賜姓源氏は嵯峨源氏を嚆矢とし、最後の正親町源氏に至るまで21の系統(源氏二十一流)があるとされています。そのうち、既に別稿にまとめた清和源氏、宇多源氏、村上源氏及び正親町源氏以外の源氏について簡潔にまとめておきます(但し、二十一流のうち、冷泉源氏・亀山源氏・後二条源氏は名前が伝わるのみで賜姓の具体例が不明であるため割愛)。

 

嵯峨源氏は、嵯峨天皇の17人の皇子と15人の皇女が源姓を賜っています。そのうち、常・信・融の3人が左大臣に昇ったほか、2人が大納言、3人が参議となって政界に一大勢力を築きました。また、潔姫は藤原良房の妻となりましたが、これは皇女が人臣に嫁いだ最初の例です。しかしながら、参議以上の議政官に昇ったのは三代目までで、それ以降は振るわず、ほとんどが歴史から姿を消してしまいました。ただ、融の曽孫である渡辺綱の子孫は渡辺党という武士団を形成して各地に広まり、平戸藩主松浦氏はその後裔を称しています。

 

仁明源氏は、源姓を賜って臣籍に降下した7人の皇子(一世源氏)と、人康・本康両親王の子(二世源氏)の系統があります。一世源氏のうち、多とは右大臣に昇りましたが、それ以外には参議となった者がいる程度で、歴史から姿を消しました。

 

文徳源氏は、文徳天皇の8人の皇子と7人の皇女が源姓を賜っています。その中で公卿に昇ったのは右大臣となった能有のみで、他に能有の子当時と当時の孫惟正も公卿となったものの、それ以外は振るわず、子孫のほとんどは武士となりました。

 

陽成源氏は、源姓を賜って臣籍に下った3人の皇子(一世源氏)と、元良・元平・元長・元利の各親王の子(二世源氏)の系統があります。公卿となったのは一世源氏の清蔭(大納言)と清鑒(従三位)のみで他は振るわず、歴史から姿を消しました(但し、清和源氏の祖とされる源経基は元平親王の子とする説もある)。

 

光孝源氏は、光孝天皇の16人の皇子と20人の皇女が源姓を賜った(一世源氏)ほか、是忠・是貞両親王の子も源姓を賜りました(二世源氏)。なお、光孝天皇の皇子である宇多天皇も当初源姓を賜って臣籍に下りましたが、後に皇籍に復帰して皇位を継承しました。光孝天皇の2人の皇子(貞恒と是茂)と是忠親王の2人の子(清平と正明)が議政官に昇りましたが、他は振るわず、その子孫のほとんどは武士になっています。また、是忠親王の曽孫の康尚は仏師職の祖と称され、その子孫は仏師となりました。

 

なお、仁明・文徳・光孝の各天皇の子孫には源姓のみならず平姓を与えられて臣籍に下った者もいました(仁明平氏・文徳平氏・光孝平氏)。それらはいずれも天皇の曽孫であることから、天皇の子及び孫の代に臣籍降下した場合は源姓を賜り、曽孫の代に降下した場合は平姓を賜るという基準があったとも考えられますが、そうだとしても、光孝天皇の曽孫の中には源姓を賜ったケースもあり、必ずしも貫徹されていません。

 

(つづく)