本記事は、2016年8月に投稿した記事の補訂版です。

 

三条天皇(諱居貞)は冷泉天皇の第二皇子で母は藤原兼家の娘超子。道長は叔父に当たります。寛和2年(986年)、兼家の策謀により花山天皇が出家して一条天皇が皇位に就くと、その皇太子となります。これにより兼家は天皇と皇太子の双方を自己の外孫で占めたわけですが、皇太子の方が天皇よりも4歳年長であったため、「逆さの儲けの君」といわれました。

 

寛弘8年(1011年)、病が重篤となった一条天皇から譲位を受けて皇位に就き、道長の外孫敦成親王が皇太子となります。このとき三条は36歳という壮年に達していて道長の意のままにならなかったため、両者は次第に対立するようになります(皇位に就くまでは、道長とはむしろ良好な関係にあったのだが、「糟糠の妻」藤原娍子の立后を強行した(これは当時の宮廷社会の常識を逸脱するものであった)ことが関係悪化のきっかけとなった)。長和元年(1012年)、道長の娘妍子を中宮に冊立しましたが、妍子は翌年禎子内親王を産んだものの、皇子を産むことはなかったため、両者の関係が改善されることはなく、道長から様々な嫌がらせを受けるようになりました(このように書くと、道長が一方的に悪いように思われるであろうが、三条の側にも、その政治姿勢が当時の貴族社会の総意と相容れないことが多かったため支持を失っていた(これに対し、道長は基本的に貴族層の支持を受けてその意向を代弁していたという面があった)という問題点があった)。

 

長和3年(1014年)、三条が眼病を患うと、道長は皇太子敦成へ譲位するよう圧力を強めます。三条は抵抗したものの、2度に渡る内裏の焼失や眼病の悪化もあって力尽き、同5年(1016年)、自らの第一皇子敦明親王(母は藤原娍子)を次の皇太子とすることを条件として譲位に応じ、翌寛仁元年(1017年)、失意のうちに崩御しました。三条天皇の心情は、百人一首68番の「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」に尽くされていると言えるのではないでしょうか。

 

後一条天皇の皇太子となった敦明親王は、父三条上皇が崩御すると、道長の圧迫に堪えきれず、その軍門に降って皇太子を退きます。そのため、三条天皇の男系子孫は皇統を継ぐことはありませんでした。但し、前記禎子内親王は、後朱雀天皇の皇后となって後三条天皇を産んでおり、以後今上天皇に至るまでの歴代天皇は三条天皇の女系子孫ということになります(「もって瞑すべし」と言っては三条天皇に酷であろうか)。