本記事は、2016年9月に投稿した記事の補訂版です。

 

藤原頼通と教通は、道長とその嫡妻源倫子の子です。頼通は道長の嫡子として、長和6年(1017年)に道長から譲られて摂政に就任します。寛仁3年(1019年)には関白に転じ、以後治暦3年(1067年)に関白を辞するまで50年の長きに渡り摂関の地位にあり、道長と共に摂関時代の全盛期を現出しました。

 

頼通は摂政就任時にまだ26歳と若く、経験も乏しかったため、引き続き道長が実権を握っていました。頼通も大事については道長に指示を仰いでいたのですが、時には他の公卿の面前で道長から罵倒されたり、一時勘当されたりするなど、2代目的な頼りない人物であったようです(ただ、道長の息子たちは、父の威光を笠に着て粗暴な振舞いをすることが多かったのだが、その中で頼通は比較的そのような振舞いが少なく、それなりに「良識」があったようである)。

 

教通は、「次男坊」ではありましたが、道長の嫡妻の子として嫡子に準ずる扱いを受け、異母兄の頼宗や能信(母は道長の次妻源明子)に先んじて昇進し、治安2年(1021年)内大臣、永承2年(1047年)右大臣、康平3年(1060年)左大臣を経て治暦4年(1068年)関白に昇ります。頼通は、関白辞任に当たり、我が子師実をその後任としようとしたのですが、道長が頼通の次は教通を摂関とするようにと定めていたため、上東門院藤原彰子(頼通・教通の姉)が父の遺命に従い師実の関白就任を許さなかったという経緯があります。

 

道長の遺命によると、教通の摂関は彼一代限りで、その後は頼通の子に摂関を伝えることとされており、頼通も教通にその遺命の遵守を確約させた上で教通の関白就任に同意したのですが、教通は、我が子信長に関白を譲りたいという気持ちが次第に強くなり、頼通が師実の関白就任を見届けなければ死んでも死にきれないとして関白を譲るよう強く求めたのに対し、「自分の一存でどうこうできることではない(帝がお決めになることだ)」としてこれを拒否しています(実際、時の後三条天皇は頼通とは対立関係にあったため、教通(後三条の伯母(母の異母姉)禔子内親王の夫でもあった)を支持していたようである。なお、教通は、関白に就任するまでは兄頼通に卑屈なまでに従順な態度で接していたとのことだが、関白になってしまえば遠慮は無用とばかりに掌返しをしたわけである)。結局、頼通は師実の関白就任を見ることなく延久2年(1074年)2月に薨去することとなりますが、そのとき教通の頼みの綱であった後三条天皇は既に崩御していたのに対し、上東門院は依然健在であり(但し、同年10月に世を去る)、また、後三条天皇から皇位を継承した白河天皇の寵愛する中宮賢子は師実の養女であったこともあって、教通は師実を失脚させることができないまま、承保2年(1075年)9月に薨去し、後任の関白には師実が就任しました。

 

師実を通じて頼通の家系が藤原氏の嫡流となり、後に五摂家に分かれて現在まで続いています。これに対し、教通の子は、長男信家が権大納言、次男通基が正三位侍従、三男信長が太政大臣と、それぞれ公卿に昇りましたが、いずれも実子がなく、信家と信長は養子を迎えたものの、どちらの家系も公卿を輩出することなくいつしか消滅してしまいました。

 

また、頼通も教通も娘や養女を後冷泉・後朱雀の両天皇に后妃として入内させたものの、いずれも皇子を産まなかったため、藤原氏と血縁関係の希薄な後三条天皇の即位を許し、以後摂関時代は衰退期に入り、院政の時代へと向かうこととなりました(これは通説の考え方だが、師実と信長が摂関の座を巡って争い、師実が白河天皇と結んでその座を獲得したことが天皇の政治的権力を強める方向に働き、その結果摂関政治の衰退を招くこととなったという説もある)。