本記事は、2016年7月に投稿した記事に補訂と追記を加えたものです。

 

藤原斉信は為光(兼家の異母弟)の子で、道長の従弟です。長徳2年(996年)参議となって兄誠信に追いつき、長保3年(1001年)には誠信を超えて権中納言に昇進したため、誠信はこれを恨んで憤死したということです。誠信は幼時から聡明で父為光から期待されていたものの、政治的には斉信の方が有能であったということで、この頃はまだ長幼の順にかかわらず一定程度能力主義が採られていたことが窺われるエピソードです。

 

その後、寛弘6年(1009年)には権大納言に昇進し、一条朝四納言の筆頭格として道長政権を支えました。ただ、あまりにも道長に忠勤を励んだため、藤原実資は『小右記』において「恪勤の上達部」と痛罵しています。寛仁4年(1020年)には大納言となり、大臣就任まであと一歩のところまで昇ったものの、道長の子頼通・教通兄弟に超越され、また90歳という異例の長寿に恵まれた実資が大臣の座に居座り続けたため、大臣就任の望みは果たせませんでした(追記)。

 

斉信の実子は母の身分が低かったためか早くに仏門に入り、養子の経任(実資の甥)が大納言、経任の養子公房が参議となったものの、その後は公卿に昇る者もなく斉信の家系は消滅しています。また、斉信の弟で養子になった公信(権中納言)の家系は鎌倉時代に学者の家となって法住寺家と称しましたが、南北朝時代に断絶しました。なお、道長の子長家は、最初の妻(藤原行成の娘)に先立たれた後、斉信の娘を後添えに迎えたのですが、これが原因となって斉信と行成の関係は悪化したようです。

 

[追記]

以前の記事で、藤原顕光が左大臣を辞任するのでは、という噂が流れた際に藤原道綱が大臣就任を望んでいることを聞きつけた藤原実資が、あり得ないと一刀両断したことを紹介しましたが、その時に斉信も大臣就任を望んでいると知った実資は、「驚奇無極、今遇狼藉之代、濫成非道之望歟」と『小右記』に記しています。そこまで言うか、とツッコミたくなるほど強烈な罵言ですが(もっともこの人は万事この調子なのだが)、彼にとって斉信は大臣になれるような出自ではなかったということのようです。しかし、斉信の父為光は摂政/関白を務めた伊尹・兼通・兼家の弟であり自身も太政大臣に昇っているので、その子である斉信は大臣の十分な有資格者であるように思われます。それにもかかわらず実資がこのような憤懣を日記に書かずにはいられなかったのは、本来であれば藤原氏の嫡流は実資の祖父で摂政関白太政大臣を務めた実頼の小野宮流であったのに、天皇の外戚の地位を得られなかったため、その地位を得た師輔(実頼の弟)の九条流に取って代わられたという背景があり、自ら小野宮流の嫡流を任じ、その意識が過剰なまでに強かった誇り高き実資からすれば、斉信は傍流である九条流のさらに傍流であって、そのような者が大臣を望むのは僭上の沙汰としか思えなかったからなのでしょう。