本記事は、2016年10月に投稿した記事の補訂版です。

 

花山天皇(諱師貞)は冷泉天皇の第一皇子で母は藤原伊尹の娘(道長の従姉)懐子。永観2年(984年)に即位すると、叔父・藤原義懐(権中納言)と乳兄弟・藤原惟成(権左中弁)の補佐を受けて意欲的に政治に取り組みましたが、寵愛する女御・藤原忯子(斉信の妹)を亡くしたことで悲嘆のあまり(藤原兼家の策謀により)在位わずか2年で皇位を捨てて出家したというのが通説です。

 

ところが、倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(角川ソフィア文庫)によると、忯子の死(985年)と花山の出家(986年)の間には1年の開きがあり、さらに忯子の死の半年後に為平親王の王女婉子女王が女御として入内している(しかも彼女は花山寵愛の妃となったとのこと。ちなみに、彼女は花山の出家後に藤原実資と再婚)ことから、かの有名なエピソードはあくまでも「お話」であって史実とは考えにくいということです。実際には、花山の推進した政治は革新的にすぎたばかりか、それを担ったのが義懐と惟成というあまり地位が高くない者であったことから、他の公卿層の支持を得られず、孤立した結果退位に追い込まれたようです。なお、花山天皇にはその「狂気」を伝える様々なエピソードがあるのですが、倉本・前掲書によると、それらはいずれも、本来であれば皇統の嫡流であった花山が排除されたことを正当化するために創作された疑いが濃厚だということです。

 

花山天皇は和歌、絵画、工芸、服飾、建築、造園等多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、「風流者」と称されたそうですが、その一方で女性関係は無軌道で、中でも、愛人(伊尹の娘で花山の叔母)の乳母子である中務という女性とその娘平平子(たいらのへいし)を立て続けに身籠らせて子を儲けるという常軌を逸した行状はよく知られています。道長とは良好な関係にあったようで、和歌の贈答をしたり、同車して花見に出かけたり、道長邸に行幸して競馬の観覧や歌合せを行ったりしています。また、道長が娘彰子(上東門院)の入内の際に、有力公卿らから募った和歌を書いた屏風を調度品としたときには花山も和歌を贈っています(ちなみに、それらの和歌は藤原公任が選び、藤原行成が書写したという豪華なものだが、残念ながら現存しない)。

 

花山天皇の子女はいずれも出家後に生まれています。そのため、四人の皇子のうち二人(昭登親王と清仁親王)が花山の父冷泉天皇の皇子として親王宣下を受け、他の二人は仏門に入りました。清仁の子孫は代々神祇伯を世襲して白川伯王家と称され(家格は半家)、明治になって王号を返上し、子爵に叙爵されています(しかし戦後断絶した)。また、花山は中務(前出)との間に女子を儲けたのですが、この女子を兵部という女官に与えて自分の子として育てるよう命じました(「これはおのれが子にせよ。我は知らず」と述べたとのこと)。父花山から「認知」を拒否されたこの女性は皇族として扱われず、女官として上東門院彰子に仕えていたのですが、夜間盗賊に殺害されて遺体を路上に放置されたばかりか、その遺体は野犬に食い散らされるというショッキングな最期を遂げています。