持続し、消えるときは消える。不幸にして消えたあとも、しばらくはそのぬくもりが残る」と、「私」は思います。


ヤンはこの村に落ち着く決定的な要因はモン・サン・ミシェルがあると打ち明けます。読みかけのリトレの伝記の幼年時代の章に、父親の故郷について書いてある個所をヤンに見せます。「父はアヴランシュで生まれた。岬の上にぽつんと止まった小さな町で、正面にモン・サン・ミシェルの僧院と、ひと気のない砂州が見える。挑発するように海に投げ入れられた、この時代がかった賞嘆すべき花崗岩の建物の効果はじつに堂々たるものだ」という個所です。今ではフランスの誰でも訪れる観光地ですが、満ち潮になると潮が僧院のまわりを取り囲み、陸地との連絡路は断たれて、海に屹立する奇岩城の趣を呈します。「よし、間に合うかもしれない。うまくすれば秘密の場所に案内できるよ」とヤンは言い、「私」を乗せて車を走らせます。連れて行かれた秘密の場所、そこは海面から3、40メートルほどもある切り立った崖の先端で、モン・サン・ミシェルはその崖の真っ正面に浮かび上がっていました。「150年前にエミール・リトレが書いた文章そのままの眺めが、いま私の眼前に広がっているのだった」。


1950年代に再刊された「リトレ」の端本が2冊、ひとつは「わたしはいかにしてフランス語辞典を作ったか」と題されたエッセイが採録されている第1巻で、もう一つは「P」の項目が記載されている巻で、「私」が釘付けになった引用個所は次の文です。「忠実な蠅追いは敷石をひとつ掴むと、それを思いきり投げつける」。友人ヤンとのごく普通の会話が続きます。この友人はユダヤ人であり、日本人の「私」が何気なく発する言葉の一つ一つが、友人の深い部分を突き刺すことに気が付きます。そしてこの日本人の「私」は、ラ・フォンテーヌの「熊と園芸愛好家」と題された「寓話」を読むことになります。


へんぴな山奥に住む話し相手のいない孤独な熊が、園芸好きな老人と意気投合し、いっしょに暮らしはじめます。熊は狩りに出かけ、老人は庭仕事に精を出します。熊のいちばん大切な仕事は、老人が昼寝をしているあいだ、わずらわしい蠅を追い払うことでした。ある日、熟睡している老人の鼻先に一匹の蠅がとまり、どうやっても追い払うことができなかった忠実な蠅追いは、敷石をひとつ掴むと、それを思い切り投げつけ、蠅もろとも老人の頭をかち割ってしまいました。「かくして、推論は苦手でもすぐれた投げ手である熊は、老人をその場で即死させたのだ。無知な友人ほど危険なものはない。賢い敵のほうが、ずっとましである」。(「熊の敷石」P112)


この「寓話」から、「熊の敷石」という表現は「いらぬお節介」という意味で使われているという。これを読んだ「私」はヤンに対してこの私はラ・フォンテーヌの熊みたいなものだったのではないかということに気が付きます。つまり、フランスのユダヤ人問題など、話す必要のないことを「なんとなく」相手に話させて、傷をさらけ出されるような輩は、冷淡な他人よりも危険な存在なのではなかろうかと、自問します。「潮の引いたモン・サン・ミシェル湾さながら、ふだんは見えない遠浅の海でどこまでも歩いていけるような錯覚の内に結ばれ」てはいるが、「実際には、互い互いの見えない蠅を叩きあっているのではないか。投げるべきものを取りちがえているのではないか」と、「私」は思い至ります。


「私」とヤンの出会いのきっかけは「ペタンク」と呼ばれる石を投げて遊ぶ競技、ヤンと会うためにアヴランシュ行きの列車で隣り合わせた学生の「カマンベール投げ」の話、そして、熊の投げた敷石、つまり「熊の敷石」へと繋がります。絶滅収容所から帰還したセンプルンの「囚人カード」は、学生ではなく漆喰工だったという話、「学生は仕事ではない、ここで生き残るためには、電気技師とか、左官といった専門職についているほうがいいのだ」とは、「シンドラーのリスト」にも同様の話が出てきます。「イディッシュで話す習慣は、ぼくの前の世代で終わったんだ」、そして「収容所を知っている世代とそうでない世代では、なにかが変わる。決定的な線引きが行われる」とヤンは言います。ヤンの隣人のカトリーヌとその息子ダヴィッドの話、カトリーヌ手製の「熊のぬいぐるみ」。「目の見えない熊が、目の見えない息子といっしょに眠っている」写真を、「私」はヤンから見せられます。


ヤンの家族を思いながら「公の悲しみなんてありうるだろうか。悲しみなんて、ひとりひとりが耐えるほかないものではないのか。怒りや悲しみを不特定多数の同胞と分かち合うなんてある意味で美しい幻想に過ぎない。痛みとはまず個にとどまってこそ具体化するものなのだ。大切なのは個のレベルで悲しみをきちんと伝えていくことなのだ」と「私」は思います。ひとつひとつのさりげないエピソードは、すべてが微妙に絡まり合い、緊密に繋がってこの作品を構成しています。この完璧な作品「熊の敷石」は、近年の芥川賞受賞作の中では抜きん出ており、堀江敏幸の最高傑作であると僕は確信しました。


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