後朱雀天皇(諱敦良)は一条天皇の第三皇子で、母は道長の娘彰子。長和5年(1016年)、兄の後一条天皇三条天皇の譲位を受けて皇位に就くと、三条の皇子敦明親王が皇太子となります。しかしながら、敦明は道長とは血縁関係が遠かったため、自己の外孫である敦良を皇太子に立てることを望む道長から様々な圧迫を加えられ、翌寛仁元年(1017年)に自ら皇太子の座から身を退きました。これを受けて、敦良が皇太弟となり、長元9年(1036年)後一条が崩御すると皇位を継承しました。

 

後朱雀の在位中に、有力な寺社間の争論や寺社による強訴が激化するようになったのですが、先例尊重を旨とする朝廷はこの新しい問題への対応に苦慮し、後朱雀と関白頼通はお互いに責任を押しつけ合ったとのことです(院政という新しい政治形態が生み出されたのは、この問題に対応するためだったとの説がある)。また、長久元年(1040年)に発令した荘園整理令は、その実効性については議論があるものの、その後の荘園整理令の基礎となりました。

 

後朱雀は、道長の娘嬉子との間に後冷泉天皇、三条の皇女禎子内親王との間に後三条天皇をそれぞれ儲け、寛徳2年(1045年)に後冷泉に譲位してその2日後に出家・崩御しました。後三条の皇統が現在まで続いています。