本記事は、2017年11月に投稿した記事の補訂版です。

 

源高明は醍醐天皇の第10皇子、母は更衣源周子(嵯峨源氏)で、「いと淫しくおはし」た(笑)藤原師輔の妻の勤子・雅子両内親王の同母弟にあたります。母の身分が低かったためか、7歳のときに源姓を与えられて臣籍に降下しました。師輔は、学問を好み有職故実にも通じたこの義弟に目をかけ、自らの三女を嫁がせます。また、師輔の娘で村上天皇の皇后安子に中宮大夫として仕えたことでその信任も得、安子が産んだ為平親王を女婿に迎えました。

 

こうして師輔と安子の後援を得た高明は出世街道を歩み、康保3年(966年)1月に右大臣、翌4年12月には左大臣に昇りました。この間、康保4年(967年)5月に村上天皇が崩御して冷泉天皇(母は安子)が皇位を継承すると、その皇太弟として冷泉の同母弟である為平・守平両親王が候補になり、年長かつ優秀な為平が有力視されたにもかかわらず、同年9月、守平が兄を差し置いて皇太弟に立てられます(後の円融天皇)。これは高明に外戚の地位を奪われることを恐れた藤原氏(実頼・師尹兄弟を中心とする)の策謀によるもので、高明を大いに落胆させたのですが、彼の悲運はそれだけにとどまらず、安和2年(969年)3月には謀反の嫌疑により太宰権帥に左遷され、出家して京に留まることを願うも許されず、大宰府に配流となりました(安和の変)。

 

高明は天禄2年(971年)に赦免されて翌年帰京し、その後は政界に復帰することなく隠棲して余生を送りました。なお、高明は光源氏のモデル候補の一人としても知られますが、『源氏物語』は高明の鎮魂のために書かれたものだという説、さらには高明がその作者だという説もあります。

 

高明は、最初の妻(師輔の三女)に先立たれた後、師輔の五女の愛宮(実名不詳)という女性(母は高明の同母姉雅子内親王)を後妻に迎えます。先妻との間に儲けた俊賢は権大納言に昇り一条朝四納言の一人として活躍し、後妻との間に儲けた明子は藤原道長の次妻となりました。

 

ところで、道長の嫡妻は左大臣源雅信の娘倫子で、『栄花物語』によると、雅信は彼女を天皇か皇太子の后妃とすることを望んでいたが彼の妻(倫子の母)藤原穆子は道長を気に入り夫の反対を押し切って道長を倫子の婿にしたということです。これについては疑問があることを以前指摘したところですが、この機会に私見をまとめておきます。

 

前記のとおり、源高明が失脚したのは藤原氏の外戚の地位を脅かしたからですが、雅信はそのとき参議として廟堂に列していて高明の失脚劇を目の当たりにしています。そうすると、もし倫子のことを「后がね」と思ったとしても、それを実行すれば高明の二の舞になることは火を見るよりも明らかであり、そのような危険を冒そうとしたというのは俄かに信じ難いと言わざるを得ません。藤原氏の権力の源泉が天皇の外戚であることにある以上、彼らにとってはその地位を独占することが至上命令であり、現にそれを脅かす外敵(他氏族)が現れたとき(阿衡事件における橘広相、昌泰の変における菅原道真、そして安和の変における源高明)は一貫して排除してきたのです。そして、冷泉天皇から後冷泉天皇までの8代の天皇の后妃を見ると全て皇族と藤原氏によって占められていて、他氏族出身者は一人もいない(藤原氏の勢威の衰退が明らかとなった中で皇位に就いた後三条天皇に至って藤原氏以外の氏族(源氏)から女御を迎えた)という事実は、娘を有力な皇子に嫁がせて藤原氏に挑むような真似に出ることを他の氏族が思い止まったことの現れであると考えられます。こうした事実に鑑みると、雅信が、願望はともかく、現実に倫子を后妃にしようと目論んでいたとは思えません(さらに、有力な皇子の中に年齢的に倫子と釣り合う相手がいなかったために断念したという説には従えないことについては既述したとおり。ちなみに、雅信は村上天皇の皇子致平親王に娘(倫子の異母姉妹)を嫁がせているが、致平が皇位を継承する可能性はほぼゼロであった)。

 

先の有名なエピソードを伝える『栄花物語』は既述のとおり道長アゲの書なので、彼の妻である倫子もまた持ち上げられていると考えられます。すなわち、倫子は父雅信が「后がね」と思っていたほどの、本来なら天皇の后妃となるべき素晴らしい女性であると示唆して彼女を持ち上げているのです。そして、このことはさらに、道長はそのような素晴らしい女性を妻に迎えるにふさわしい立派な男だと(間接的に)持ち上げることでもあり、そうした目的で創作されたお話なのでしょう(もっとも、倫子と結婚する前の道長は将来を嘱望されていたとは言い難かったようなので、雅信が彼を倫子の婿に迎えることに反対したという点に限れば、そうした事実は実際にあったのかも知れないが)。