梅一枝
去し骸
蕾あり
生盛老死
春の夢
恵那市 某所にて
観梅も終わり足元に水仙が咲き始めました
もうすぐ桜の季節ですね
東日本大震災 2011年3月11日14時46分頃に発生。
マグニチュード(M)は、1952年のカムチャッカ地震と同じ9.0。これは、日本国内観測史上最大規模、世界でも4番目の規模の地震でした。
死者は12都道県で計1万5900人、行方不明者は6県で計2520人に上る。
令和5年2月1日現在の避難者数
① 全国の避難者数は、約3.1万人
② 全国47都道府県、871の市区町村に点在
東日本大震災 から13年も経っているが、まだこれだけの方達がhinannれているのだ。
話題の多い他国への人道危機義援金の方が目立つので、そちらへ大金をばら撒き、東日本大震災はもう過去の思い出かの様に国は避難者問題を解決しないでいる。
また、子供食堂や貧困1人親世帯や、炊き出しなど、日本国内に食事もままならない悲惨な人達が多く存在するのに、他国の貧民優先にして義援金を送っている。
海外の方達を救うのも大事だが、順番が違うだろう
まずは何よりも一刻も早く自国民を助けることが最重要課題である。
国の海外義援金や軍事費の一部で十分解決できる額だ。
まずは私腹ばかり増やすことが仕事だと思っている政治屋の重鎮達を一掃する所からしか解決方法はないかも知れない
染めと織の万葉慕情97
竹取の翁の衣
1984/03/09 吉田たすく
二年もの間染め織りの歌を読んで来ましたが、染め織り品を使って恋や
愛を詠(うた)っている事がおわかりいただいた事と思います。
今日は自分の着用した衣服をつきつぎに詠って自分の生活レベルをひけらかした歌を取りあげてみましょう。
「竹取の翁(おきな)」という歌です。 平安時代に作られた「竹取物語」のとはちがいますが、平安以前に竹取りといって竹を取り、箕(み)、ざるから、おさなどを作ることを業として、村から村をわたり歩いた職業集団の人であったであろにうといわれています。
昔ありき。 号(な)を竹取の翁といひき、というはじまりで、この翁、春三月岡に登り遠くを望むときに、春の野菜の吸い物を煮ている九人の乙女に会いました。今でいえば春のピクニックでバーベキューをしている九人の女の子といったところです。 百嬌(ひゃっきょう) たぐいなく、花止無し。
愛くるしく、なまめかしさかぎりなく、花の如くうるわしい顔、姿、言葉で言い尽くすことができないといっています。
時に乙女らを呼んで、「ここに来て菜をたくたき火の火をふいてよ」という。「よしよし」といって近づき、乙女らの座にまじわりました。ところがややしばらくして、乙女らは皆共に咲(え) み合っていうには、「たれがこの翁を呼んだの」、と言うのです。
とまどった翁は「思いがけず、たまたま神仙に逢(あ)い、美しい麗人に逢いましたが、なれなれしくしすぎまして、あいすみません。歌をもって罪をつぐないましょう」と歌をよみました。
ばかにされた翁は、自分の若いころにこんなにすばらしい衣服を着て乙女たちにもてた事を歌でしめすのです。 この歌の中にたくさんの染め織り品が詠われているのには驚きます。
大変長い長歌ですので三回にわけて読んでみましょう。
緑子の 若子(わくご) が身には たらちし 母の懐(うだ)かえ 襁 (ひむつき)の 平生(はこ)が身には 木綿肩衣(ゆうかぎぬ 純裏(ひつら)に縫ひ着 頚着(くびつき)の 童児が身には 結類(ゆいはた)の 袖着衣 着しわれを---
みどりごの時分には、母にだかれてかわいがらこうぞ織りの袖無しを
、総裏つきに縫って着せてもらい、髪を頭までたらした年に達すると、返しぼり染め(正倉院に残る染色品と同じ染め方)の袖のついた着物を着ていた私ですよ。
これから青年期の衣服の歌が続きますが来週にまわします。
(新匠工芸会会員、織物作家)
3月10日は東京大空襲の日
アメリカに民間人10万人が無差別殺戮された
日本軍や軍事施設を狙ったのではなく、民間人殺戮で日本の町を焼き尽くす為に、わざわざ日本家屋を徹底的に研究して燃えやすい爆弾を研究開発し出来た焼夷弾で、計画的に東京の都市部に落とした無差別爆撃である。
現代ウクライナでも民間人の所に落とす爆撃は非難されているのに、この惨劇はあまりにも多大な被害を与えた。
爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上。
特に3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。(ウィキペディア参照)
酷すぎる話だ。
敗戦の二年前には日本の占領政策等を連合軍は話し合っていて、日本敗戦は分かっていたのに敢えて行った蛮行であり
更にその後 広島.長崎までも。
これ程大規模な集中殺戮を研究してまで平気で行える人々の国があるという事実。
この事実はこれから生きる人達に必ず伝えていかなければならない。
ある種の人達にとっては、内戦や戦争ほど儲かる商売はない
…………………………
その国はまた数年前から静かに裏から絡んで
今もウクライナで戦争をさせている。
早く平和になりますように
染めと織の万葉慕情96 (2)
桃花そめの浅らの衣
1984/03/02 吉田たすく
毎年の例ですが今年は二十四回目の手織展を大阪の阪急百貨店で、また東京銀座の画廊でも開き、倉吉に帰ってまいりました。いつもの年ならもう春めいて来る頃ですのに今日も雪。表の道にはないけれど、うちの中庭にはまだたんまりと雪の山が残っています。
それでも暦は三月三日の節句になってきます。桃の節句にちなんで桃の歌をひろってみましょう。 (一昨年もこの歌を読みましたが)
桃花褐(つきそめ)の
浅らの衣
幾らかに
思ひて妹(いも)に
逢(あ)はむものかも
桃色に染めた衣のように薄く、浅い気持ちで彼女に逢うでしょうか、 いやいやそんな浅はかな気持ちじゃない、本気で逢うんだ、という歌なのです。
ところで桃花褐と書いて 「ツキゾメ」と読ませていますが、桃色に染めた布です。褐は粗布の事。
桃染は天智紀に「桃染布五十端」、衣服令に「衛土…桃染衫(ころも)」、衛門府式に「衛士、桃染布衫」、左右京式に「凡兵士、以浅桃染為当色」。
霊異記に「紅染裳、今云桃花裳也」とあり、また桃花には都支(つき)と訓があるので桃染は桃花と同じであろう、と岩波の古典文学大系にあります。
桃色に染めた布で、下級兵士の制服であったのでしょう。 今考えて見ますと、なんとやさしい色の服を着ていたものだと思います。この歌は巻十二の中の「物に寄せて思を陳(の)ぶ」の一群の中の一首ですが、この群の中に衣を詠(うた)った歌がたくさんのせられております。 この歌によく似た歌を一首、読んでみましょう。
紅の
薄染衣
浅らかに
相見し人に
恋ふる頃かも
挑染かどうかわかりませんが、紅の薄染といえば紅花染か蘇染(すおうぞめ)かも知れません。
くれないの薄染の衣のように薄く浅く、軽い気持ちで深く心にとめることもなく、気軽く逢っていたあの人。妙に恋しいこのごろです、という歌で、人の心も春近いおもいです。
紅衣が出たところで赤絹の歌を今一首。
赤絹の
純裏 (ひとうら)の衣(きぬ)
長く欲(ほ)り
わが思ふ君が
見えぬ頃かも
赤絹で織った純裏の衣は、一枚の布を折って表裏とした衣服で、裁ち方に特色があり、身頃が表裏ひと続きのため、織る時に普通の衣の二倍の長さに織って作る衣のようです。それで「長い」言葉の序として使われているのです。そのように二人の関係が長く絶えることなくと思っている彼氏がお見えにならないこのろです。 春の心をまつ歌でした。
(新匠工芸会会員、織物作家)
今回は番号が96-2となっていますが、第9回の9が使われていなくて、その代わりこの96が2つになっていて全体が百となるようにしてあります。
…………………………
この記事の書かれたのは丁度40年前の同じ日。
父たすくは「中庭にはまだたんまりと雪の山が残っている」と書いていますが、今年の今日、2024年3月2日は、倉吉の実家にいる弟の公之介が「庭の寒葵に花が葉の陰に隠れるように咲いています」と書いていました。今年は雪はないようです。そして、おそらく40年以上前に父が植えた寒葵の子孫が咲いているのでしょう。中庭の木々やイメージは父がいた頃のまま生きています。
白梅の
香りと花の
雛飾り
弥生三日は 上巳の節句
生花の下に 廉兵衛おっちゃんの素朴な土人形を飾りました。
廉兵衛おっちゃんは、私の母方の大叔父 鳥取県伝統工芸士で郷土玩具作家です。
桃の節句でも、今はまだ梅の季節 白梅を一輪そえてみました
上巳(じょうし、じょうみ)とは五節句の一つで、旧暦3月の最初の巳の日ことです。
上巳の節句は、もともとは女の子のお祭りというより、古く中国でみそぎをして不祥を払い春を寿ぎ、無病息災を願う厄祓い行事だったのにならって、日本でも朝廷・貴族の行事として三月三日に川辺に出て、はらえを行ない、宴を張る(曲水の宴)ならわしがあり、平安時代、「紙」で作った紙雛(人のけがれを移した人形)を川に流す「流し雛」が行われました。これが次第に家に飾る「ひな人形」に代わり、江戸時代(元禄期)に庶民にも広がり祝われるようになったといわれます。
今もこの「流し雛」の風習が鳥取県用瀬町(もちがせちょう)に残っていて桟俵(さんだわら)にのせた内裏様を川に流します。
上巳の節句は、桃の節句とも言いますが、
旧暦の3月3日(今年は4月11日)頃はちょうど桃の花が咲く季節なので、上巳の節句は「桃の節句」とも呼ばれています。
桃の木は、中国では病魔や厄災をよせつけない不老長寿の仙木とされ、節分にも桃の木の弓で鬼を追い払う儀式があったほど。桃はとても縁起のいい植物なのです。
お雛様を飾る時、男雛と女雛 どちらが左側(向かって右)に飾るかで、迷う方も多いと思います。
本来日本では
・向かって右(左側)に男雛、左側に女雛なのです。
平安の昔以前から左が上座であり、天皇の坐す場所でした。
現代では京雛(きょうびな)と呼ばれますが、
・目が細めのおっとりした目鼻立ちで・左側(向かって右)に男雛、右側に女雛が座っています。
【関東雛(かんとうびな)】
・右側(向かって左)に男雛、左側に女雛が座っている
・はっきりめの目鼻立ち
かつて宮廷では左側が位が高いとされたので(左大臣の方が右大臣より位が高いなど)、京雛では「みかど」が左、「お妃さま」が右の座り方になっています。
関東雛は大正天皇が欧米の基準に合わせて「右上位」に立った事から始まり、右上位が浸透したのは、大正時代以降です。
…………………………
雛人形の作者は加藤廉兵衛(かとうれんべえ)(1915-2012)
鳥取県倉吉市の私の実家から15kmほど離れた田んぼに囲まれた小さな農村に、かつて油屋とよばれた長屋門に囲まれた屋敷がありました。
そこは大伯父加藤のおっちゃんの家で、そこに廉兵衛おっちゃんも居んなりました。 僕は小学生3年の頃から、一人で自転車に乗り時々遊びに行っていました。子供用自転車など買う余裕もない家で、乗っていたのは家にあった大人用のガッシリとした自転車です。小学生3年生には15kmって自転車では1時間以上かかる遠いところでしたが、そんなこと思わず行っていました。
こんな田舎の大きな屋敷で大正時代建築のモダンな白亜の洋館も付属していました。なんでこんなど田舎に白亜の洋館があるのだろうと不思議でしたが、モダンだったんでしょうね。
廉兵衛おっちゃんは戦争から帰ってから仕事もせず、戦争の痛手を癒やされていたのでしょう地元の河原の土で独自に土人形ばかり作っていました。
遊びに行くと廉兵衛おっちゃんがいつも奥の部屋の縁側で、土をこねて人形を作っていました。 とても愛くるしい土人形は「廉兵衛でこ」「北条土人形」とよばれていました。 やがて廉兵衛おっちゃん鳥取県無形文化財となっています。
http://www2.e-hokuei.net/youran/html/35-36/index.html
北條土人形
雨の昼時 名古屋近郊
近くに昼食を食べる店がなくて
見つけた昭和っぽい喫茶店
流石名古屋
メニューのトップに
イタリアンスパゲッティ
イタスパがあった
熱したステーキ皿で熱々を食べる名古屋のイタスパ
まだ二十代の頃 会社の昼休憩で本を読みたい時に時々喫茶店で食べた 何十年ぶりかの懐かしさ。
早速注文
でも こういうのって化学調味料バリバリの濁った味のものが多くて後味も嫌なものも多かったな。
ところがどうだ
驚き![]()
これが結構
素直なきれいな味
美味しい。
ケチャップとオニオンを炒め化学調味料等使っていない様な
素直な味
たまごも美味しい
玉子もいいものを使っている
大昔食べたチェーン店や喫茶店のイタスパより随分ときれいな味
これは昭和でもまだ化学調味料をあまり使っていない昭和30年~40年代の味を大切に守ってるのかな。
まるで思い出の味をきれいにしてくれた感じ
寒い雨の日でも
心が清しくなった
ありがとう。
昨日も雨 今朝も雨
二十四節気は一昨日2月19日から「雨水(うすい)」へ入りました。
雨水が雨を呼んだのでしょうか?
二十四節気は、春夏秋冬を6つに分けることで、1年を二十四に等分し、それぞれの季節に相応しい名がつけられています。
そして七十二候とは、さらにその二十四節気の各一気(約15日)を約5日ごとに初候、二候、三候と3等分し、1年を七十二に分けたものをいいます。
この二十四節気七十二候は、絶え間なく変化して行く日本の季節の訪れを一歩先んじて察知することができ、日々の暮らしや農耕作業をすすめるためには今も欠かすことのできない暦です。
一昨日2月19日から二十四節句「雨水」
雨水とは、降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃のこと。山に積もった雪もゆっくりと解け出し、田畑を潤します。昔から、雨水は農耕を始める時期の目安とされてきました。
二十四節気「雨水」の初候は「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」で、毎年2月19日から2月23日頃にあたります。
土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)は冷たい雪が暖かい春の雨に代わり、大地に潤いをあたえる頃。寒さもゆるみ、眠っていた動物も目覚めます。というのですが、
今日は22℃もありました。この気温の高さ何かちょっと変ですね
2月中旬 これからも3月初旬までは雪が降ったり寒い日がありますのに。
実際の雨水は旧暦ですから1ヶ月遅れ。今日2月21日は旧暦でいうと、まだ1月12日です。
旧暦2月21日は新暦では3月28日です。3月28日だと現代はもう気候変動で随分暖かくなっていて桜が満開ですね。
50年前 私の故郷鳥取県倉吉市の桜の名所 打吹(うつぶき)公園の桜祭りで満開は4月15日ごろでした。
昔は新暦と旧暦の差が1か月ほどと言われていましたが、
今は気候変動で何もかもわかりにくくなってしまい頭が混乱しますが、
季節の変化については旧暦と新暦を考慮して体感的には半月ぐらいで覚えておいた方が良いかもしれません。
雨降りは
春の芽吹きの
禊なり
染めと織の万葉慕情96
斑衾(まだらぶすま)
1984/02/17 吉田たすく

衾(ふすま)の歌のつづきです。 (衾は、寝具につかう掛布のこと)。
巻十四には東歌(あづまうた)が集められています。
東歌は関東方面の民謡を集めたもので、農民生活そのままを詠(うた)ったところがおもしろいのです。
東歌の最初にこんなのがありました。
あらたまの
伎倍(きへ)の林に
汝(な)を立て
行きかつましじ
眠(ね)を先立たね
これは遠江(とおとうみ)の国の歌で、遠江の伎倍(注1)という所の林にお前を立たせたまま、置いて行けそうもない。 出かけるまえにまず一緒に寝ようよ、という東歌らしい素朴な歌です。
これにつづいて
伎倍人の
斑(まだらふすま)に
綿さはだ
入りなましもの
妹(いも)が小床に
キべの人の斑染の掛布に綿(当時木綿はありませんでした。 コウゾの繊維などをほぐしてわたにしていました)を入れたように、たっぷりと、はいってくればよかった、あの娘(こ)の床に。
衾ではないですが、 床に入りたいと詠った歌があります。
妹が寝る
床のあたりに
石ぐくる
水にもがもよ
入りて寝まくも
石の間をくぐる水のように、あの娘の寝ている床の間に潜って入って寝たいよ。
村の若者が酒を飲みながらこんな歌を手拍子よろしく歌いさわいだ様子が見えるようです。
さっきの歌のように、コウゾなどの繊維を入れた衾もあったようですが、それは麻で織られた布であった事がよくわかる歌があります。
庭に立つ
麻手小衾
今夜(よい)だに
妻寄こせね
麻手小衾
”庭に立つ”は麻を収穫したあと、庭に立てかけてほすので麻の枕詞(まくらことば)になっています。 麻手は麻織りの小衾の小は愛称でつけられたもので、 この柔らかい掛布さんといったところでしょう。
小衾さん、今夜だけでも妻を寄こしてね。ここのツマは妻が夫のことを言っていると思われます。なぜなら当時の結婚は、男性が女性の宅へ夜ごと通うのが常でしたから。「掛布団さんよあの人よこしてよ布団さんよ」といった歌なのです。
彼を待つ一人寝のわびしい女心を、飾らないでそのまま詠った東歌でした。
衾を麻織りといいましたが、楮(こうぞ)で織った衾もあったようです。 「白」にかかる枕詞に栲衾(たくふすま)というのがあるのがそれです。
栲衾
白山風の
寝なへども
児ろがおそきの
あろこそ良(え)しも
白山風の寒さで眠れないが、あの娘の”おそき"があったので嬉しい。”おそき" とは女性が着る上衣の一種で、オスヒとも言って裁縫を加えない上衣だそうで、貫頭衣のような原始的な衣類でしょう。
又一首、栲衾の歌
栲衾
新羅へいます
君が目を
今日か明日かと
齋(いは)ひて待たむ
ここでも稀は新羅にかかる枕詞です。 新羅へ兵士として出征している君のかえる日を今日か明日かと神にお祈りして待っている歌です。
コウゾや麻の掛布の夜は寒かった事でしょう。
(新匠工芸会会員、織物作家)

…………………………
(注1) 伎倍(きべ)
浜松市浜北区あたりの地名。
この辺には伎倍人という織機や治水などの技能に優れていた渡来人たちが住んでいたので伎倍という名前になったそうです。浜北区内で詠まれた万葉集の歌は四首ありますが、当時、東国と呼ばれていた地域で、四首も詠まれるのは珍しいらしい。伎倍という地名は伎倍小学校などに名前に残っており、この辺は現在は貴布祢(きふね)と呼ばれている