染めと織の万葉慕情98   竹取の翁の衣(二) | foo-d 風土

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染めと織の万葉慕情98

  竹取の翁の衣(二)

   1984/03/16 吉田たすく

 

 

 竹取翁の衣の歌の続きです。 先週は九人の乙女にばかにされた竹取の翁(おきな)が、私のおさない頃にはこんなにすばらしい着物を着ていたんだよと、自慢していたところでした。

 今日は青年の頃のかっこよさを詠(うた)います。 美しく寄り集まっているあなたたちと同じ年頃には、真黒な髪を美しい櫛(くし)で、この辺までかきたらし、それをつかれてみたり解き放してみたりしながら髪形を考え

 さ丹(に)つかふ 色懐かしき紫の 大綾(あや)の衣 住吉の 遠里小野の ま榛(は)もち にほしし衣に 高麗錫(こまにしき) 紐に縫ひ着け 指(さ)さふ重なふ 並み重ね着 打麻(うつそ)やし 麻績(うみ)の児(こ)ら あり衣の 宝の子らが 打栲(うちたへ)は 経て織る布 日曝(ひざらし)の 麻紵(あさてづくり)を 信巾裳(ひれも)なす 愛 (は)しきに取りしき・・・・・・

 さ丹つかう、絽(ろ) とか紗(しゃ)とか、それよりも高級な羅織(らおり(注))の薄絹を紅色に染めた美しい着物や、なつかしい紫色染めの糸を綾織にした大きな紋様の衣や、また大阪と堺の間の遠里小野の本場の榛の木をせんじて染めた衣、これに大陸渡来の高麗錦の紐を縫いつけたり、いろいろにはおったり重ね着にして、なおその上に麻績、麻をうむことを職とする人や、高級織物を専門に織る職人たちが打ってつや出しをしたコウゾの繊維をわくにとり、整経台にかけてたて糸をととのえ、織機にかけて織りあげた布や、水にさらし日で曝した手織の麻の布を、信巾裳礼服の上に着る裳のように可愛らしく着こなして・・・・・・

 竹取の翁がハンサムな青年だったとき、当時としては最高級品の衣服を着て舶来品まで身につけていたベストドレッサーであった事がわかりま

す。

 ここで私が気のついた事なのですが、 自分の生活レベルをいいふらすのに、衣服をこんなにくわしく説明しているのにもかかわらず、 ぜいたく

食事をしたとか、こんなに立派な家に住んでいたという事はひとこともない事なのです。 竹取にかぎらず万葉歌全体を見てもそうなのです。

 奈良時代の人達の生活は衣食住の中で食や住はまだ原始生活につながる生活をしながら、衣服は大陸文化の伝来によって大変な発展を見た時期でありましたから。 まず身を飾る衣服から文化が発達して来たものと考えられるのです。文化の「文」はあやと読んで織物のもんようの意味なのです。

 歌はなおつづきます。このように着飾った自分がどんなに乙女たちにもてもてであったかを詠っていくのです。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

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 (注)

 消えてしまった幻の織物 羅織(らおり)と倭文織(しずおり・しおり)

 

羅織は日本に4世紀前半頃に渡来した布で、糸がとても透き通る様に細く織り方も複雑繊細なのにまるで天女の羽衣のように軽い超高級絹織物です。奈良・平安時代に高級貴族の方向け等に盛んに織られるようになりました。

 これに対して日本には日本発祥の「倭文織(しずおり)がありました。「倭」を冠する様に、羅織よりも古く、一番古くから織られていた布です。

 平安時代に羅織は盛んに織られるようになり、倭文織は羅織の台頭で織られなくなりました。

 羅織は3本以上の経糸を網のように絡ませ織っていきなりますが、経糸2本を絡み合わせる斬新な織り方の紗や絽が出現すると、羅織もその複雑な織り方故に新しく生まれた紗や絽に押されて消えて行きました。

 国の織物を司る部署を倭文部(しとりべ)といい、元々は倭文織を司っていましたが、平安時代は羅織や絽(ろ) とか紗(しゃ)その他織物全てを司っていました。

 日本の各国に神社は沢山あり、日本中の織物の産地に倭文神社は点在しています。

日本各地の国の一番重要な筆頭の神社は一宮ですが、各国の中で唯一、伯耆国(鳥取県)の一宮は倭文神社です。伯耆国は織物が最重要なものだったと思われます。

 伯耆国一宮 倭文神社は、私の故郷、鳥取県中部の倉吉市のすぐ横にあり、特にこの辺りが織物の重要な産地であり、出雲族系の織物氏が大勢住み、布を織り出来上がった織物は、平安時代は入江であり、現代は湖になっている東郷池から出雲に向けて船で運んでいたであろうと思われます。

 幻の織物 羅織は昭和になってようやく日本各地で数名の研究者が復元を試みていて随分と解明されつつありますし、中国でも細々と残っていた羅織も解明されつつありますが、日本で生まれた「倭文織」は平安時代の記述が最後に、現物も資料も何も残されていませんでした。

 1996年2月、下池山古墳(天理市)から大型内行花文鏡が発見され、この鏡の周囲に付着していた縞模様に染められた織物が、わが国特有の織物であり、実在の資料がなかった「倭文織」と思われるという大発見?がありましたが、まだ決定打はありません。いずれどこかで新しい発見があると思いますが、歴史は古くそして新しい発見により進歩する素晴らしい世界ですね。

 今まで時々(注)として文末に書いてきましたものは、私(周之介)の浅知恵でその都度思いついて書き足してきたものですが、父たすくが生きていればこれらについて様々聞き、その内容も深いものだったと思います。