本記事は、2016年8月に投稿した記事の補訂版です。

 

後一条天皇(諱敦成)は一条天皇の第二皇子で母は道長の娘彰子です。寛弘8年(1011年)、一条天皇が三条天皇に譲位すると、その皇太子となります。一条の意中は藤原定子所生の第一皇子敦康親王にあったのですが、最高実力者である道長の意向には背けなかったのです。彰子は、定子の死後敦康を引き取って実子同然に育てていたこともあり、我が子敦成が皇太子となったにもかかわらず、一条と道長を恨んだそうです。

 

長和5年(1016年)、三条天皇から譲位されて皇位に就きます。これに伴い、外祖父の道長が念願の摂政に就任しましたが(天皇の外祖父が摂政となるのは良房、兼家に続いて3例目)、翌年には辞任して頼通が摂政(2年後に関白に転じる)となり、その治世は道長・頼通の父子によって担われました。長元9年(1036年)崩御。享年29。

 

後一条天皇の后妃は、この時代としては異例ですが、道長の娘である(自身の叔母でもある)中宮威子のみでした。これは、道長を憚って他の公卿は誰も娘を入内させなかった(このことは頼通と彰子の意向でもあったようである)ためです。威子は章子・馨子の二人の内親王を産みましたが、皇子を産むことはありませんでした。章子は後冷泉天皇の中宮となり、馨子は後三条天皇の中宮となりましたが、いずれも皇子を儲けず、後一条の血統は断絶しています。