本記事は、2016年9月に投稿した記事の補訂版です。

 

一条天皇(諱懐仁)は円融天皇の第一皇子で、母は藤原兼家の娘(道長の姉)詮子(東三条院)。永観2年(984年)従兄の花山天皇の皇太子となり、寛和2年(986年)花山が兼家の策謀により出家するとその後を継いで皇位に就き、兼家が摂政となりました。

 

兼家の後を継いで関白となったのは長男道隆です。当時皇后位は藤原遵子(円融天皇皇后)、皇太后位は藤原詮子(一条天皇生母)、太皇太后位は昌子内親王(冷泉天皇皇后)がそれぞれ占めていて、律令の定める「三后」には空席がなかったのですが、道隆は、先帝の皇后と今上帝の皇后は並立可能とのロジックにより、一条に入内させていた自らの娘定子の中宮冊立を強行し、皇后と中宮を分離して四后体制としました。道隆の死後政権を掌握した道長は、この先例に倣い、自らの娘彰子を一条に入内させると、定子を皇后、彰子を中宮として一帝二后を実現しています。定子のもとには清少納言、彰子のもとには紫式部、和泉式部らが仕え、一条朝のもとで宮廷女流文学の全盛期を迎えたことは説明の要はないでしょう。

 

一条天皇は長ずるに及んで政務に励み、また、道長とも概ね協調関係を保ったほか、その治世を実資公任行成斉信俊賢といった多くの賢臣(彼らは王朝文化の担い手でもあった)に支えられ、後代において「聖主」、「英主」、「賢主」等と讃えられることとなります。なお、一条の崩御後、道長と彰子がその遺品を整理していたところ、「三光明ならんと欲すれども重雲光を覆ひて大精暗し」との書付が見つかり、道長はこれを自分に対する批判の文と考えて焼き捨てたという逸話を『古事談』と『愚管抄』が伝えていますが、これはあくまで説話であって、史実ではないようです。

 

一条天皇が彰子との間に儲けた二人の皇子はいずれも天皇(後一条天皇後朱雀天皇)となり、後朱雀天皇を通じて一条天皇の血統は現在の天皇家まで受け継がれています。