藤原詮子は兼家の次女で道長の姉。天元元年(978年)円融天皇に入内して女御となり、翌々年に円融の第一皇子(一条天皇)を産んだのですが、円融と兼家の関係は良好でなく(兼家は円融の兄冷泉天皇の皇統を嫡流と考えていたということがその背後にあったのかもしれない)、円融は兼家の勢威が高まるのを抑えようとしたのか、関白であった頼忠の娘遵子を皇后に立てたため、詮子は兼家の東三条第に引きこもってしまい、円融の度々の召還にも応じませんでした。しかし、寛和2年(986年)に一条天皇が即位すると皇太后となり、正暦2年(991年)円融法皇の崩御後に病により出家して皇太后宮職を停止すると「東三条院」の院号を宣下され、上皇に準ずる地位(女院)を得ました。彼女の子である一条天皇の皇統は現在まで続いています。

 

詮子は一条天皇の母后(国母)として度々政治に容喙したため、実資は「母后専朝事」と憤慨しています(『小右記』)。道長のことは可愛がっていたようで、長徳元年(995年)に関白道兼が死去した後、その後任を道長と伊周のどちらにするか悩んでいた一条天皇に対し、涙ながらにかき口説いて道長を執政の座(内覧)に就かせたという『大鏡』のエピソードはよく知られています(ただし、史実であるかどうかは確認できない)。なお、道長も、詮子の没後、父母と同様に彼女の供養を手厚く行っていたとのことで、仲が良かったというのは間違いなさそうです。

 

ところで、一条天皇は花山天皇が出家したことにより皇位に就いたのですが、花山の遜位は兼家の策謀によるというのが通説です。しかしながら、真の黒幕は詮子であったという説があります。花山は山科の元慶寺で出家したのですが、その際、道兼とともに花山が宮中から抜け出す手引きをしたのが元慶寺の僧侶であった厳久でした。厳久は、その後、詮子の引き立てを受けて権大僧都にまで昇り、また、詮子が建立した慈徳寺の別当を長く務め、彼女を檀主とする仏事に従事していたということで、これは、花山を皇位から引きずり下ろして一条の即位を実現したことに対する論功行賞であり、詮子こそがその陰謀の主であったことの証左だというのです。犯行によって最も利益を得た者を疑えというのが犯罪捜査の鉄則であり、詮子が一条朝において国母として専横を振るったことに鑑みると、そのような可能性も十分に考えられるところです(「黒幕」あるいは共謀共同正犯まではいえないとしても、かなり深く関与したことは確かだと思われる)。