仁和3年(887年)8月、光孝天皇は重体に陥ります。しかし、この時点で陽成上皇と藤原高子は未だ健在であったため、基経としては光孝天皇の子息の中から後継の天皇を選ばざるを得ませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが源定省です。定省は光孝天皇の意中の息子であったため選ばれたということになっていますが、実際には、基経の異母妹で尚侍として光孝天皇に仕えていた藤原淑子の猶子となっていたことが決め手となったようです(彼の母は仲野親王の王女(桓武天皇の孫娘)班子女王で藤原氏ではない)。

 

同年8月25日、定省は皇籍に復帰して親王宣下を受けます。そして翌日には皇太子となり、同日光孝天皇が崩御したため皇位に就きました。宇多天皇です。宇多天皇は同年11月に基経に対し「関白万機」の詔勅を発します。基経は光孝天皇から一切の政務を委任されたときに実質的に関白の地位に就いたのですが、ここに名実共に関白となりました。

 

基経は当時の慣例に従い一旦これを辞退します。これに対し、宇多天皇は重ねて基経を関白に任ずる詔勅を発したのですが、その中の「宜以阿衡之任」との文言が大問題を引き起こしました。文章博士藤原佐世が「阿衡」とは職掌のない名誉職にすぎないと基経に告げたため、基経は政務を放棄し、天皇からの鄭重な釈明にもかかわらず自邸に引き籠り出仕しなくなってしまったのです。いいがかりも甚だしいというほかありませんが、これにより国政は著しく滞ってしまったため、翌仁和4年(888年)6月、宇多天皇は先の詔勅の取消に追い込まれ、面目が丸潰れとなりました。いわゆる阿衡事件です。

 

この事件は、基経が藤原氏との血縁関係が希薄な宇多天皇に対し自己の権力の強さを見せつけて(つまり一発かまして)屈服させたものですが、さらに次のような意味もありました。「宜以阿衡之任」の詔勅を起草したのは参議兼左大弁であった橘広相ですが、彼の娘義子は即位前の宇多天皇に嫁ぎ、斉中・斉世の2子(いずれも宇多即位後に親王宣下を受ける)を産んでいたのです。この二人のいずれかが皇位に就けば、橘氏が藤原氏に代わって外戚として権力を握るおそれがあるため、それを予め封じておく狙いがあったのです。現に基経は、宇多天皇に対し広相を流罪に処すことも要求しています(これは菅原道真の諌止もあって取り下げた)。そもそも基経は、光孝天皇から国政の委任を受けて一旦これを辞退した際、「果たして阿衡の責任を全うできるかどうか(自信はありません)」と述べているのであり、「阿衡」の意味を知らなかったとは考えにくく、藤原佐世という曲学阿世の徒の言を政治的に最大限に利用したものと考えられます(佐世の動機は広相に対する妬みであったようですが)。

 

しかし、基経はやりすぎました。この事件で大きな屈辱を味わわされた宇多天皇はすっかりアンチ藤原となってしまい、基経の死後、菅原道真を登用する等して藤原氏の抑制を図るようになったからです。但し、それは道真の失脚(昌泰の変)と藤原氏の権力の一層の強化という宇多天皇の意図とは正反対の結果をもたらすものでしたが。因みに、道真の「罪状」は、自らの女婿である斉世親王(前掲)を皇位に就けるために醍醐天皇の廃位を企てたというものでした。

 

(了)