本記事は、2016年2月に投稿した記事の補訂版です。

 

源氏物語の主人公は「光源氏」として知られていますが、周知のとおり、これは「光り輝く源氏の君」という意味であり、そこでいう「光」は形容詞であって、実名ではありません。つまり、源氏物語の主人公のフルネームは「源光(みなもとのひかる)」ではありません。

 

これに対し、平安時代に「源光」という名の人物が実在しました。

 

この人物は仁明天皇の皇子として承和12年(845年)に生を受けますが、母の身分が低かった(尊卑分脈、公卿補任、本朝皇胤紹運録のいずれにも生母の記載がない)ため、源姓を与えられて臣籍に降下しました(光源氏と同じ)。そして、元慶8年(884年)に参議に任ぜられて議政官(閣僚)に連なると、中納言、権大納言を経て昌泰2年(899年)には大納言に昇ります。その翌年、内大臣藤原高藤(醍醐天皇の外祖父)が死去すると、左大臣藤原時平、右大臣菅原道真に次いで廟堂におけるNo.3となりました。

 

しかし、彼はそれでは満足しませんでした。昌泰4年(901年)、藤原時平と組んで菅原道真の追い落としに成功し(昌泰の変)、首尾よくその後釜(右大臣)に座ったのです(仁明源氏としては兄の源多に次いで二人目の大臣)。さらに、延喜9年(909年)に藤原時平が死去すると、左大臣の座が空席のままとされたため、廟堂の首班、つまりNo.1に昇りつめました。

 

こうして源光は得意の絶頂にあったのですが、延喜13年(913年)、鷹狩に出かけた際に落馬して泥沼に転落し、行方不明となります。結局、彼の遺体は発見されず、世間では菅原道真の祟りと恐れられたとのことです。源光の子孫からは公卿に昇る者はありませんでしたが、彼の孫の敦は、渡辺綱を養子にしたことで知られます。また、一説によると、法然は源光の末裔だということです。

 

ところで、源光は「光源氏(ひかるのげんじ)」とも称されました。そのためか、彼も源氏物語の主人公のモデル候補の一人に擬されています。しかしながら、その人生は、光源氏(ひかるげんじ)のそれとは全く異なるものでした。