本記事は、2016年7月に投降した記事に補訂を加えたものです。

 

藤原顕光は藤原兼通の長男で、道長の従兄にあたります。無能な人物であったということで、官位の昇進も7歳下の弟朝光の後塵を拝していました。それでも父兼通が関白となるとその威光により中納言まで昇った(このとき朝光は大納言)ものの、兼通の死後は昇進がストップしてしまいます。ところが、長徳元年(995年)に天然痘の大流行等により彼の上席の公卿(朝光を含む)が次々と死亡したため、その空席を補充するために行われた人事異動で大納言に昇進します。そして、この異動で右大臣として廟堂の首班となった藤原道長が翌年左大臣に転ずるとその後任の右大臣に任ぜられ政権ナンバーツーとなりました(もっとも全く実権はなかったのだが)。

 

道長が顕光をこのように高い地位に就けたのは、顕光が無能で自分の地位を脅かす心配がないと判断したことによるのでしょうが、政敵である甥の伊周隆家兄弟との対抗上、父兼家と犬猿の仲であった兼通の子顕光を味方に取り込んでおくという狙いもあったと考えられます。もっとも、顕光があまりにも失態を繰り返すため、「至愚之又至愚也」とまで罵倒しています。頭痛の種だったようです。

 

長和5年(1016年)、三条天皇が退位し、道長の外孫敦成親王が皇位を継承(後一条天皇)すると、三条の皇子敦明親王が皇太子に立てられます。敦明は顕光の娘延子を妃として敦貞親王を儲けていたので、顕光は将来の天皇の外戚となるチャンスを手にしたかに見えました(ただし、このとき顕光はすでに73歳になっていたのであるが)。ところが、翌年三条上皇が崩御すると、敦明はあっさり道長の軍門に降って皇太子を辞退してしまいます。すると道長は、敦明に小一条院という尊号を奉って上皇に準ずる待遇とするとともに自分の婿に迎えるという懐柔策に出ます。これに応じて敦明は延子の元を去り、悲嘆した延子は程なく世を去ってしまったため、顕光は道長を恨んで呪詛させたということです。

 

それでも、顕光は、左大臣(摂政就任に伴い辞任した道長の後任)として出仕を続け、相変わらず失態を犯して道長から罵倒されたりしながらも(なお、顕光が儀式において失態を重ねたことについては、その多くが道長関連のものであることから、道長への牽制の意味を込めて意図的に行ったのではないかとの指摘がある)、78歳で天寿を全うするまで25年の長きに渡り大臣を務めあげました。ところが、顕光の死後程なくして、小一条院(敦明親王)妃寛子、皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)妃嬉子、三条天皇中宮妍子と、道長の三人の娘が相次いで亡くなると、顕光の祟りとして恐れられ、彼は「悪霊左府」(「悪左府」とお間違えなきように)と呼ばれるようになりました。

 

顕光の嫡子重家は若くして出家遁世してしまい、彼の子孫から堂上家は出ていませんが、徳川譜代の家臣で江戸時代に13の大名家を数えた本多氏は顕光の子顕忠の子孫と称しています(昨年(2023年)の大河ドラマ『どうする家康』にも登場した本多忠勝や本多正信も顕光の子孫だということになる)。但し、この顕忠という人物は尊卑分脈には記載されているものの、後世に加筆された疑いが強く、実在したのか、実在したとして顕光の子であったのかは定かではありません。それゆえ、本多氏が真に顕光の子孫であるかは不明というほかありませんが、敢えて顕光のような世評の芳しくない人物を始祖とする動機付けは乏しいことを考慮すると、子孫ではないとしても何らかのつながり(例えば顕光の領する荘園の荘官等)はあったのかも知れません。