藤原実資は斉敏の子で、道長の再従兄です。祖父実頼(斉敏の父)の養子となり、小野宮流の嫡流としてその膨大な家領と故実の記録を受け継ぎました。有職故実に精通し、また高い識見を有していたことから「賢人右府」と称され、道長も一目置く存在でした。筋を通す性格で、その日記『小右記』で道長の専横ぶりを厳しく批判していますが、他方で道長の能力自体は評価しており、決定的な対立は回避して一定の距離を保ちながらあくまで公正な態度で接していました(道長の「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は実資が『小右記』に書き留めたことで現在まで伝わっている)。

 

治安元年(1021年)、左大臣藤原顕光の死去に伴う人事異動により実資は右大臣に昇進します(「賢人右府」の称号はこれに由来する)。当初、道長の構想は、右大臣藤原公季と内大臣藤原頼通をそれぞれ左大臣と右大臣に昇格させ、藤原教通を内大臣とするというものでしたが、教通の進言(おそらくは頼通と相談した上で)により、太政大臣公季、左大臣頼通、右大臣実資、内大臣教通という体制となったようです。この人事はうるさ型の実資を道長陣営に取り込むことを目論んだものであることはいうまでもありませんが、頼通は政界の長老である実資を敬いかつ頼りにしたため、実資も頼通に対しては好意を抱いていたようで(『小右記』には頼通に対する批判は殆ど見られないとのこと)、頼通による政権運営に協力することとなります。もっとも頼通も、実資に政治の主導権を握られることを警戒し、関白と左大臣を兼任して一上の地位を手放さず、長元2年(1029年)に藤原公季の死により太政大臣が空席となった後も左大臣の地位に留まり続け、これを実資に譲ることはありませんでした。

 

実資は25年間の長きに渡り右大臣を務め、永承元年(1046年)、当時としては異例の90歳という長寿を全うしましたが、男子がなく(唯一の男子は母の身分が低かったためか早くに仏門に入った)、兄懐平の子資平を養子としました。ところが、50歳を過ぎてから授かった娘千古(かぐや姫とも呼ばれた)を溺愛し、財産の殆どを彼女に相続させたため、小野宮家は経済的基盤が弱体化し、衰退の途を辿ることとなります。それでも、資平は大納言となり、その曽孫資信(中納言)までは代々公卿に昇り有職故実の家として朝廷に仕えましたが、その後は公卿を輩出することはなく小野宮家は消滅しました。なお、実資は、千古を道長の子長家に嫁がせようとし、道長はこれを了承したようなのですが、長家が拒否したため頓挫。代わりに千古は長家の兄頼宗の子兼頼(権中納言)と結婚しました(兼頼は実資の婿としてその邸宅である小野宮第に迎えられ「小野宮中納言」と称された)が、娘を一人産んだ後まもなく早逝し、その財産はその娘が相続しました。また、兼頼の後妻の子宗実の家系も一人の公卿も出さないまま消滅しています。