ウイスキーを飲みながら、『ホモ・デウス』を読んでみる、金曜日の夜。


『ホモ・デウス』の中では、人間社会が生み出した大都市の象徴として「東京」が何度も何度も登場する。

皮肉なことに、人類が、AIの脅威に怯える21世紀だからこそ、明治の日本人の夢は叶えられたのかもしれない。


二.太田氏築城説否定論に反論する

(1)類型A「史料根拠の脆弱性」に反論する

まず、類型A「史料根拠の脆弱性」に分類された否定論について反論を試みる。

▼否定論Aー(ア):『鎌倉大草紙』への疑義

黒田(一九九四)は、『鎌倉大草紙』より信頼度が高いとされる『松陰私語』における記述「江戸・河越両城堅固也、彼城者道真・道灌父子、上田・三戸・萩野谷関東巧者之面々、数年秘曲相構」を引き合いに、『鎌倉大草紙』の岩付城築城記述の信頼性に疑いを呈する。
この記述において「岩付城が登場しない」ことを指摘し、『鎌倉大草紙』の河越・岩付・江戸三城同時築城の記述が『松陰私語』によって裏付けられないことを論じたのである。

また、黒田氏は、二〇〇九年刊の『図説 太田道灌』(戎光祥出版)や、二〇一二年の論考「扇谷上杉氏の政治的位置」(『シリーズ中世関東武士の研究 扇谷上杉氏』(戎光祥出版))において、河越城・江戸城の築城についても『鎌倉大草紙』と『松陰私語』の記述内容には相違があることを指摘する。
具体的には、
・『鎌倉大草紙』の記述は、扇谷上杉持朝が河越城を、太田道灌が江戸城を、それぞれ分担して築城に当たったとし、
・対して『松陰私語』の記述は、太田道真・道灌父子を初めとして上田氏、三戸氏、萩野谷氏等の扇谷上杉氏重臣たちが数年かけて築き上げたとしている、
との相違を示し、『鎌倉大草紙』の河越・岩付・江戸三城同時築城の記述が、根本的に信用できないことを示唆したのである。

こうした黒田氏の議論に、以下、反論を加える。

・「岩付城が登場しない」のは不自然か

『松陰私語』の江戸・河越二城の築城記述に、「岩付城が登場しない」ことは、不自然何だろうか。

このことを考えるために、まず『松陰私語』という史料と、前掲の引用の位置付けを考えたい。

『松陰私語』は、「松陰」という僧侶の回顧録である。松陰は、上野国の山内上杉氏方の被官であった岩松氏の顧問僧であり、享徳の乱期から長享の乱期にかけて同氏の参謀的な働きをした人物である。そのため『松陰私語』には、山内上杉氏陣営の視点からの軍事情勢が記されており、両乱の推移を理解するための貴重な同時代証言とされている。

このような性格を有する史料『松陰私語』において、江戸・河越二城の築城記述は、山内上杉氏と扇谷上杉氏が衝突した長享の乱期の軍事情勢を述べる段で登場している。

当時、山内上杉氏陣営は、扇谷上杉氏陣営の二大拠点であった江戸城・河越城をたびたび攻めたものの、両城が堅固であったため攻略が叶わなかった。松陰はこうした状況を受け、両城が堅固である理由として、太田道真・道灌父子が、上田氏や三戸氏、そして荻野谷氏等の扇谷上杉氏被官の城造り巧者とともに、数年かけて技量を尽くして構築したものであるとの説明を加えているのである。

この記述は、『鎌倉大草紙』における河越・岩付・江戸三城築城記述の信頼性を失わせるものだろうか。
『松陰私語』は太田道真・道灌父子の事跡を記すことを意図とした史料でない。また、上の記述も太田道真・道灌父子が築いた主な城を挙げることを目的としてもいない。
岩付城が『鎌倉大草紙』が記した通り河越城・江戸城と同時期に太田氏によって築かれた城であったとしても、長享の乱における山内上杉氏による扇谷上杉氏攻めの中で攻めあぐねた城が河越・江戸の二城だけだったならば、『松陰私語』に岩付城が登場しないことは不思議ではない。

では、(ア)岩付城が享徳の乱初期に築かれており、より後世である長享の乱期には存在していたにもかかわらず、(イ)山内上杉氏による扇谷上杉氏攻めの中で河越城や江戸城のような攻撃対象とはならなかった、という状況は、想定し得るのだろうか。

筆者は是と答える。
上野国と武蔵国北部を領国とした山内上杉氏と、相模国と武蔵国南部を領国とした扇谷上杉氏が対立する時、その衝突の主な舞台は、武蔵国中部である。事実、長享二年(1488年)に起きた「関東三戦」と呼ばれた両上杉氏の会戦のうち二つ(須賀谷原合戦と高見原合戦)は、武蔵国中部で展開されている。同じく武蔵国中部に位置する扇谷上杉氏の本拠地河越城が、山内上杉氏陣営の攻撃を受けることになったのは当然の流れと言える。

一方、岩付城の置かれた位置は異なる。岩付城は、武蔵国の東部の荒川の西岸に位置しており、その対岸は古河公方陣営の勢力圏であった。岩付城は、扇谷上杉氏陣営と古河公方陣営の“境目の城”であったのだ。

「長享の乱」の初期において、扇谷上杉氏と古河公方は、明応三年の扇谷上杉定正の頓死までは同盟関係にあったことが知られている。この状況下において、両陣営の“境目”にあった岩付城は、地理的には“同盟勢力圏”の中央に位置することになる。同城は、山内上杉氏が攻略を狙う(狙える)城ではなかったことになるのである。

加えて、『松陰私語』の江戸・河越築城記述は、時系列的に扇谷上杉定正の頓死以前に置かれている。『松陰私語』が、攻めもど落ちぬ江戸・河越二城の堅牢性を論じた記述において、敵陣営中央部に位置する岩付城が登場しないのは、むしろ自然なことと言えよう。

なお、明応三年には扇谷上杉氏方の伊勢宗瑞が岩付城を攻め、古河公方方の簗田氏がこれを撃退するとの事件が発生している(明応三年の足利政氏書状より)。
明応三年が、古河公方がにわかに扇谷上杉氏を見限り、山内上杉氏側についた年であることを考えれば、この年に、古河公方陣営と扇谷上杉氏陣営の“境目の城”である岩付城が争奪の対象となったことは、納得しやすい。またここまで筆者が述べてきた想定ともよく符号する。

・江戸・河越二城の築城記述に矛盾はない




▼否定論Aー(イ):岩付と太田氏の関わり


▼否定論Aー(ウ):最古の岩付城主 渋江氏


2400文字



岩付城築城の謎 ー 太田氏築城説は甦るか

本稿では、岩付太田氏の本拠とされた岩付城の築城者問題、とりわけ太田氏によって築城されたとする“太田氏築城説”の成立性について検討する。

岩付城は、古くは、軍記物『鎌倉大草紙』等に基づき、岩付太田氏の先祖である太田道真あるいはその子道灌によって築城されたと考えられてきた(註1)。
しかし、こうした“太田氏築城説”は、現状において半ば否定された状況にある。より信頼できる史料に基づき、忍の成田氏による築城説(成田氏築城説)や岩付地域の古豪渋江氏による築城説(渋江氏築城説)が提起され、それぞれ支持を得たためである(註2)。一時、太田氏築城説からの反論もなされたが、後述の通り、成田氏築城説や渋江氏築城説側から指摘された矛盾点等に十分な応えた内容とはなっていない。

では、太田氏築城説は、成立し得ないことが明白だとして退けられるべき旧説であろうか。この問いに答えることが本稿の目的である。本稿では、太田氏築城説に突きつけられた矛盾点等を列挙した上で、それらへの反論を試みる。そして最終的に、同説に成立の余地が残されているか否かを検討したい。

なお、岩付城は江戸時代以降「岩槻城」と記され、今日もこの漢字表記が用いられているが、本稿では室町・戦国時代の同城を論じるため、当時の表記である「岩付城」を使用する。

一.太田氏築城説に対する否定論を洗い出す

まず、太田氏築城説に突きつけられた矛盾点等、各種の否定論を類型別に整理する。単に太田氏築城説への否定論を列挙するだけではなく、岩付城築城者論の“小史”としての記述も適宜織り混ぜたい。また、各否定論の詳細については、次章以降の反論の際に紹介することとし、本章では要約のみを示すことにする。

(1)類型A:史料根拠の脆弱性

最初の類型は、太田氏築城説の史料根拠の脆弱性を指摘した否定論である。

太田氏築城説の史料根拠

従来、太田氏築城説がその根拠としたのは、軍記物『鎌倉大草紙』の以下の記述である。
「其年長禄元年四月上杉修理大夫持朝入道。武州河越の城を取立らる。太田備中守入道は武州岩付の城を取立。同左衛門大夫は武州江戸の城を取立ける」

上杉修理大夫持朝入道は扇谷上杉持朝、太田備中守入道は太田道真、そして同左衛門大夫」は太田道灌を指す。従って『鎌倉大草紙』の記述は、この三者が手分けして河越城(川越城)・岩付城・江戸城の三城を築いたと記していることになる。

長禄元年(一四五七)は享徳の乱初期にあたる。
享徳の乱は、古河公方陣営と関東管領の上杉氏陣営が関東を東西に分けて激突した乱であったが、長禄元年当時は、古河公方陣営が騎西城(加須市)を拠点として上杉陣営の領国である埼西郡・足立郡に攻勢を仕掛ける情勢にあった。地形的に見て、河越・岩付・江戸の三城はこうした古河公方陣営の攻勢を受け止める位置に築かれている。『鎌倉大草紙』の三城築城記述は、当時の情勢に整合するものとして受け入れられたのだった。

『鎌倉大草紙』に対する疑義

こうした太田氏築城説の論拠に批判を加えたのが、成田氏築城説を提起した黒田基樹氏である。黒田氏は、一九九四年の論文「扇谷上杉氏と渋江氏 ー岩付城との関係を中心にー」(以下、黒田(一九九四)とする)において、太田氏築城説の史料根拠が脆弱であることを指摘した。

(ア) 『鎌倉大草紙』の岩付城築城の記述は、より信頼度の高い『松陰私語』の記述と齟齬があり、信頼性に疑いがある。(否定論Aー(ア)
(イ) 『鎌倉大草紙』以外の史料では、太田氏及びその主人である扇谷上杉氏と岩付城の関係は、長禄元年(『鎌倉大草紙』による太田道真による岩付城築城年)まで遡ることはできない。(否定論Aー(イ)
(ウ) 信頼できる史料から岩付城主として確かめられる最初の事例は、太田氏ではなく、従来は同太田氏の家臣と捉えられていた渋江氏である。(否定論Aー(ウ)

太田氏築城説が整理するには、否定論Aー(ア)(イ)(ウ)への反論が必要条件である。

(2)類型B:『自耕斎詩軸并序』との不整合

・根本史料『自耕斎詩軸并序』の登場

また黒田(一九九四)は、新出史料『自耕斎詩軸并序』(註3)の以下の記述に注目した。

「岩付左衛門丞顕泰公父金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城、通南北衝」(岩付左衛門丞顕泰公の父、金吾、法諱は正等、武略の名翼を挟み、門闌の輝きあり。一城を築いて、南北衝を通ず。)

『自耕斎詩軸并序』(以下、『詩軸』)は、鎌倉五山の著名な詩僧玉隠英璵によって明応六年(一四九七)に書かれた漢詩及びその序文であり、記述内容の信頼度は高い。
黒田(一九九四)は、この記述に基づき、
・「岩付左衛門丞顕泰」の父「正等」が岩付地域に築いた「一城」が岩付城であり、
・「岩付左衛門丞顕泰」は同名を名乗った同時代人、成田顕泰であり、
・その父であり岩付城築城者「正等」は、成田顕泰の前代の成田氏当主である、
と論じた。
すなわち、成田氏築城説の提起である。

黒田(一九九四)は明示的に論じていないが、氏が「正等」および「岩付左衛門丞顕泰」が太田氏に比定される可能性を検討していないことは、太田氏築城説に対して以下の批判を加えたことを意味する。

(ア)太田氏築城説は、『自耕斎詩軸并序』に現れる岩付城築城者「正等」にあたる人物を提示することができない。(否定論Bー(ア)
(イ)太田氏築城説は、『自耕斎詩軸并序』に現れる岩付城築城者「正等」の子「岩付左衛門丞顕泰」にあたる人物を提示さることができない。(否定論Bー(イ)

『詩軸』は、黒田(一九九四)以降『鎌倉大草紙』に代わり、岩付城築城者論における根本史料として扱われるようになる。

・太田氏築城説からの反論と再反論:正等の場合

こうした批判については、太田氏築城説側からも反論がなされた。在岩槻の郷土史家 小宮勝男氏が二〇一二年刊行の自著『岩槻城は誰が築いたか』(以下、小宮(二〇一二))において、『詩軸』に記された岩付城築城者「正等」の人物像は、むしろ太田道真のそれと一致すると主張したのである。

小宮(二〇一二)の議論は非常に重要であるため、主だったものを紹介したい。

(a)『自耕斎詩軸并序』において「自得逍遙」とあるのは、「自得」を主語と解釈すべきであり、正等が、「自得軒」を名乗った太田道真であることを示唆する。(小宮氏指摘(a)

(b)『自耕斎詩軸并序』は、現役時代の正等の活躍を「白羽扇指揮三軍」と表現する。白羽扇は諸葛孔明の比喩であり、正等が「当時の武州周辺の諸葛孔明を自負するほどのビッグネームの武将」であったことが示唆され、太田道真の人物像と符号する。また、太田道真の子道灌も生前に白羽扇を愛用していたことが万里集九の漢詩「一夢縦逢亦有由 風声墓樹漸驚秋 平生白羽慕諸葛 余習未忘呼扇求」(『梅花無尽蔵』第一巻)から窺われる。道灌が諸事において父道真に倣ったことを考えれば、道灌の白羽扇愛用は、「白羽扇」が太田道真の比喩であるとの理解と整合的である。(小宮氏指摘(b)

(c)「平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱(平生洞下の明識月江老に参じて新豊の唱を聞く)という記述から、正等が曹洞宗の高僧 月江正文に帰依したことがわかる。同僧が太田道真・道灌父子と関わりが深かったことを踏まえれば、同記述は、正等を太田道真とする考え方に対して支持的である。(小宮氏指摘(c)

(d)「而絵以求詩、有聴松住持龍華翁詩、懶庵亦其員而、詩序贅之」(而して絵して以て詩を求む、懶庵もまたその員にして、詩序これを贅す)からは、生前の正等が、己の絵を題材として玉隠(懶庵は玉隠の別名)ら複数の詩僧に漢詩を求めて詩画軸を作らせたことや、玉隠が序文を書いたことがわかる。複数の詩僧が漢詩を寄せ、その内誰かが長文の序文を書く形式の漢詩作品は、太田道灌が作らせた『静勝軒銘詩并序』等に類似する。このことは正等が「道灌と同レベルの権力と文人性を兼ね揃えた武将であった」ことを示すと考えられ、正等=太田道真説を支持する。(小宮氏指摘(d)

(e)通常、道号と法諱(法名)は並べて書くと接合部に意味のある言葉が形成される。道号「道真」と法名「正等」の場合も並べれば接合部に「真正」という意味のある言葉が形成される。「正等」という法名は太田道真のものとして相応しい。(小宮氏指摘(e)

小宮(二〇一二)の議論は、黒田(一九九四)が太田氏築城説の否定の根拠とした『詩軸』を、むしろ太田氏築城説の支持材料とした点で画期的であったが、その後、渋江氏築城説を提起した青木文彦氏から厳しい批判を受けることとなった。

青木氏は、平成26年度シンポジウム『戦国時代は関東から始まった』(埼玉県立嵐山史跡の博物館での講演「戦国時代の岩付とその周辺」(以下、青木(二〇一五))において、小宮氏の主張に対して以下の批判を加えたのである。
(青木(二〇一五)の批判は、否定論Bー(ア)に対する小宮氏の反論への再反論にあたる。そのため、否定論Bー(ア)の派生として枝番号を付した形式で整理する。)

・「自得逍遙」の「自得」を自得軒道真の示唆と取る根拠はない。むしろ『詩軸』が正等の斎号を「自耕斎」としている点は、軒号「自得軒」を名乗った太田道真との同一人物説と矛盾する。(否定論Bー(ア)①

・太田道真の「道真」は道号ではなく法名であり、法名「正等」を名乗った岩付城築城者と同一人物と見なす解釈は矛盾を生じる。(否定論Bー(ア)②

・正等は『詩軸』において「故金吾」とされており、その先途(最後の官職)が衛門府の官途名てあったことがわかる。対して太田道真の先途は「備中守」であり、両者を同一人物とする解釈には矛盾が生じる。(否定論Bー(ア)③

・『自耕斎詩軸并序』に見える正等は、在地性の高い小領主であり、関東各所に所領を保有した太田道真の人物像と一致しない。(否定論Bー(ア)④

否定論Bー(ア)に反論するには、上記の否定論Bー(ア)①~④にも反論をなさねばならないことになる。

・太田氏築城説からの反論と再反論:岩付顕泰の場合

小宮(二〇一二)は、否定論Bー(イ)への反論として、岩付左衛門丞顕泰についても独自の人物比定論を展開した。
その内容は、
・成田顕泰はもともと長尾忠景の三男であったが、太田道真の養子となり、岩付という名字を与えられ、岩付顕泰となった。
・岩付顕泰は後に成田氏に養子入りし成田顕泰となるが、『詩軸』が書かれた明応六年時点では「岩付」を名乗っており、まだ成田氏養子入り前の岩付顕泰であった。
・従って成田氏は岩付城築城とは無関係である。
というものである。

小宮(二〇一二)のこの議論は非常に危ういのである。
小宮氏説を厳しく批判した青木(二〇一五)も、この議論については素通りしている。それは、論理があまりに危うく、学説として扱われていないためではないか。
以下、筆者の見解を述べる。

まず、長尾氏から太田道真の養子となった人物が、その後、更に成田氏に養子入りしてその当主となったとの想定に無理がある。二度の養子入りとの遭遇に、果たして類例はあるのか。しかも、小宮(二〇一二)は「忠景の三男を道真の養子(猶子)にと、請い請われて決まったことと思います」と述べるのみで、長尾忠景の三男顕泰が成田氏養子入り前に太田道真に養子入りしたことを示す根拠は示していない。無理がある上に史料根拠の無い想定なのである。

また成田顕泰は、明応二年(1493年)時点で既に成田氏に養子入りしていた可能性が高い。
黒田基樹氏は、二〇一二年の「総論 戦国期成田氏の系譜と動向」(以下、黒田(二〇一二))において、市村定男氏の研究を参照し、明応二年の成田新左衛門景泰書状(『栃木県史 史料編 中世一』552)に見える「成田新左衛門尉景泰」が、長尾氏から成田氏に養子入りした成田顕泰であった可能性(後に山内上杉顕定の偏諱により景泰から顕泰へと名を変えたと想定
)を指摘する。この指摘が正しければ、『詩軸』が書かれた明応六年の少なくとも四年前には、顕泰(景泰)は既に成田氏に養子入りしていることになる。成田顕泰となる前の岩付顕泰が『自耕斎詩軸并序』を作成したとの小宮氏の仮説は、破綻するのである。

小宮(二〇一二)の岩付顕泰の人物比定論は、説得力のあるものとは言えず、従って現時点において、太田氏築城説は、否定論Bー(イ)へのに対して有効な反論をなしていないことになる。

(3)類型C:当時の政治情勢との不整合

類型の三つ目は、太田氏築城説では、他の史料等から明らかな当時の政治情勢との整合性が図れないとする否定論である。

(ア)は青木(二〇一五)による指摘、(イ)は青木(二〇一五)の議論を踏まえた筆者の指摘、(ウ)(エ)は黒田(一九九四)の議論を踏まえた筆者の指摘である。

(ア)岩付地域の扇谷上杉氏の軍事拠点は、長禄元年以前に掃討されたと考えられる(星智寺に奉納された旧平林寺梵鐘銘より)。太田氏築城説が想定する、長禄元年における太田道真の岩付城は状況的に想定できない。(否定論Cー(ア)

イ)『詩軸』が作成された明応六年の三年前に、扇谷上杉氏方の伊勢宗瑞が岩付攻めを行っている(明応三年の足利政氏書状より)。城主交替の記録がないことから、明応三年時点でも「岩付左衛門丞顕泰」が岩付城主であったと考えるのが自然であり、岩付顕泰は扇谷上杉氏方の太田氏あるいはその味方とは想定しがたい。岩付顕泰が太田氏でないなら、その父正等も太田氏ではなく、岩付城太田氏築城説は瓦解する。(否定論Cー(イ)

(ウ)『詩軸』が作成された明応六年の十三年後の永正七年時点の岩付城主は、渋江氏であったと考えられる(同年の山内上杉憲房書状より)。岩付顕泰が太田氏であったならば、十三年後の岩付城主が渋江氏であったことは説明しがたい。(否定論Cー(ウ)

(エ)永正年間に成田氏が岩付地域の慈恩寺に対して影響力を有していた形跡がある(永正年間の足利政氏書状)。岩付城が太田氏によって築城され、同氏によって継承された城だったと想定する太田氏築城説では、永正年間の成田氏の岩付地域への影響力を説明することは難しい。(否定論Cー(エ)

なお、否定論Cー(ウ)は、岩付城が「成田正等」によって築かれ、その子成田顕泰に継承されたと想定する成田氏築城説にとっても否定材料となり得る。黒田(一九九四)は、成田氏と渋江氏がともに古河公方足利政氏の配下であったことから、岩付城が成田氏から渋江氏に譲渡されたと想定する。ただし、この岩付城譲渡説は、史料的な根拠は示されていない。同時の情勢から想起された一仮説と位置付けらるべき議論と言えよう。

(4)類型D:考古学調査との不整合

最後の類型は、考古学調査との不整合である。

具体的には、この類型に該当するのは、青木(二〇一五)が指摘した、
・岩付城址の発掘調査により同城最古層から出土した土器は、研究者によって「山内上杉氏のかわらけ」と分類されるものであり、扇谷上杉氏方の太田氏が岩付城を築城したと想定する太田氏築城説と整合しない。(否定論D
のみである。

筆者が把握す太田氏築城説に対する否定論は、以上である。以降、これらに反論を試みる。

ここまで、約6350文字
(註記は最後にまとめて行う予定です)


先週から今週にかけて、仕事のイベントが詰まっていましたが、昨日でやっと一段落しました。

随分とご無沙汰ぶりになってしまった朝の駐車場稽古も再開です。

・ナイファンチ立ち
・ナイファンチ立ち 正面突き
・撞木立ち 前蹴り
・四つ足歩き
・パッサイ 3回
・六尺棒 袈裟打ち

今朝は突きが快調・・・かな?
「広背筋で突く」と念じて、脇の下を意識しがちであった私はですが、最近、諸先輩方が言う「背骨を意識して突く」がなんと無く分かってきたような・・・

以前から書いてきた、上下の洗濯絞りローラーが背骨の少し横にあるとイメージすると、突きから力みが消え、速さと手の内トルクだけが残る感じがします。

あくまでも、個人の感想です。
薬事法違反はしていないはず(笑)。

形はパッサイ。
まだ、止まってしまう箇所が2つ。
最初の膝蹴りと、手刀投げをした後の膝蹴りは、考えてやっています。
考えずに動けるようにしなければ。

それにしても思うのは、パッサイには、空手の全てがある!ということ。

ナイファンチの要素あり、クーシャンクーの要素あり、平安(チャンナン)の要素あり。
技法としても、突き、投げ、蹴りがバランスよく入っているだけでなく、それぞれの中でバリエーションも豊富です。

非常に濃厚な形ですね。
それだけに奥が深く、やりがいがありますね。

さて、今朝はこんなところで。


先日のセミナー以来、私個人はプライベートの諸々に忙殺されているのですが、実は、沖縄空手道・無想会には、いま大きな変化が生まれています。

関東と東北の会員が、新たに稽古会を立ち上げたり、ブログ発信を開始したりと、その動きが急速に活発になってきたのです。

(1)
まず11月17日に市川で、11月25日に船橋で、稽古会が企画されています。早くから企画されていた11月17日の稽古会は、参加希望者が多く、賑やかな会になりそうです。

私も、プライベートが落ち着いたら徐々に顔を出したいと思っています。

(2)
東北では、新たに無想会ブロガーが誕生!
ブログタイトルは「北国でひっそりと」。

でも、「北国でひっそりと」始めるのはいいのですが、仲間内くらいでは「ひっそり」ではなく「ジャジャーン!」と宣伝してくれればよいのに!

そして、いつかはブログタイトルも、「北国でジャジャーン!」に改題してほしいものです。

始まって一週間のできたてほやほやブログですが、内容は、非常に惹き付けるものです。無想会の技術に興味のある方はぜひご覧ください。



(3)
そして、これは関東・東北に限らない日本の無想会全体に関わることですが・・・

なんと!

日本各地で活動するメンバーの問合せ先が一覧にまとめられ、公開されました。

「はみ唐」とか「いんちょ」さんとか、怪しいハンドルネームのままの人もいますね。「ライ麦畑でつかまえ太郎」さんとか、もうワケわかりません。でも、本名の方々もいらっしゃいます。

みなさん、無想会の技術を伝えることに真剣です。

興味のある方は、ぜひお近くの「会代表」さんへメールを!


動き始めましたね。