本記事は、2016年12月に投稿した記事の補訂版です。

 

源明子は父が源高明、母が藤原師輔の娘で、道長とはいとこ同士になります。父高明が安和の変で失脚した後、叔父の盛明親王に養われ(それを機に皇籍に編入されたらしく、「明子女王」との表記がいくつかの記録に見られる)、盛明の死後は藤原詮子(東三条院)に庇護されて道長と結婚しました(一説によると、道隆道兼も明子に求婚したのだが、詮子は可愛がっていた道長に娶せたとのこと)。道長のもう一人の妻源倫子は現役の左大臣源雅信の娘であったのに対し、明子の父高明は元左大臣とはいえ安和の変で事実上流罪となった身であったことが災いし、倫子が嫡妻とされ、明子は次妻(注)の地位に甘んじました。そのため、道長との間に4男2女を儲けたものの、いずれも倫子所生の子と比べると一段下に位置付けられ、摂関に昇る男子も、天皇の后妃となる女子もありませんでした。

 

それでも、6人もの子を儲けたのですから、道長も決して明子のことを粗略に扱うことはなかったのでしょう。面白いのは、倫子と明子は、一方が妊娠すれば他方も、というようにほぼ同時並行的に(競うように?)子供を授かっていることです。道長って人は律儀というか、なんというか・・・なかなか真似のできることではありません(真似したらあかんがな)。

 

明子の子供のうち、長男頼宗の子孫は中御門(松木)家、持明院家等として、四男長家の子孫は冷泉家として、現在まで家系が続いています。また、次女尊子は源師房の妻となり、その家系は久我家、中院家等多くの家に分かれて現在まで続いています。

 

(注)当時の貴族の男性は複数の妻を持つのが通常であり、そのうち嫡妻(いわゆる「北の方」)とされた妻以外は一般に妾(「めかけ」ではなく「しょう」)と呼ばれました。道長の場合は倫子が嫡妻と位置づけられていたため、明子は妾ということになるのですが、彼女も倫子と同じく道長との間に6人もの子を儲けていることから、単なるその他大勢とは区別すべきと考えられ(『大鏡』には「この殿[道長]には北の方二所おはします」とさえ記述されている)、「次妻」と称されています。