敦康親王は一条天皇の第一皇子で、母は藤原定子。道長は大叔父に当たります。2歳のときに母定子が死去し、翌年藤原行成の進言により藤原彰子のもとで養育されることとなります(賢后として名高い後漢の馬皇后が生さぬ仲の章帝を母代わりに養育した故事に因む)。その時点で彰子は未だ一条天皇の子を儲けていなかったため、道長も敦康を丁重に扱っていましたが、彰子が一条の第二皇子敦成親王(後の後一条天皇)を産むと、敦康への奉仕をなおざりにするようになります。

 

一条は、皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位するにあたり、敦康を次の皇太子に立てることを強く望んだのですが、行成から、後見のいない敦康では将来政情不安を招くおそれがあると諫止された(その際、行成は、文徳天皇が、鍾愛する第一皇子惟喬親王の立太子を望みながら、重臣藤原良房の外孫である第四皇子惟仁親王(清和天皇)を皇太子とした史実を先例として引いた)のを受けて断念し、敦成を皇太子としました(彰子はこの決定を知って、一条と道長を恨んだとのこと。なお、皇后所生の第一皇子が皇太子になれなかったのは、夭逝した白河天皇の第一皇子敦文親王(母は中宮藤原賢子)を除くとこれが唯一の例となる)。

 

こうして皇太子の座を逃した敦康は、その代償として一品に叙されるとともに准三后の待遇を得て、作文会(漢詩)、歌合(和歌)、法華八構(法会)を度々開くなど文化的活動に勤しんでいましたが、病のため20歳で早逝しました。敦康は、頼通の嫡妻隆姫女王の妹(具平親王の娘)を妃とするなど、頼通とは親しい間柄だったそうで、彼の唯一の子である嫄子は、頼通の養女となって後朱雀天皇の中宮に立てられ祐子内親王と禖子内親王を産みました。しかし、二人とも生涯独身で子を儲けなかったため、敦康の血統は途絶えました。