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自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

 出雲は日本歴史の一つの原点であり、今までに5度くらい行っていますが、久しぶりの訪問です。

 私の旅行は特別な理由がないかぎり、寝てしまえばどこも一緒なので、その地方の一番安いビジネスや旅館に素泊まりして料金をうかせて、食事はその地方で最も美味しそうな店を探して行きますが、今回も出雲市駅近のビジネスホテルです。最近のビジネスホテルは機能も充実しているのでいいですね。

 

  さて、今回は出雲の歴史・文化探訪で2泊するので、2回の夕食は、和と洋に分けて行くことにしました。

 

 人は生まれた土地の空気、大地の中で、その文化の中で、その地方の中で生まれた料理を食べて育ちます。

 その地方の自然の中で生まれその地方の文化のもとで作られた料理が何よりも一番美味しい。

そうガストロノミーです。

 出雲産の無農薬野菜、天然物の魚で、和と洋に分けて行くことにして、地元のグルメな方から様々な情報を得て、まず良さそうなレストランへ予約の電話しました。

 

 シェフに「魚介類は地物の天然物だけ、野菜も地物の無農薬有機栽培で」とお願いしましたら、こちらはそういう食材しか使わないと言われ、更に一物全体や身土不二など意気投合。楽しみに伺うことにしました。

 

 そのレストランは出雲市街から車で20分くらい西の海岸。神無月の十一月に全国の神様が出雲にきて上陸されるという「稲佐の浜」の近くにあるオーベルジュ。

 目の前に日の沈む日本海を見ながら出雲の豊かなオーガニック食材を使った贅沢なイタリアンです。

 

 日本海は夕陽が海に沈むので、子供の頃 故郷の鳥取県で、その美しさを独り占めしたいので浮き輪を持って沖に泳いで行き、夕陽を眺めながら浮いていました。

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 予約の電話を入れた時に、ちょうど17時半頃に陽が沈むからその頃いかがでしょうと言われたのでその時間で予約。

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 本来は1Fで食べるのですが、特別に、贅沢な宿泊用の広いロングオープンデッキのある一日一組だけの特別な個室プレジデンシャルアンティークルームへ案内されました。

 

 

 

 

 イギリスの高級アンティーク家具がゆったりと置いてあり、家具も調度品もどれもセンスが良い。

 部屋の中央 海に向かってダイニングテーブル。

 

 

カトラリーもなかなか味のあるアンティーク。

 後で聞きますと、レストラン付きの宿泊施設アルベルゴ(イタリア語)で、この部屋は一泊¥165,000(2名 税込)ということでした。 地方の小さな街なので、値段は抑え気味ですね。

 

  もと皇室関係のところで料理長をされてた方のお店なので、おもてなしも素晴らしいし、食器も素敵、味も美味しい

 

 

生憎の曇り空でしたが、海には沈みゆく夕陽の光の道が現れています

 

さて、

 この夕日を見ながら晩餐の始まりです。

 

 

飲み物はその都度料理に合わせてお願いすることにしました。

 

⚫︎まず最初の一杯は海を見ながら最初の一杯はミモザの甘い口付け

 スペインのスパークリングワイン

オペラ・プリマ・ミモザ・スパークリング ミモザ

  ヨーロッパの春を呼ぶミモザ色をした、太陽を浴びたスペイン産オレンジの濃厚な果実味とワインのブレンドのスパークリング

 

 

⚫︎エビのビスク

 (クリームベースの滑らかで濃厚な味わいのスープ)

 

 

最初の料理 良い味で これからの料理が楽しみ。

 

 テーブルランナーも豪華なエスニック風楽器の刺繍の帯 おばあさまのものだそうです。

 

 

自然 放し飼いの自然飼料の合鴨のサラダ

無農薬の10種類の野菜で作ったソース

 

このソースは旨い!

 

調理前の大きな黒鮑を持ってこられた

地元の海で取れたまだ生きているもの 海藻まで付いていた

これを今から料理すると。

 

⚫︎ミスティファイド・シャルドネ

カリフォルニア ナパバレー

グレープフルーツやライムの香り。樽由来のスモーキーさに丁子や干し草の風味。

 ちょっと甘いが綺麗な酸味でいい味だ 魚介類によく合いそう

 

⚫︎生黒鮑の肝と貝柱

三瓶山の山葵 山葵の花

醤油クリーム

 

 

ウエッジウッドの皿

プリプリの肝が美味い!

独特の苦味も優しく甘味もある

いい肝だ! 旨い!

 

 

⚫︎鮑の肝和え

ワラビがいい演出していてお皿との調和が素晴らしい 美味しい

下に敷いてあるユキノシタも苦すぎずアクもおとなしめで肝ソースによく合う

 

 

⚫︎月日貝のパスタ

これもいい味

プリッとしながら柔らかく生臭みも少なくうまく調理してある

これに合わせてシェリーを出されて優しい甘さと優しい酸味が貝の生臭みを消しながらいい感じに終わる。

 

⚫︎赤ワイン ボルドー のメドック

 PÉDESCLAUX2014シャトー ペデスクロー2014

 フランス ボルドー  メドック  ポイヤック フルボディ

10年もので、透き通るような酸味と引き締まった綺麗なタンニンと厚みのある味わい クラシックな赤ワインの味だね これはおいしい

 

⚫︎ノドグロ 目の前に広がる海岸の浅利 黒鮑 牡蠣 全て地物のアクアパッツァ

これも旨い

それぞれの天然食材が、持てる全てを出してくれた濃厚なソースに絡めて食べる この旨さ。

 

 

⚫︎三瓶山の麓で草を食べて育った牛のシャトーブリアン

タラの芽

三瓶山(さんべさん)は大山隠岐国立公園の一部で、島根県で一番高い山 遥か遠い高校生の時 山岳部で登山をしたが、主峰の男三瓶山 (1126m) 、女三瓶山 (957 m)、子三瓶山 (961 m)、孫三瓶山 (907 m)、太平山 (854 m)、日影山 (718 m) の6つの峰がありこれらを5時間かけて縦走していくのだが、標高は大したことないが、山は釣鐘型で傾斜が強く、途中に水場もないために難易度は低くない。

ここでも美味しい牛が育っているのだ。

 

 さらっとした良い味 牛も個体差があるから他のものはわからないが、この三瓶山牛はシャトーブリアンでもおいしいいほうだね。

 

 

⚫︎デザートワイン

Château Nauton Sauternes2019

シャトー ノートン ソーテルヌ 貴腐ワイン

 

アンズやトロピカルフルーツ、ハチミツの香りと甘さ いい味わい。

少しリッチで濃密なクリーミーな感じ。

 

⚫︎デザート

 

オーナーと様々会話しながら食事は進んで行きました

食後も含めて

 料理の話、家具の話 カトラリーの話 芸術の話、食全般の話と話は進み 

気がついたら23時 17時半にきて5時間半も滞在してしまいましたが、とても楽しい時間でした。

次回 出雲へ行く時はまたお邪魔しようと思います。

 

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Mare Dorato Ristorante Italiano

〒699-0751 島根県出雲市大社町杵築西赤塚1648−2

0853258172

 

http://maredorato.jp

 私の実家で使う器は、ほぼ全て 丹波焼や壺屋、島根県の出西(しゅっさい)窯、湯町窯、など民藝雑器で、私も小さな時から毎日の食事や飲み物はこれら民芸品で育ちました。

 出西窯は子供の頃から使っていましたし、出西窯にも3度以上は訪問していて、手と目に残っています。

 

 出西は、手の温もりのある料理が喜ぶような使い勝手の良い器でした。

 

今回も出雲に行くのだからと寄らせていただきました。

 

 

18年ぶりかの訪問。

飾ってあるものはむかしからの出西ですが、

 

 

 

販売されている器は

 たぶん 私だけがちょっと感じたことかもしれませんが、

販売されている出西は、私の知っている出西とほんの微妙に違うのです。

器の形 釉薬の 色 艶

 

良い言い方で言うと現代風とでもいうか、少し軽い感じ

 

ちゃんとした木のテーブルにも似合いそうだった器が、

イケヤやニトリの軽いテーブルに似合いそうになって

化学調味料を使った料理にも似合いそうな感じ

 

 誰も気が付かないかもしれませんが、

なんかほんの少し、薄っぺらい工業製品に近づいている感じになっている。

 

現代は政治も経済も生活もすべて薄く軽い方向へ動いている。

時代の流れですが、

 民の芸術 民藝も、時代に即して作られ、かわりながら生きていくのが当たり前なのですが、私とは少し離れてしまっている一抹の寂しさ。

でも、良い焼き物なんです。

 

 今回は何も買えないで帰りましたが、次回訪問する時は

またあの「手の温もりのある料理が喜ぶような器」がたくさん並んでいるといいな。

 

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 出西窯

島根県出雲市斐川町出西3368

 

ホームページより

 

 昭和22年、出西窯は5人の若者の真っ直ぐな志から始まりました。
柳宗悦先生をはじめとする民藝運動のメンバーに指導を仰ぎ、日常を彩る、健全で美しい暮らしの器を作り続けています。
 郷土の原料を大切にし、職人の手仕事による実用的な「用の美」が息づく器。
それは日々少しずつ姿を変えながら、現代の暮らしにも静かに寄り添い、毎日を心豊かに過ごせる道具となることを願っています。

 

 出西窯の成り立ち

出西窯は1947年(昭和22年)8月、農村工業の共同体構想を掲げた5人の青年によって創業しました。同年には、陶芸家河井寬次郎を迎え指導を受け、この時に実用陶器を志すことに定まり、窯の名称を地名より「出西窯」と改めました。

山陰地方の民芸運動推進者の吉田璋也の助けなどもあり、
以後、柳宗悦先生、濱田庄司先生、バーナード・リーチ先生ら民藝運動の推進者たちの指導をうけ、実用の陶器作りに邁進してまいりました。
現在も、島根県出雲市斐川町出西の地で、
民藝の志を持ち、野の花のように素朴で、健康な美しい器、くらしの道具として喜んで使っていただけるものを作ろうと祈り願って同人が心を一つにして仕事をしております。

 

登り窯

工房東側に6連房の大きな登り窯があり、現在も年3~4回の窯焚きを行っています。

 

吉田璋也記念館

 吉田璋也先生は鳥取市の耳鼻科の名医でありましたが、創業間もない出西窯の陶器作りを指導し、鳥取たくみ工藝店で取り扱って下さった恩人であり、柳宗悦をはじめ民藝運動の指導者たちと出西窯との出会いを作って下さった偉大な民藝のプロデューサーでありました。

 この吉田璋也の鳥取民藝美術館だった建物2棟を譲り受け、昭和55年(1980)に出西窯に移築して、吉田璋也記念館および研修館と名付け、出西窯陶器の見本や参考品を収蔵しています。

 

桜が満開の頃だと思い久しぶりに明治村へ。

 約100万㎡の敷地(東京ドーム約21個分!)に明治時代の蒸気機関車やボンネットバスも動いていて、明治時代の建物が70近くあり一日中楽しめます。

 今回も10時から16時までゆっくり見ていたら、30%程は見残してしまいました。

 

 

帝国ホテル

 

 

 帝国ホテルや様々な明治時代の建物を見ながら桜を愛でて、

 

途中甘いものが欲しくなり、休憩して、浅草の神谷バーの電気ブランの30度とオールドの40度を飲みましたが、やはりオールドの方がうまいです。

 (デンキブラン 電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと"電気○○○"などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。

さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。

それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです。

デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。)

 昔、東武鉄道の両毛号で佐野や足利などのアパレル縫製工場や私のショップへ年に数回行っていましたが、帰りに浅草で時々神谷バーに寄って飲んでいた懐かしい酒です。

 


 明治村はフォトスポットも多く、明治時代の格好やその他コスプレをした人も多くきています。

 さっき たくましい男性コスプレイヤーが女装して食事していましたが、よく見たら女性のようでした。

そして、なぜか、ここにくると超厚化粧の女性がコスプレに見えてきます。

 アルコール濃度の高い電気ブランで酔った為ではありません😅

 

昔より規則が厳しくなったのでしょうが、奇抜なコスプレイヤーはいなくなりましたね。ちょっと残念。

父が1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日 2年間に渡って新聞に連載していた万葉集の染織のお話を2年に渡って読み進んでまいりましたが、いよいよ最終回となりました。
  40年後の同じ日父の思いをどうぞお楽しみください。

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染めと織の万葉慕情100
  かにかくに人はゆうとも
   1984/03/30 吉田たすく



 万葉の染織の歌をこの欄に紹介しはじめましたのが、一昨年三月五日でしたので、まる二年と少し、
今回で百回目になり、一応このあたりで「切」にしようと思います。

 万葉集の中から今まで沢山の歌を読みましたが、この三倍以上もの染織の歌があります。 それらの歌はまたの機会に読ませていただきましょう。

 さて、今までの染織の歌をふりかえってみますと、ほとんどの歌が恋歌でありました。染、織の材料、作業、道具、衣服で恋心を陰にひめて詠(うた)っているのでした。
 材料の歌では麻の歌が沢山ありました。麻の歌を一首。

 庭に立つ
  麻手刈り干し
    ぬのさらす
   東女を
    忘れたまふな

 麻を刈って干し糸に作り機で布に織って水に瀑(さら)す、あづま女をわすれないでね。麻の材料から布を仕上げるまでの作業全体を詠っています。染の歌もありました。

 月草に
  衣は摺(す)らむ
    朝露に
   濡れての後は
    うつろひぬとも

 つゆ草で染めよう。 朝露でにじんでしまっても。 あすの朝は別れてしまっても今夜一夜でもあなたに染まりたい。

 紅染の歌

 紅の
  薄染の衣
    浅らかに
   相見し人に
    恋ふるころかも

 織の歌にこんなのもありました。

 君がため
  手力つかれ
    織りたる衣ぞ 
   春さらば
    いかなる色に
     摺(す)りてばよけむ

 又一首。

 麻衣
  見ればなつかし
    紀の国の
   妹背(いもせ)の山に
    麻蒔(ま) く我(わぎも)

 袖の別れの歌もありました。

 妹が袖
  別れし日より
     白たへの
   衣も片敷き
    恋ひつつぞ寝(ぬ)る

 紐の歌はずいぶんたくさんありました。あんなに詠われた紐は平安時代の歌にはプツリとなくなるのでした。

 高麗(こま)錦
  紐解きかわし
    天人の
   妻どふよひぞ
    我も偲(しの)ばむ

 又一首。

 人妻に
  言ふは誰(た)がこと
    さ衣の
   この紐解けと
    言ふは誰がこと

 雨も降り
  夜も更けにけり
    今更に
   君いなめやも
    紐解きまけな

 裳(も、スカート)の歌には美しい歌がありました。

 さ丹(に)塗りの 大橋の上 紅の 赤裳(も)裾(すそ)引き 山藍もち摺れる衣着て・・・

 染織品は当時の人達にとって想いをつづる品々であったのでしょう。
 染織作家の私にとって万葉集は古代染織と私の染織を取りつなぐうるわしい歌でありました。

 かにかくに
  人は言ふとも
    織り継がむ
   我が機物の
    白き麻衣

 なんとかかんとか人は言うけれど「たすく」は織りをつづけていきます。私の機で。私なりの想いを込めて。

 長い間読んでくださいましてありがとうございました。

(資料は主に岩波の古典文学全集を参考にさせてもらいました)

        (おわり)

 (新匠工芸会会員、織物作家)




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 (注)
さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て……
  
 元歌
 (「さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ  橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく」 作者 高橋虫麻呂 9巻1742 より

  丹塗りの大きな橋の上を、紅(くれない)染めの赤い裳の 裾を引いて山藍を摺り染めにした衣を着て ひとり渡って行く娘は、夫があるのだろうか、それとも独りで寝ているのだろうか訊いてみたい、彼女にしたいけれど、どこに住んでいるかわからない)

どの謳も恋心に結びつく歌ばかり、男女の仲は永遠ですね。

二年間に渡って父が書いてきたものを読み解いてまいりましたが、長い間お相手いただきありがとうございました。

 『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって山陰一の新聞に連載したものです。
 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきました。
 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「food  風土」の中の、テーマ『染と織の万葉慕情』にまとめていますので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。
 https://ameblo.jp/foo-do/theme-10117071584.html

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 吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。
風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。
東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。
代表的作品は倉吉博物館に展示されているタペストリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士
 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。
吉田たすくの代表作品や詳細は下記ウイキペディアへどうぞ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

 癌にかかって東京で入院していたときは、いつも元気になって倉吉に帰って機織りをすると言い続けていましたが昭和62年(1987年)7月3日 65歳で逝去致しました。しかし、今も次の世で夫婦二人で仲良く楽しそうに機を織っていることでしょう。

コロナ禍で遅れていた33回忌を今年四月に倉吉市の菩提寺で行う予定です。なんとか100話完結できましたから父も喜んでくれると思います。
  本当に長い間ありがとうございました。

 赤き花
  白き花とも
   青空に映え



春なれど

  寒さ戻りて

    遅れ花

 

 

 中々花の便りが来ませんね

今回はいつもよりおとなしく活けてみました

 

生花 2024/03/28

 金釘の木

 フリージア

 デンファレ

 タマシダ

 

 

 月と梅

  グラスのルージュは

       アールデコ

 

 

 

染めと織の万葉慕情99

 竹取の翁の衣(三)

 

 

   1984/03/23 吉田たすく

 竹取の翁(おきな)の衣の歌の続きです。ベストドレッサーのハンサムであった翁の青年時代の歌がまだ詠(うた)われていきます。

 屋(いへ)に經(ふ)る 稲置丁女(いなきをみな)が 妻問ふと われに遺(おこ)せし をちかたの 二綾下沓(ふたあやしたくつ) 飛ぶ鳥の 飛鳥壮士(あすかをとこ)が 長雨禁(ながめい) み 縫ひし黒沓(くろくつ) さしはきて 庭にたたずめ まかりな立ちと さふる少女が ほの聞きて われに遺せし 水源(みはなだ)の 絹の帯を 引帯なす 韓帯(からおび)に取らし 海神(わたつみ)の 殿の蓋(いらか)に 飛び翔(かける (す)がるの如き 腰細に 取り飾らひ………

 家内に生活している稲置女が、求婚のために、私のところへよこしてくれた遠い国からの舶来品の二色の糸で織った綾織の靴下をはいて。 飛鳥(あすか)の男の靴職人が、長雨や天気に気をくばって靴に黒漆をぬって、縫いあげた黒沓(今ではエナメルぬりのピカピカ靴の事です。)をさしはいて、庭に出てたたずんでいると。 乙女があらわれたと思ったら、「お帰り、そんな所に立ってないで」と、母にじゃまされてしまった。その声を乙女がほのかに耳にして、そそくさと持って来た物を置いて行った。水縹、みはな色、うす水色の絹の帯であった。その帯を服の上に外国風に結びたらし、海神の御殿の屋根に飛びまわるジガバチのように、腰細によそおい飾り・・・。

 ここに当時の男性のファッションが見られます。

「ハチの腰のように細腰」とあるように、今の女性がウエストをしめてヒップを強調しているのと同じファッションがあった事はおもしろいですね。

歌はまだ続きます。

 そうして澄んだ鏡を並べかけて(今の三面鏡のようです)自分の顔を度々映して見ながら、春になって、野原を行きめぐると私を面白く思ってか、

野の鳥も来て鳴いて飛びまわり、秋になって山辺を歩けば、なつかしく私を思うからか、空の雲も行きたなびいて流れて行きます。

 野山から帰って都大路に足を進めば、宮仕えの美女達や舎人(とねり) の男達も私をひそかにかえりみて「あの貴人はどこの人だろう」などとうわさされた私だったんですよ。

 昔はこのように幸せだったこの私なのに、今日はあなたたち九人の美女にばかにされてなさけない。

 だけれど、そんなにばかにするもんじゃないんだよ。といって、竹取の鈴の歌は終わるのです。

 この歌の中に染織品に関係した言葉が二十三個も詠われているのには驚きです。

   (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 

窓の外
 梅去りゆきて
   春の雪

雪が降っている
  春なのに雪
 今日は2024年3月23日

こんな時期初めてだ
  とても大きな
   牡丹雪

今は二十四節気 春分の

七十二候
雀始巣(すずめはじめてすくう)

 春なのに

 季節外れ ほんの少しでも自然をきれいに戻そうと雪を降らせているのか

染めと織の万葉慕情98

  竹取の翁の衣(二)

   1984/03/16 吉田たすく

 

 

 竹取翁の衣の歌の続きです。 先週は九人の乙女にばかにされた竹取の翁(おきな)が、私のおさない頃にはこんなにすばらしい着物を着ていたんだよと、自慢していたところでした。

 今日は青年の頃のかっこよさを詠(うた)います。 美しく寄り集まっているあなたたちと同じ年頃には、真黒な髪を美しい櫛(くし)で、この辺までかきたらし、それをつかれてみたり解き放してみたりしながら髪形を考え

 さ丹(に)つかふ 色懐かしき紫の 大綾(あや)の衣 住吉の 遠里小野の ま榛(は)もち にほしし衣に 高麗錫(こまにしき) 紐に縫ひ着け 指(さ)さふ重なふ 並み重ね着 打麻(うつそ)やし 麻績(うみ)の児(こ)ら あり衣の 宝の子らが 打栲(うちたへ)は 経て織る布 日曝(ひざらし)の 麻紵(あさてづくり)を 信巾裳(ひれも)なす 愛 (は)しきに取りしき・・・・・・

 さ丹つかう、絽(ろ) とか紗(しゃ)とか、それよりも高級な羅織(らおり(注))の薄絹を紅色に染めた美しい着物や、なつかしい紫色染めの糸を綾織にした大きな紋様の衣や、また大阪と堺の間の遠里小野の本場の榛の木をせんじて染めた衣、これに大陸渡来の高麗錦の紐を縫いつけたり、いろいろにはおったり重ね着にして、なおその上に麻績、麻をうむことを職とする人や、高級織物を専門に織る職人たちが打ってつや出しをしたコウゾの繊維をわくにとり、整経台にかけてたて糸をととのえ、織機にかけて織りあげた布や、水にさらし日で曝した手織の麻の布を、信巾裳礼服の上に着る裳のように可愛らしく着こなして・・・・・・

 竹取の翁がハンサムな青年だったとき、当時としては最高級品の衣服を着て舶来品まで身につけていたベストドレッサーであった事がわかりま

す。

 ここで私が気のついた事なのですが、 自分の生活レベルをいいふらすのに、衣服をこんなにくわしく説明しているのにもかかわらず、 ぜいたく

食事をしたとか、こんなに立派な家に住んでいたという事はひとこともない事なのです。 竹取にかぎらず万葉歌全体を見てもそうなのです。

 奈良時代の人達の生活は衣食住の中で食や住はまだ原始生活につながる生活をしながら、衣服は大陸文化の伝来によって大変な発展を見た時期でありましたから。 まず身を飾る衣服から文化が発達して来たものと考えられるのです。文化の「文」はあやと読んで織物のもんようの意味なのです。

 歌はなおつづきます。このように着飾った自分がどんなに乙女たちにもてもてであったかを詠っていくのです。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

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 (注)

 消えてしまった幻の織物 羅織(らおり)と倭文織(しずおり・しおり)

 

羅織は日本に4世紀前半頃に渡来した布で、糸がとても透き通る様に細く織り方も複雑繊細なのにまるで天女の羽衣のように軽い超高級絹織物です。奈良・平安時代に高級貴族の方向け等に盛んに織られるようになりました。

 これに対して日本には日本発祥の「倭文織(しずおり)がありました。「倭」を冠する様に、羅織よりも古く、一番古くから織られていた布です。

 平安時代に羅織は盛んに織られるようになり、倭文織は羅織の台頭で織られなくなりました。

 羅織は3本以上の経糸を網のように絡ませ織っていきなりますが、経糸2本を絡み合わせる斬新な織り方の紗や絽が出現すると、羅織もその複雑な織り方故に新しく生まれた紗や絽に押されて消えて行きました。

 国の織物を司る部署を倭文部(しとりべ)といい、元々は倭文織を司っていましたが、平安時代は羅織や絽(ろ) とか紗(しゃ)その他織物全てを司っていました。

 日本の各国に神社は沢山あり、日本中の織物の産地に倭文神社は点在しています。

日本各地の国の一番重要な筆頭の神社は一宮ですが、各国の中で唯一、伯耆国(鳥取県)の一宮は倭文神社です。伯耆国は織物が最重要なものだったと思われます。

 伯耆国一宮 倭文神社は、私の故郷、鳥取県中部の倉吉市のすぐ横にあり、特にこの辺りが織物の重要な産地であり、出雲族系の織物氏が大勢住み、布を織り出来上がった織物は、平安時代は入江であり、現代は湖になっている東郷池から出雲に向けて船で運んでいたであろうと思われます。

 幻の織物 羅織は昭和になってようやく日本各地で数名の研究者が復元を試みていて随分と解明されつつありますし、中国でも細々と残っていた羅織も解明されつつありますが、日本で生まれた「倭文織」は平安時代の記述が最後に、現物も資料も何も残されていませんでした。

 1996年2月、下池山古墳(天理市)から大型内行花文鏡が発見され、この鏡の周囲に付着していた縞模様に染められた織物が、わが国特有の織物であり、実在の資料がなかった「倭文織」と思われるという大発見?がありましたが、まだ決定打はありません。いずれどこかで新しい発見があると思いますが、歴史は古くそして新しい発見により進歩する素晴らしい世界ですね。

 今まで時々(注)として文末に書いてきましたものは、私(周之介)の浅知恵でその都度思いついて書き足してきたものですが、父たすくが生きていればこれらについて様々聞き、その内容も深いものだったと思います。