兼明親王は醍醐天皇の第16皇子で、母は藤原(南家)菅根の娘の更衣淑姫。源高明の異母弟で兄と同じく7歳で源姓を与えられて臣籍に降下しました。高明と同様優秀だった兼明は、兄のあとを追うようにして出世を重ね、康保4年(967年)12月、高明の左大臣就任と同時に大納言に昇ります。翌々年の安和の変に際しては高明に連座して一時昇殿を止められたものの、後に復して天禄2年(971年)11月には高明に代わる醍醐源氏の総帥として左大臣に昇格しました。

 

翌天禄3年(972年)11月、摂政藤原伊尹が死去し、その弟兼通が関白に就任します。兼通は弟の兼家(当時大納言)とは犬猿の仲で、仲の良かった従兄の右大臣頼忠を相談相手として政権を運営していました。ところが、天延4年(976年)1月、冷泉上皇とその女御である兼家の娘超子との間に皇子居貞(後の三条天皇)が誕生します。これに対し、円融天皇の皇后となっていた兼通の娘媓子には皇子がなかったため、兼通はおそらく政界における兼家の地位が重みを増すことを恐れたのでしょう(当時、有力な皇位継承候補は皇太子師貞親王(後の花山天皇)のほかは居貞のみだった)、同じ年(7月に貞元と改元)の12月、兼明を差し置いて頼忠を一上に任じてその地位の強化を図り、さらに翌貞元2年(977年)4月には病を理由(口実)として兼明を親王に祭り上げて左大臣を退任させ(慣例上、親王の身分を保持して左大臣に留まることはできなかった)、その後任に頼忠を昇格させました。こうした一連の措置によって頼忠を自らの後継者に位置付けると、同年11月、重病となった兼通は関白職を頼忠に譲り、ほどなく死去しました。

 

このように、兼通としては何としても兼家に関白を渡したくなかったのですが、兼明はそんな兄弟の不仲のとばっちりを受けて体よく政界を追われてしまったわけです。これは異母兄源昭平の皇籍復帰を望む円融天皇の意向を叶えることと抱き合わせで(というかそれに乗じて)行われたものだということで(円融天皇は兄である昭平が自分に対し臣下の礼をとらなければならないことを心苦しく思っていたそうで、昭平も兼明とほぼ同時に親王宣下を受けた)、そのため兼明は「君昏くして臣諂ふ」と円融天皇や兼通・頼忠を非難しています。彼の無念が偲ばれますが、少なくとも、高明のように配流の憂き目を見なかったのは幸いであった、とはいえるでしょう(ちなみに、兼明が事実上解任された際の人事異動により彼の嫡子伊陟が参議に昇進しているが、埋め合わせの意味があったのだろうか)。

 

兼明は親王宣下を受けた後、親王の名誉職である中務卿に任ぜられ、後に「中書王」と称されました(「中務省」の唐名を「中書省」という)。彼は博学多才で詩文と書にも優れていたそうですが、和歌はあまり得意ではなかったようです。ただ、太田道灌のいわゆる「山吹伝説」で知られる「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」は彼が詠んだものです。また、彼の邸宅は「御子左邸」(御子(皇子)である左大臣の邸宅の意)と称され、後に藤原道長の子長家がこれを継承し、その子孫は御子左家という家名を名乗りました(冷泉家はその分家に当たる)。