藤原師輔について書いておきます。

 

師輔は藤原忠平の次男で、天暦元年(947年)彼にとっての極官となった右大臣に昇ります。このときの太政大臣は忠平、左大臣は実頼(師輔の兄)であったので、親子・兄弟で大臣を独占したわけです(これと並ぶのは康平4年(1061年)12月から翌年9月の太政大臣藤原頼通、左大臣同教通(頼通の弟)、右大臣同頼宗(頼通の弟)、内大臣同師実(頼通の子)という兄弟・親子による大臣独占)。

 

その2年後忠平が亡くなると、実頼・師輔兄弟は左右大臣として村上天皇のいわゆる天暦の治を支えたのですが、『栄花物語』が師輔を「一くるしき二の人」(「一」は左大臣実頼、「二」は右大臣師輔)と評していることから、実権は師輔にあったというのが一般的な理解でしょう。しかしながら、周知のとおり『栄花物語』は藤原道長アゲの書ですから、道長の祖父である師輔も実際以上に持ち上げられていることは想像に難くなく、そのため実頼がdisられたのではないかとの疑念を禁じ得ないところです(実際、村上朝において発給された太政官符・宣旨は実頼を上卿とするものの方が多いとのこと-もっとも、あくまで一上(いちのかみ)は左大臣である実頼なのでそれは当然と見ることもできるのであるが)。さらに、本来藤原北家の嫡流は実頼の小野宮系であったのに、師輔の子孫である九条系がこれにとって代わったので、それを正当化しようという狙いもあったのかもしれません(なお、実頼・師輔は共に有職故実に通じ、その流派の名称をそれぞれ「小野宮流」、「九条流」という)。また、もし師輔が冷泉天皇即位時に存命であれば、冷泉の外祖父である彼が当然摂関の地位に就いていたはずなので、その無念に対する鎮魂の意味もあったのかもしれない、というのは深読みにすぎるかな?

 

では、本題に入ります。

 

師輔は16歳で従五位下に叙爵し、その頃最初の妻藤原盛子と結婚したものと考えられます。盛子の父経邦(藤原南家)は最終官途が従五位上武蔵守という受領層にすぎず、藤原北家の当主忠平の御曹司である師輔とは釣り合いが取れないように思われるのですが、出羽守や武蔵守などを歴任したことからすると、受領として財を成した資産家であったのかもしれません(ちなみに、兼家の北の方時姫(道隆道兼、道長、詮子の母)も受領の娘)。師輔は盛子との間に伊尹、兼通、兼家、安子ら四男四女を儲けているので夫婦仲は悪くなかったようです。

 

ところが、師輔は22~3歳の頃、醍醐天皇の皇女勤子内親王と密通し、後に勅許を得て妻に迎えます(この時点で盛子は未だ存命していた)。天皇の皇女が臣下に降嫁した例はそれまでに2件(藤原良房と忠平)ありましたが、いずれも降嫁前に源姓を与えられて臣籍に降下(ややこしいな)しており、内親王が臣下に降嫁したのはこれが最初です。勤子は「淑姿花の如し」と称されるほどの美人であったということですが、師輔との間に子を儲けることなく死去しました。

 

次に師輔は31歳で勤子の同母妹で前伊勢斎宮の雅子内親王と結婚します(前斎宮の内親王が臣下に降嫁した唯一のケース)。雅子は為光ら三男一女を残して死去しました(なお、盛子は師輔が雅子を妻に迎えた時点では存命であったが、雅子に先立って死去している)。

 

すると師輔は、今度は醍醐天皇の皇女康子内親王と密通し、4番目の妻に迎えます(このとき師輔は47歳)。勤子と雅子の母は源周子という更衣であったのに対し、康子の母は醍醐の皇后藤原穏子(師輔の叔母)で、時の天皇村上の同母姉が臣下に降嫁するという異例の事態となりました(実頼は師輔と康子の密通を村上天皇の前で暴露したという)。康子は師輔との間に二男を儲けたのですが、二人目の子公季の産後の肥立ちが悪く師輔に先立って亡くなりました。

 

『栄花物語』によると師輔は「いとたはしき[淫しき]」と評されるほど好色な人物だったようです(さらに『中外抄』によると「九条殿[師輔]はまらのおほきにおはしましければ」ということで、大きかったようです(笑))が、康子の後は少なくとも正式な妻を迎えることはなかったようです。先立たれたことによるとはいえ、臣下でありながら3人もの内親王を妻にしたというのは他に例がありません。

 

師輔は兄実頼に先立って亡くなったため、摂政/関白に就くことはありませんでした(師輔の死後、彼の外孫である冷泉天皇が即位すると実頼が関白となった)。しかし、彼の娘安子が村上天皇の皇后となり冷泉・円融両天皇の生母となったことで、彼の子孫(九条系)は摂関家として繁栄することとなります(彼の息子のうち伊尹・兼通・兼家の3人が摂政/関白となり、この3人に為光・公季を加えた5人が太政大臣に昇った)。