foo-d 風土

foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

 アーツ・アンド・クラフツ運動も民藝運動も共に「手仕事の価値と暮らしの中の美」を追求した運動でしたが、アーツ・アンド・クラフツ運動は消えていき 民藝運動は現在も生活文化として継続して生きていますが、なぜこの様に大きく分かれたのでしょうでしょう。  
柳宗悦とウィリアム・モリスの違いも含めて考察したいと思います。


 写真は共に19世紀作
ウイリアムモリス作 壁紙「いちご泥棒」と、鳥取県牛ノ戸焼の「かきつばた徳利」を一緒に陳列しました


  アーツ・アンド・クラフツ運動と民藝運動
 19世紀後半から20世紀初頭にかけて生まれたイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動と、日本の民藝運動は、ともに「手仕事の価値」と「暮らしの中の美」を大切にした運動でした。しかし、その後の歩みは大きく異なります。

 アーツ・アンド・クラフツ運動は、ジョン・ラスキンが思想的基盤を築き、その理念を受け継いだウィリアム・モリスが工房経営、デザイン、出版などを通して総合的に実践しました。思想・制作・経営・普及のすべてを担った人物はモリスのほかになく、この運動は彼の存在に大きく支えられていました。
 そのため、1896年のモリスの死後は運動としての求心力を失い、やがて終息します。しかし、その理念そのものが消えたわけではなく、アール・ヌーヴォーやアール・デコ、モダンデザインや工芸教育、さらにはバウハウスへと受け継がれ、近代デザインの発展に大きな影響を与えました。
 一方、日本のルネッサンスとも言われる民藝運動は、柳宗悦が理念を示すだけでなく、自ら全国を巡って民衆の工芸を調査・収集し、出版や展覧会、日本民藝館の設立を通して運動を組織しました。さらに、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、吉田璋也をはじめ、多くの実践者がそれぞれ陶芸、染織、木工、地域振興、教育など多様な分野で活動を展開し、日本各地に窯場や工房、民藝館などの拠点が築かれていきました。こうして民藝運動は特定の個人に依存することなく全国へ広がっていきます。戦後には「民藝ブーム」と呼ばれるほど多くの人々の支持を集めました。
 しかし、この民藝ブームは単なる流行ではありませんでした。
 各地の民窯や手仕事が見直され、民藝館や民藝店が全国に広がる中で、人々は器や家具、染織品を選ぶ際に「用の美」という価値観を自然に受け入れるようになりました。民藝は美術館で鑑賞する芸術ではなく、毎日の暮らしの中で実際に使う「生活の美」として根づき、その精神は今日まで受け継がれています。
 これに対して、アーツ・アンド・クラフツ運動も建築や家具、壁紙、書籍デザインなど幅広い分野に大きな影響を与え、多くの支持者を生みました。しかし、その影響の中心は芸術家や建築家、デザイナー、中産階級以上の愛好家であり、日本の民藝運動のように一般家庭の日常生活や器選びの価値観そのものを広く変える社会現象には至りませんでした。モリスの工房で制作された作品は、「すべての人のための美」という理想を掲げながらも、高度な職人技によって制作されたため高価で、多くの庶民が日常的に手にすることは難しかったのです。
この違いを端的に表すならば、アーツ・アンド・クラフツ運動は「デザイン文化を変えた運動」であり、民藝運動は「生活文化を変えた運動」であったと言えるでしょう。モリスの思想は優れたデザインとして後世へ受け継がれ、柳宗悦の思想は日々の暮らしの価値観として受け継がれました。
つまり、アーツ・アンド・クラフツ運動はデザインの歴史を変え、民藝運動は暮らしの文化を育てたのであります。

 
柳宗悦とウィリアム・モリスの違い
ウィリアム・モリスと柳宗悦は、ともに機械化が進む時代に手仕事の価値を訴え、「暮らしの中の美」を大切にした思想家でした。しかし、美に対する視点には本質的な違いがあります。
モリスは、産業革命によって失われた手仕事の美を取り戻すため、自ら家具や壁紙、織物、書籍などをデザインし、「理想の美しい生活」を創造しようとしました。美は人間が目指し、創り出すべきものであるという姿勢が、彼の活動の根底にありました。
これに対して柳宗悦は、新しい美を創造することよりも、無名の職人が日々の暮らしのために作り続けてきた器や布、家具などの中に、すでに存在している美を見いだそうとしました。そして、その価値を社会に伝え、人々の暮らしの中に取り戻そうとしたのです。
言い換えれば、モリスは「理想の美を創造した人」であり、柳宗悦は「生活の中に宿る美を発見した人」だったと言えるでしょう。
この違いは、両者の運動がたどった道にも表れています。モリスの思想は優れたデザイン思想として近代デザインへ拡散していきアーツ・アンド・クラフツ運動も消えていきました。
 一方、柳宗悦の思想は、人々が毎日使う器や家具を選ぶ基準となり、「用の美」という価値観として生活文化の中に根づきました。

両者はともに手仕事の尊さを訴えましたが、モリスは「美しいものを創ること」によって社会を変えようとし、柳宗悦は「すでに暮らしの中にある美を見いだし育てること」によって社会を変えようとしました。

 両者は同じ「手仕事の価値」を見つめながらも、この視点の違いこそが、アーツ・アンド・クラフツ運動と民藝運動の歩みの違いを生み、今日に至るまでの継承のあり方を大きく分けた要因だったと思います。

 

豊田市民芸館 2026/7/12

 「アーツ・アンド・クラフツとデザイン -そして民藝」展いってきました。

 第一展示室でモリスのテキスタイルや壁紙、第二で食器や工芸品家具その他の陳列で、遠景以外は撮影不可でした。(モリスの作品は様々な所で見れますから撮影可で良いと思うのですがね)

 

 

今回は展示内容とは違うお話です。

「アーツ・アンド・クラフツとは何か」と問われたら、あなたは何を思い浮かべますか?

 花や草をモチーフにしたモリスの壁紙やテキスタイルを思い浮かべる方が多いでしょう。

本来はイギリスからヨーロッパ・アメリカへ広まったルネッサンスにも匹敵する19世紀の大きな文化運動なのに なぜ?

18世紀後半、イギリスで始まった産業革命により機械による大量生産が進みました。しかしその一方で手作り製品の芸術性や職人の技術が失われていきました。

 こうした状況から、19世紀後半にジョン・ラスキン(1819–1900)が、もう一度手仕事の美しさ、職人の手仕事による上質なものづくりを見直そうと生活と芸術の一体化を目指しアーツ・アンド・クラフツ運動を提唱し、このラスキンの思想を受け継ぎ中心となり活動したのがウィリアム・モリス(1834–1896)です。

 この運動は、芸術を美術館だけのものではなく、住宅や日用品など生活全体に取り入れようとする生活と芸術を結びつける芸術・工芸運動で、建築から始まり、家具・ステンドグラス・陶芸・金工・テキスタイル・壁紙・本の装丁・印刷など、生活空間のあらゆる分野に広がりました。

その理念は、その後の大きなデザイン運動に多大な影響を与えていきます。

・アール・ヌーヴォー

ミュシャやクリムトの絵画や エミール・ガレ、ルネ・ラリック等のガラス細工、アントニオ・ガウディ等 (ジャポネスクの影響も含めて)自然の植物や曲線を生かした装飾様式。

モリスの自然観や工芸重視の考えを受け継ぎました。

・アール・デコ 直線や幾何学模様を特徴とするデザイン。

機械生産を取り入れながらも、「生活を美しくする」という思想を継承しました。

・バウハウス

1919年にドイツで設立され、芸術と工業・建築を統合し「機能的で合理的なデザイン」を追求した造形思想・様式

・モダンデザイン

20世紀初頭に始まり、機能性と合理性を追求した“装飾性を排除した”デザインスタイル

コルビジェやフランク・ロイド・ライト

「使いやすく、美しいものをつくる」という考え方は、現在の建築や家具、プロダクトデザインへと受け継がれ、そして現代にも多大な影響を与えています。

 …………………………

このようにイギリスからヨーロッパ・アメリカへ広がった、ルネサンスにも匹敵する19世紀の大きな文化運動であるにもかかわらず、なぜ「アーツ・アンド・クラフツ=モリスの壁紙」というイメージが定着し、運動全体を覆い隠すほどになってしまったのでしょうか。

その理由の一つは、モリスが思想家である以上に優れたデザイナーであり、多くの作品を残したことにあります。家具・壁紙・テキスタイル・ステンドグラス・書籍デザインなど幅広い分野で活躍し、イギリスの伝統にジャポネスク(19世紀後半にヨーロッパで流行した日本趣味)やアフリカンアートの影響も取り入れながら、花や草、鳥をモチーフにした緻密で美しいデザインを数多く生み出しました。

こうした壁紙やテキスタイルは、建築や家具に比べて紙や布が主体のため扱いやすく、モリス商会(Morris & Co.)を通じて広く販売されました。さらに、美術館や展覧会、教科書などでも紹介しやすく、繰り返し取り上げられてきたことから、「アーツ・アンド・クラフツ=モリスの壁紙」という印象が強く定着したのでしょう。

 ウィリアム・モリスの作品は、19世紀イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を代表する 「手仕事の美しさ」と自然モチーフを重視した高級工芸デザインとして、美術史・デザイン史において高く評価されています。

 モリスは富裕層の高級品ではなく、「一般の人やすべての人のための美しい生活」を理想に掲げましたが、手仕事と天然素材へのこだわりから作品は高価となり、実際には富裕層に限られるという矛盾を抱えていました。それでも本物の織物や熟練職人によるハンドプリントは、現在でも美術品・高級インテリアとして高い価値を保っています。

 私は子どもの頃から何度もウィリアム・モリスの作品を目にしてきましたが、どれほど見ても不思議と心を惹かれることはなく、多少「美しい」ものもありますが、特に何も感じないし、それほど高級感も持ちませんでした。

 その理由を考えると、モリスのデザインは、緻密に構成された植物文様は調和が取れていて完成度は高いものの、その均整の取れた反復性ゆえに、私にはモザイクタイルのように整然として実用的でありながら、どこか平均的で印象に残りにくく感じられます。

ミュシャやLEONARD(レオナール)のような華やかな装飾性とも、自然な草花でもなく、手織物の暖かさとも違い、プリミティブアートに見られる素朴な手描きの温かみとも異なる、和の模様もとりいれたものもあるが表現がなんか中途半端でどちらでもない安全な表現だからではないかと思いました。

振り返れば、この「きれいだけれど心に響かない」モヤモヤ感覚こそが、子どもの頃から抱いていた漠然とした違和感の正体だったのかもしれません。

次回はアーツ・アンド・クラフツ運動と民藝運動について書きたいと思います。

アーツ・アンド・クラフツ運動も民藝運動も共に「手仕事の価値と暮らしの中の美」を追求した運動でしたが、

 アーツ・アンド・クラフツ運動は消えていき

 民藝運動は今も生きている。

なぜでしょう。

柳宗悦とウィリアム・モリスの違いも含めて。

豊田市民芸館展覧会

 「アーツ・アンド・クラフツとデザイン |そして民藝」

2026年06月20日(土)〜2026年08月30日(日)

岐阜県現代陶芸美術館

 展覧会「吉田璋也のデザイン 新作民藝運動がめざした未来」

  2026年7月11日(土)~9月27日(日)

 民藝運動は私の父、伯父も共感し、戦後すぐには父も一時民藝店を開き、更に父の織物を吉田璋也さんのたくみ工芸店で販売するなど、璋也さんとは多くの交友がありました。私はこの民藝真っ只中で幼少の頃から育ち、今もとても影響を受け続けているので、とても期待していきました。

月刊民藝の創刊号の巻頭に「民藝の木」があり、民藝の中心となる図

「日本民藝館」「日本民藝協会」「たくみ工芸店」それぞれが「美の標準の展示」「コトの普及」「モノの普及」を担う民藝運動の体制を示す三位一体の図ですが、吉田璋也が始めた「たくみ工芸店」がその重責の一角を担っています。

 だが、この偉大な功績の持ち主が世間ではあまり知られていないので、なんとかまとめようと思いつつ、未だ行えていない中で、このように大きく取り上げた展覧会が開かれたことは、感謝と共にとても嬉しく思います。

 

 展覧会は初日の7月11日に行きましたが、私の実家で使っていた茶碗や食器類、似たような家具や布たち、懐かしい作品なども並んでいて温かい気持ちになりながら拝見。

 今回特に良かったのは、民藝の細かな歴史、影響した文化、関係者同士の繋がりなど、吉田の新作民藝運動の思想と実践の軌跡を、吉田の蒐集品、吉田が手掛けた新作民藝の数々、そして関連資料がとてもわかりやすく分類されていること。

 この展覧会を見れば民芸運動というものがどうして運動と呼ばれるようになったかがよくわかると思います。

7月11日には鳥取民藝美術館館長 木谷清人氏の記念講演会 「民藝をデザインする一吉田璋也の実験民藝学一」という公演もあり、さまざま思い出しながら拝聴しました。

翌日は豊田市民芸館の「アーツ・アンド・クラフツとデザイン そして民藝」展で木谷清人氏の記念講演会「吉田璋也の新作民藝運動とウィリアム・モリス」

があり、こちらも拝聴しましたが、両館での公演とも時代考証から幅広く話されていて、とても素晴らしかったです。

どうぞ皆様 民藝の考え方から、最初期から現代への動きまで理解できる展示会ですから、ぜひご覧ください。

 

以下の写真は吉田璋也がプロデュースした数々の一部です。

 …………………………

 民芸運動草創期からの主要メンバーは、柳宗悦・富本憲吉・バーナード リーチ・河井寛次郎・濱田庄司・芹沢銈介・式場隆三郎・吉田璋也の8名ですが、鳥取県出身の医師である吉田璋也(1898-1972)は、柳宗悦が提唱した民藝の思想に深く共鳴し、自身を「民藝のプロデューサー」と称し、陶芸、木工、染織、金工など多岐にわたる分野で地域の職人らと向き合いながら現代の生活にふさわしい日用品を自ら考案し、デザイン・素材開発などを職人に指導し、時代と共に生きる新作民芸品となる道をひらきます。

 さらに、職人の作ったこの新作民芸品を流通、販売、普及する場として、民芸店の元祖となる「たくみ工芸店」を鳥取と東京西銀座に開き、民芸品と食の融合を図った「たくみ割烹店」を作りますが、これらは日本中に広まった民芸店、民藝割烹の原点となっっています。日本の民芸館として3番目に「鳥取民芸美術館」もひらいて、トータルで民藝を楽しむ場所づくりも行い全国に民藝を広めました。

このように、吉田璋也は、柳たちの作った「民藝」を未来へと続く運動 民芸運動とした人物です。もしも吉田翔也がいなければ民藝は過去の一時代を風靡した社会現象で終わり、現代まで多くの国民の身近に存在し続けることはなかったことでしょう。

農地化される寸前の鳥取砂丘を守り、国立公園化など、地元の自然や文化財保護活動に取り組むなど、広い視野と実験精神のもとに実践された吉田の活動は、民藝を通じた社会のデザインでもありました。

 

 

 

 

 

 

 

民藝

展覧会「吉田璋也のデザイン 新作民藝運動がめざした未来」は各地での巡回展です。

2026.7.11~9.27 岐阜県現代陶芸美術館

2026.10.15~12.20 パナソニック汐留美術館

2027.4.27~6.27 山口県立萩美術館・浦上記念館

2027.9月中旬~10月下旬 鳥取県立美術館

終了 2026.3.14~6.21 茨城県陶芸美術館

 アキアカネ

  群れ飛ぶ空に

    芽生えしは

 

   爽やかな風

    澄みわたる秋

 

 

陽炎も消えそうな酷暑ですね。

里に降りてきたアキアカネは野を飛びまわり秋の種を蒔いてくれている様です。

 

 

生花 2026/07/23

 

 〈花材〉

  ニューサイラン

  クルクマ

  スプレーギク

  玉羊歯

 

 

 

 〈花器〉

手捻り鎬(しのぎ)花器

(2023年恵那市文化祭入選作品)

 

 

スクっと天に伸び

 少しでも涼しさを

表示を縮小

7月12日は「裸の大将」山下清の命日でした。

 今も天空の鉄道線路を裸で歩きながら絵を描いていることでしょう。

 

 

 

山下清(1922年3月10日ー1971年7月12日)

 生きていれば103歳でした。

 私の子供の頃、実家の玄関の正面に、子供が作ったような、でも、大人が作ったような、でもすっごく細かく丁寧に作った不思議な花火の貼り絵が掛けてありました。

 それは「日本のゴッホ」とも言われた山下清の花火の絵です。

 玄関正面で毎日見える 何故ここに飾られていたのかわからなかったのですが、山下清をとても身近に感じました。

我が家に山下清の絵があるのも、民芸運動草創期のメンバーであった吉田翔也さんの影の力でした。

 民芸運動草創期からの主要メンバーは、柳宗悦・富本憲吉・バーナード リーチ・河井寛次郎・濱田庄司・芹沢銈介・式場隆三郎・吉田璋也の8名ですが、

 吉田璋也は、柳たちの作った「民藝」を未来へと続く運動 民芸運動とした人物です。吉田璋也がいなければ民藝は過去の一時代を風靡した社会現象で終わり、現代まで多くの国民の身近に存在し続けることはなかったことでしょう。

 多くの工人が、民が用いる道具として連綿と続く歴史の中で作ってきた陶器や織物・家具などを、日本初のプロデューサとなり、今に生きるデザインや素材開発などを自ら考案し職人に指導して時代と共に生きる新作民芸品となる道をひらいた吉田璋也は、河井寛次郎から「民芸の母」とも呼ばれています。

 また職人の作った新作民芸品を販売する場として、民芸店の元祖となる「たくみ工芸店」を鳥取と東京西銀座に開き、民芸品と食の融合を図った「たくみ割烹店」を作りますが、これらは日本中に広まった民芸店、民藝割烹の原点となっっています。日本の民芸館として3番目に「鳥取民芸美術館」もひらいて、トータルで民藝を楽しむ場所づくりも行い全国に民藝を広めました。

 吉田璋也の医学校時代からの親友、式場隆三郎は、民芸の機関誌編集や数多くの文筆・出版を行います。精神科医として多くの患者を診る中で、山下清の才能を発見し、指導して育てます。

 式場隆三郎と吉田璋也は新潟医専(今の新潟大学医学部)の同級生であり、その頃から二人とも早くから雑誌「ホトトギス」などを愛読し、文芸の世界に憧れ「白樺派」の作家たちや柳宗悦、バーナード・リーチと知り合い民芸運動を共にした推進者でした。

 「裸の大将」「日本のゴッホ」と言われ、時の人となった山下清は、清の才能を見出し指導し育てた式場隆三郎に連れられ 34歳の昭和31年(1956年)8月21日に、吉田璋也の招きで鳥取へきて、鳥取大丸で山下清作品展を開きますが、その後で牛ノ戸焼を訪問します。

吉田璋也は新民藝運動の最初の記念碑的作品の牛ノ戸焼も式場隆三郎に見せたかったのでしょう。

 そのあと、昭和31年8月22日鳥取県倉吉市にある皆成学園(かいせいがくえん・知的障害児施設)への訪問を依頼され快諾し、 児童の作品展の見学をしますが、この訪問は大勢の人たちや生徒に大歓迎されたそうです。

 皆成学園は児童教育の一環で陶芸に力を入れていて、一度におよそ700もの作品を焼くことのできる大きな登り窯を作りますが、これを皆成学園の教員とともに、陶芸指導などを手助けしたのが、中学の美術教諭をしていた染織家の吉田たすく(私の父)や、たすくの親友で、倉吉の隣町出身の河井寛次郎の弟子の陶芸家 生田和孝です。また、皆成学園の学校医は民芸運動推進者であり吉田璋也と懇意であった彫刻家の伊藤宝城(本名伊藤博 吉田たすくの兄で私の伯父)でした。

吉田璋也は、皆成学園の子の焼く陶器作品の 一心焼に障がいのある子どもたちが生み出す自然な美しさを見いだし、作品の普及や頒布を支援しました

 『民芸・医者・皆成学院』

この繋がりで考えると山下清の皆成学園行きの提案を吉田璋也にしたのは、伊藤宝城であり、そして兄の伊藤宝城へこの相談を一緒にしたのは弟の吉田たすくではなかったかと思われます。倉吉の版画家で民藝運動家の長谷川富三郎先生(後に日本版画院名誉会員)も参加されてていたことでしょう。

 皆成学園を訪問した後、山下清は倉吉で芸術家のサロンのようになっていた伊藤宝城宅を訪問しますが、そこで作品を作っている写真があります。この写真の場所が、伊藤病院の外科入院患者の付き添いの方が泊まる部屋でした。

(山下清と一緒に写っているのが伊藤宝城です。)

 この部屋は広い庭に面して広縁がある3部屋続きの明るい部屋で、私が子供の頃、誰もいない日の雨の日に時々遊んだ部屋でもあります。

私の実家の玄関に花火が飾られたのはその頃ですね。

奇しくも山下清の命日にからんで、

岐阜県現代陶芸美術館で

 吉田璋也のデザイン 新作民藝運動がめざした未来

2026年7月11日(土)~9月27日(日)

始まりました。

これは民藝が民芸運動としてどの様に広がっていったかを知ることのできる素晴らしい展覧会です。

 展覧会には、吉田璋也と式場隆三郎と山下清が鳥取砂丘や牛ノ戸焼へ行ったという写真や作品がありますが、その翌日の行動がここで私の書いた部分となります。 また、一心焼は多くが散逸していて、残されていた3点が会場に陳列されています。私も一心焼の皿を一枚持っていますが、なかなか味のある良い作品です。

 これらも頭の片隅にもって「吉田璋也のデザイン 新作民藝運動がめざした未来」展もご覧いただけたら幸いです。

…………………………………………

⚫︎式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう1898年7月2日 - 1965年11月21日)は新潟県出身の精神科医。

新潟医専(今の新潟大学医学部)で鳥取県吉田璋也と同級生であり、二人とも早くから雑誌「ホトトギス」などを愛読し、文芸の世界に憧れ「白樺派」の作家たちや柳宗悦、民藝運動にかかわる人たち、バーナード・リーチなどと親交を持った民芸運動推進者です。精神科医としてはゴッホに関心を寄せその方面での著作も多く、山下清の才能に注目し、その生活、活動を物心両面から支え、彼を世間に広く紹介したことは障害児教育に多大な影響を及ぼしました。

「日本のゴッホ」とも言われた山下清は、式場隆三郎のおかげだと思われます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/式場隆三郎

⚫︎吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 1972年9月13日)は、民藝運動家。医師。鳥取県鳥取市出身。

柳宗悦の民藝運動に共感して活動。柳宗悦の見出した民藝の美を、実生活の中に取り入れる新たな民藝品を生み出す「新作民藝運動」をはじめます。民藝の美を現代の日常の衣食住の生活に取り入れるためのデザインや企画提案を生産者におこない、「民藝のプロデューサー」を自認し、それを売る場として「たくみ工芸店」(鳥取・東京)を開き、その作品を生かした料理店(たくみ割烹店)までつくり、民藝の普及に大きな業績を残しました。

河井寛次郎に民藝を育て生んでいく「民藝の母」と呼ばれました。

 医師、デザイナー、教育者、著述家、プロモーターなどいくつもの顔を持ち、陶芸、木工、染織、和紙など幅広いジャンルの職人を指導することで、新作民芸運動を展開。日本初のインダストリアルデザイナーと言える方です。

http://shoyayoshida.jp/history/

⚫︎伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日- 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。二科会展やその他で受賞する傍、1951年には沖縄戦跡公園のひめゆりの塔の彫刻を寄贈しています。

伊藤家は地方の文化人の集まるサロンの様になっており、地元はもとより日本各地から有名芸術家多く訪れていました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤宝城

⚫︎吉田たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は染織家・絣紬研究家。

廃れていた「組織織」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

⚫︎山下 清(やました きよし、1922年(大正11年)3月10日 - 1971年(昭和46年)7月12日)は、日本の画家。代表作に、「花火」、「桜島」、「東海道五十三次」など「日本のゴッホ」とも言われますが、彼を指導した式場隆三郎がゴッホの研究者であり、このおかげだと思われます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/山下清

鳥取県立皆成学園は、児童福祉法に基づく福祉型障害児入所施設です。住所 〒682-0854 鳥取県倉吉市みどり町3564-1

 登窯のある周辺の山は実家の吉田家が、皆成学園に寄付したもので、

「一心焼」は終戦直後、倉吉市皆成学園(知的障害児施設)で始まった焼き物で、一度におよそ700もの作品を焼くことのできる大きな登り窯で作られてきた。入所する児童・生徒たちが地元で取れた土をこねて、思い思いに作陶し、その一方で地元住民たちが窯に使う大量の薪を提供してくれたり、窯の火入れや火力の管理などの重労働を手伝うようになって、共に焼き物も作り、交流が生まれました。

 豆腐が持てる最高の味を引き出した

 これほどの豆腐はない

   そう思わせる至福の豆腐です。

 

第35回「美食の会」 7月18日お昼。

  すばらしい豆腐料理の了息庵への参加者募集中です。

 日時も迫ってきましたので、再送します。

 あと残席2名です。

 「了息庵」は、岐阜県恵那市街から山道を車で30分、携帯も繋がらない山奥、落差10mの滝と谷川のそばに隠れたようにひっそりとある豆腐懐石の銘店。

 こだわりの豆腐による素晴らしくおいしい豆腐料理と、さりげなさの中に良い器を使われています。行く度に変化していく器も楽しいお店。

 毎年即予約の埋まり、今年も年内全て予約でいっぱいで来年3月以降しか行けませんが、私の枠がとってあります。

 メニューは、3時間かけていただく豆腐懐石のみで、1日1組5名迄で、お昼だけ営業されています。

 今まで豆腐料理は京都、東京、その他日本各地で食べていますが、これほどのものはありませんでした。とても肌理が細かく濃厚な味わいで、どこよりも群を抜いて美味しくて何度もお邪魔しています。

 京都などで10000円以上明日るであろうおいしい豆腐づくし懐石 全10品が5500円で出されます。

 落差10mの寿老の滝を眺めながら美味しい豆腐料理をいただきましょう。

了息庵

 岐阜県恵那市山岡町下手向

  字野田883−205

  山奥で携帯も電話も通じません

 

スケジュール

 開催日 2026年7月18日(土)12時~15:30

集合場所

 電車の方はJR恵那駅11時30分集合(名古屋駅から1時間ほど)

   恵那駅から送迎いたします。

 車の方は拙宅へ11時30分集合(恵那ICより3分 駐車場8台)

 了息庵までの公共交通機関は無く、自家用車2台で乗り合わせていきます。

 了息庵までの所要時間30分

食事 12時~15:30

帰り

恵那駅 16時頃予定

参加費 了息庵料金5500円

  6名貸切で、

現在 4名決定していて

あと2名参加者募集中です。

東京や遠方の方も日帰りできる時間帯です。

 参加は美食の会メンバーとその紹介、FBの友達、カテキンコミュニティの方でお願いいたしています。

 申し込みは私のFB、メッセンジャー等メールにてお願いします。

…………………………………………

 (「美食の会」は、岐阜県 東美濃地方の美味しい料理、美味しいお店にこだわり、ただ食べるだけでなく、お店と共にこの地方の食文化向上も含めて食を楽む会で8年前に創設し、年に数回開催しています。

 

いにしへに

  織りてし服(はた)を

    この夕(ゆうべ)

   衣に縫いて

    君待つ我を

      万葉集 巻十 「七夕」「織女(たなばた)」=同意語

(以前あなたのために織っておいた織物を、今夜は衣に縫い上げ あなたが来られるのを私は待っています)

万葉集は奈良時代に4500首編纂されたもので、七夕の歌は132首収めてありました。

 七夕の歌ですから、そのほとんどは、男女の恋の物語をイメージして詠まれています。百人一首でも100首のうち43首は恋の歌ですから、遥か昔から恋愛は、常にひとの心を熱く燃え上がらせるものですね。

スタンダールの恋愛論の結晶作用のように、恋人のことを思えば思うほど想いは募っていき、シェークスピア、近松の曽根崎心中などのように、恋愛は障壁が大きければ大きいほど更に激しく燃え上がっていくものです。

今日は七夕

 七夕は年に一度、七月七日の夜だけしか逢うことの許されない究極の遠距離恋愛。

その想いは深く重く、逢瀬が燃え上がることでしょう。

 そして今日は曇り空 誰にも見られずただ二人で逢える素晴らしい日ですね。

 我々は雲の彼方のこの二人を静かに思ってあげましょう。

七夕の

 蛍が乱舞

   する頃に

 

  機織り人は

   天に昇りて逝く

 

 

 蛍が大好きで 月見草を愛し

夕暮れに小鴨川の土手に一緒に行き、月見草は咲く瞬間にポンっと音がするよと教えてくれた父は、

大好きな蛍や月見草の咲く頃に合わせて逝った

 

 7月3日は父の命日

あれから39年

 

 なでしこの

     花咲く頃に

   思い出す

  機織り人の

    父の顔

 

 

 銀河の彼方 父の元へ逝った母と一緒に仲睦まじく染め織りを行っていることでしょう

あちらでは今頃どんな作品を織っているのでしょう。

母はいつもの様にネクタイやテーブルセンターを織り、父は新しい絹染めの着物を織っているでしょうか

いつか私もその作品を見るのが楽しみです。

 

吉田たすく

 絵羽着物 「なでしこ」 昭和60年(1985年) 新匠工芸会作品

 

 

両親は亡くなるまで本当に仲良く恋愛状態の様な夫婦でした。

この着物は美しかった母に誰よりもよく似合うと思いますが、おそらく愛する母を想いながら織り上げたのだと思います。

 

 風そよぐ

  花と想えし

   君の影

 

  染め織りたるは

    撫子の花

       周之介

 

 

吉田 たすく 大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)

鳥取県倉吉市

日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」の研究・試織を繰り返し、復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

しとしとと

  降る音ききつ

    花いける

 

  晴れ野を想う

   雨の日の午後

 

 

 

〈花材〉

 菖蒲

 グラジオラス

 リアトリス

 ガーベラ

 玉羊歯

 

 

 

〈花器〉

 拙作 手捻り花器

藁灰釉 白萩釉刷毛目

 

雨に濡れ

  山の緑も

   輝きて

  美しき山

   花咲く野山

 

 …………………………

 

 お抹茶の二色蕎麦

美味しい新茶が出回る時期になりました

野山には真っ白なひなぎくの花が咲いています

この恵那の情景を想い

拙作の器で蕎麦をお出ししました。

野山にある木の葉は表と裏で緑の濃さが違いますね、それと同じようにお抹茶で、表裏色の違う蕎麦を打ちます。

 

 

お抹茶のお蕎麦

お抹茶も当然 無農薬有機栽培です。

 表裏 色の違う蕎麦を昼夜そばと言いますが、お抹茶で作るのはおそらく日本で唯一此処だけでしょう。

お抹茶の芳しさ、甘さ。

そば粉はそばの実の中心にある真っ白で一番高価な御膳粉(更科粉・一番粉)だけを使います。

更科蕎麦の繊細な滑らかさ、おいしさを兼ね備えた蕎麦です。

 

 

蕎麦つゆはこの新緑の蕎麦の為だけに作った鰹節や醤油など使わない特別な蕎麦つゆですが、じっくりと熟成して更に美味しくなりました。

 つゆのやさしい味が新緑の蕎麦に絡んで美味しさ倍増です。

器はこの蕎麦を載せるために自作したもので、

薄雲に陽光が反射して煌き 黄金のような情景を表現しようと造った刷毛目 金彩まな板皿「煌雲(きらくも)」です。

三つ巴型 貫入小鉢、刀削り竹箸の二点も料理もすべて亭主の不調法な手作りでございます。

 蒸し暑いこの頃ですが、   爽やかな味わいを感じていただけましたでしょうか。

「物語のある料理

 『野の花料理・恵那の野山の 蕎麦懐石』」