本記事は、2016年12月に投稿した記事の補訂版です。

 

藤原彰子は道長の長女、母は源倫子です。長保元年(999年)一条天皇に入内して女御となり、翌年には中宮に立てられました(当時一条天皇の中宮として藤原定子がいたが、彼女は彰子の立后に伴い皇后に移り、一帝二后という異例の事態となった・・・もっとも、これが先例となって、以後一帝二后は頻繁に生じるようになった)。彰子は一条天皇との間に後一条後朱雀両天皇を儲け、これにより道長の政権は盤石のものとなりました。一条天皇が崩御し三条天皇が皇位を継承すると皇太后となり、次いで後一条天皇の即位後には太皇太后、そして万寿3年(1026年)には東三条院(藤原詮子)に次いで二人目の女院(院号は上東門院)となり、後一条以後5代にわたり天皇家の実質的な家長的存在を務めるとともに、優柔不断な弟の関白頼通からも頼りにされるなど、藤原氏一門を統率する立場にもありました(あの実資も「賢后」と称賛している)。道長・頼通による摂関時代の全盛期も、彰子の支えがあったればこそといえるでしょう。

 

それだけでなく、彰子は、天皇を後見する国母として、摂関や大臣をはじめとする人事、后妃の決定、儀式や日常の政務にも関与し、それが後の院政において先例として参酌されて(あるいは、院政において根拠とされて)いて、「上東門院故実」は院政期以降の貴族社会全体で共有されるようになったとのことです。

 

彰子は87歳という長寿に恵まれましたが、その間、我が子である後一条・後朱雀両天皇のみならず孫の後冷泉・後三条両天皇にも先立たれ、彼女が亡くなった時に皇位にあったのは曽孫の白河天皇でした(皮肉にも白河は、院政開始後、上東門院の先例に従って摂関家に打撃を与える人事権を行使している)。白河の皇統が現在まで続いています。

 

 

また、彰子には紫式部、赤染衛門、和泉式部等が女房として仕え、華やかな文芸サロンを形成していたことは説明の要を見ないでしょう。