源師房は具平親王の子で、道長は母方の祖父(為平親王)と祖母(源高明の娘)の双方の従弟にあたります。父の死後姉隆姫女王の夫藤原頼通の猶子となり、寛仁4年(1020年)に元服すると源姓を賜って臣籍に下り(村上源氏)、名を資定から師房に改めます。優れた文人であった父のDNAを享け継ぎ優秀であったため、道長からも目を掛けられてその娘尊子(母は源明子)の女婿に迎えられると、弱冠15歳で従三位に叙せられて公卿に列せられました(道長は、頼通がなかなか跡継ぎの男子に恵まれなかったことから、師房を頼通の後継者にしようとしたのだという説がある)。その後は、頼通の右腕となって活躍するとともに、摂関家(御堂流)の「身内」扱いを受けて順調に昇進し、右大臣に昇りました(承暦元年(1077年)病により上表を行ったところ、却下されて太政大臣に任ずる宣旨が下されたが、正式に就任することなくその日のうちに出家し死去した)。

 

師房の長男俊房と次男顕房はそれぞれ左大臣と右大臣となって兄弟で左右大臣の座を占め、四男師忠は大納言に昇りました。俊房の家系は、俊房の子仁覚が輔仁親王(白河天皇の異母弟)擁立を企てて流罪に処された事件(永久の変)に関連して俊房が事実上失脚したこと等により振るわず、鎌倉時代まで中級貴族として存続したものの、その後はフェードアウトしています。これに対し、顕房の家系は、顕房の娘賢子が頼通の子師実の養女となって白河天皇の中宮に冊立されて堀河天皇の生母となったことで、白河院政のもとで勢力を高めて代々大臣に昇り、鎌倉時代になって久我(こが)、中院、堀川、土御門、唐橋、北畠等の家に分かれましたが(このうち久我家が嫡流として位置づけられた)、久我・中院両家以外の家は室町以降に断絶しました。

 

久我家及び中院家の分家としては、六条、岩倉、千種、東久世、久世、梅蹊、愛宕(おたぎ)、植松の各家があります。家格は久我家が清華家、中院家が大臣家、その他は羽林家で、明治になって久我家が侯爵、中院家が伯爵、岩倉・東久世以外の各分家が子爵に叙爵されました。岩倉家は本来であれは子爵が相当であるところ、具視の勲功により3階級特進で公爵に叙せられて本家を凌駕しました。また、東久世家も子爵相当のところ、通禧(「七卿落ち」の一人)の勲功により1階級上の伯爵に格上げされています。なお、先ごろ亡くなった女優の久我美子(芸名では「くがよしこ」と読むが、本来の読みは「こがはるこ」)は、久我侯爵家の出身(師房の末裔)です。