源雅信は、宇多天皇の第8皇子敦実親王の子で、母は藤原時平の娘です(兼家の再従兄)。17歳のときに源姓を与えられて臣籍に降下した後官途に就くと順調に昇進し、天暦5年(951年)には参議となって議政官に列しました。その後はしばらく昇進が停滞したものの、円融天皇が即位するとその信任を得て急速に昇進し、貞元2年(977年)に右大臣、その翌年には左大臣に昇りました。円融天皇は、藤原氏を牽制することを意図して雅信を重用したのですが、雅信もその期待に応えて職務に精勤したということです。

 

彼の娘倫子は道長の嫡妻です。道長と倫子の結婚を巡っては、倫子を「后がね」と考えていた雅信が「あんな嘴が黄色い青二才に大事な娘は嫁れない」と言って反対したのを、道長を見込んだ雅信の妻穆子が夫の反対を押し切って二人を結婚させたという『栄花物語』のエピソードが良く知られています。これは単なる説話であって史実とは考えにくいことについては以前の記事において論じたとおりですが、若干補足をしておきます。道長が倫子と結婚したのは、兼家が一条天皇の摂政となった寛和2年(986年)の翌年ですが、当時、兼家は摂政として政権を掌握したものの、未だ一上の左大臣には円融法皇(一条の父として大きな政治的影響力を持っていた)の信任の厚い雅信が健在であり、源高明兼明親王とは異なり、彼を排除する口実がなかったため、政権の基盤を盤石なものとするためには雅信との提携が不可欠という状況にありました。他方、雅信としても、政権の座に着いた兼家との提携は歓迎こそすれ拒否する理由はないことから、両者の思惑が合致したのだと見るのが妥当でしょう(道長と倫子の結婚については、川田康幸氏の論考に基本的に従う)。

 

雅信の子は、長男時中(大納言)と四男扶義(参議)が議政官となり、時中の子孫は庭田、佐々木野、田向、綾小路、大原等の諸家に分かれます(佐々木野家と田向家は室町時代に断絶)。家格はいずれも羽林家で、明治になって爵位制度が設けられると、庭田家が伯爵、その他の家は子爵に叙せられましたが、大原家は重徳の勲功により後に伯爵に陞爵されています。なお、庭田家からは、後花園天皇と後柏原天皇の生母が出ています。また、扶義は、近江源氏佐々木氏の祖となりました(但し、佐々木氏は古代豪族の沙沙貴山君の子孫であるという説もある)。佐々木氏からは六角氏、京極氏、朽木氏等が出ており、京極・朽木両氏は江戸時代を通じて大名として存続しました(黒田官兵衛の黒田氏も佐々木氏の流れを汲む宇多源氏であると称しているが、確証はない)。さらに、雅信の七男時方の子孫からは五辻家と慈光寺家(家格は半家)が出ており、明治になっていずれも子爵に叙せられました。