藤原公季は藤原師輔の12男で母は醍醐天皇の皇女康子内親王。藤原道長の父兼家の異母弟で道長の叔父に当たります。生後まもなく母を亡くし、村上天皇(母康子の弟)の中宮で異母姉である安子に引き取られて宮中で育てられました。そのためか、おっとりとした落ち着いた性格であった(もっとも、幼少時には皇子の如く振る舞って円融天皇を始め周囲の顰蹙を買ったとか)ようですが、政治的には無能で、却ってそうした点を買われたのか、道長政権下で長徳2年(996年)に内大臣となると、長和6年(1017年)には右大臣、次いで治安元年(1021年)には太政大臣に昇格し、長元2年(1029年)に亡くなるまで33年間もの長きに渡り大臣の地位にありました。

 

公季は藤原冬嗣の邸宅であった閑院殿を伝領したことから閑院大臣と呼ばれ、その家系は閑院流と称されます。閑院流は公季の孫公成が白河天皇の外祖父、公成の子実季が鳥羽天皇の外祖父、実季の子公実が崇徳・後白河両天皇の外祖父となったことから摂関家に次ぐ家(公実は、鳥羽天皇が即位した際、天皇の外舅であることを理由として摂政の地位を望んだものの果たせなかった)として繁栄し、三条(嫡流)・西園寺・徳大寺・今出川(菊亭ともいう)の4家が清華家、正親町三条・三条西の2家が大臣家となったほか、羽林家となった家は23家(藤原南家の名跡を継いだ藪家とその分家2家を含む)に昇ります。

 

明治になって爵位制度が設けられると、三条家は実美の功により1階級上の公爵、他の清華家3家は侯爵、大臣家2家及び羽林家のうち正親町・滋野井・姉小路・清水谷・四辻・橋本の6家が伯爵、その余の羽林家17家は子爵に叙爵されました。その後、西園寺家は公望の功、徳大寺家は実則(公望の兄)の功によりそれぞれ公爵に陞爵し、正親町三条改め嵯峨家は実愛の功により侯爵に陞爵しています。

 

西園寺公望が内閣総理大臣の印綬を帯びたことは申すまでもありませんが、三条実美も2カ月間ではありますが首相を務めています。明治22年(1889年)10月25日黒田清隆内閣は全閣僚の辞表を提出したのですが、明治天皇は黒田首相の辞表のみを受理し、当時内大臣の職にあった実美に首相を兼任させたのです(他の閣僚はそのまま職に留まった)。これを三条暫定内閣といい、同年12月24日に第一次山県有朋内閣が発足するまで存続しました。実美は首相の「臨時代理」を務めたのではなく「兼任」したので、法律上は正式な首相なのですが、あくまで明治憲法施行前の例外的なケースとして歴代首相には入れられておりません。