本記事は、2016年10月に投稿した記事の補訂版です

 

藤原伊周は道隆の嫡男で隆家の兄。道長にとっては甥にして最大(唯一?)のライバルというべき存在でした。正暦2年(991年)に参議に任ぜられて公卿に列せられると、以後父道隆の強引な引き立てにより権中納言、権大納言を経て正暦5年(994年)には道長ら3人を超越して早くも内大臣に昇ります。しかし、この強引な人事は他の公卿たちの反感を買ったばかりか、時の一条天皇の生母藤原詮子(道隆の妹・道長の姉)の不興も買うこととなりました。

 

長徳元年(995年)道隆が病に倒れると、伊周は内覧に任ぜられ関白職を代行します。しかし、この措置は道隆の病の間に限定されていたため、伊周はこれに不満であり、そこで伊周の母方の叔父高階信順が内覧宣旨の文言を変えさせようとしますが、却って一条天皇の不興を買う結果となります。また、伊周が定めた倹約令が細かな点まで規制しようとするものであったことも公卿らの批判と伊周の資質に対する疑念を生じさせることとなりました。

 

道隆が薨去すると彼の次弟道兼が後任の関白に就任しますが、在任わずか12日で世を去り、その後任を巡り伊周と道長の間で争いとなります。一条天皇は、寵愛する中宮藤原定子の兄である伊周と生母詮子が推す道長のどちらを後任とするか決めかねていたところ、詮子の泣き落としによる説得に負けて道長を内覧に任じたという『大鏡』のエピソードは良く知られているところです(詮子は道長を可愛がっていたのに対し、伊周のことは嫌っていたようである)。もっとも、前記のとおり、伊周は公卿層から浮いた存在となっていたことに加え、公卿層には世代交代を阻止するというコンセンサスが形成されており、詮子の意向はそうした「政治情勢」に合致するものであったため、一条としても尊重せざるを得なかったというのが実情のようです。

 

こうして道長がひとまず政権の座に就いたものの、その基盤は未だ盤石とはいえず、両者の対立は深まる一方でした。そうした中で、長徳2年(996年)、伊周と隆家が花山法皇と「闘乱」となった際に花山に矢が射かけられたこと、詮子を呪詛したこと等を理由として伊周は大宰権帥に貶せられて現地に配流となり政界から失脚します(長徳の変)。それでも、翌年には詮子の病を理由に赦免されて帰京し、寛弘2年(1005年)には席次を大臣の下、大納言の上と定められて廟堂に復帰すると、寛弘5年(1008年)には准大臣の宣旨を蒙る(儀同三司)など、復権に向けて着々と歩を進めているかに見えました。しかし、同年道長の娘彰子が一条天皇の子敦成親王(後の後一条天皇)を産むと、翌年伊周の母方の近親者(高階一族)による道長・彰子・敦成に対する呪詛事件が起き、これに連座して朝参を停止されてしまいます。この処分はまもなく解けたのですが、こうしたことに気落ちしたのか、翌寛弘7年(1010年)失意のうちに世を去りました。

 

伊周の嫡男道雅は従三位に叙せられ公卿に昇りましたが、道雅の二人の男子はいずれも仏門に入り、伊周の男系子孫は断絶しました。しかし、伊周の長女は道長の次男頼宗の正室に迎えられ、頼宗との間に儲けた俊家の子孫は松木家、持明院家等に分かれて現在まで続いています。