藤原妍子は、道長と倫子の次女。寛弘7年(1010年)皇太子居貞親王に入内し、寛弘8年(1011年)居貞が皇位に就くと(三条天皇)、長和元年(1012年)中宮に冊立され、その翌年に三条の皇女禎子内親王を産みました。当時、三条天皇と道長の関係が悪化しており、妍子が皇子を産むことで三条との関係が修復されることを期待していた道長は、皇女誕生に露骨に不機嫌な顔をしたそうです(これに対し、実資は「天の為すところ如何せん」と嘆息している)。三条との間に儲けたのは禎子のみで、皇子を産むことはありませんでしたが、禎子は、後朱雀天皇の中宮となって後三条天皇を産み、その皇統が現在まで続いています。なお、妍子は、派手好きのパリピ(笑)で、度々贅沢な宴会を開いて実資を憤慨させています。

 

藤原威子は、道長と倫子の三女。寛仁2年(1018年)甥(姉彰子の子)の後一条天皇に入内し、中宮となりました。これに伴い、三条天皇の中宮だった妍子が皇太后に転じ、先に大皇太后となっていた彰子と併せて「一家三后」という空前絶後の事態が現出し、道長の栄華は絶頂を迎えました(彼が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだのは威子の立后の饗宴の場において)。威子は、後一条との間に二人の皇女(章子内親王と馨子内親王)を儲けたものの、皇子を産むことはなく、また、章子と馨子は、それぞれ後冷泉天皇と後三条天皇の中宮となったものの、いずれも子宝には恵まれませんでした。

 

藤原嬉子は、道長と倫子の四女(末子)。治安元年(1021年)甥(姉彰子の子)の皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内し、万寿2年(1025年)に敦良の子親仁(後の後冷泉天皇)を産んだものの、その直後に赤裳瘡で急死してしまいました(後冷泉の即位後に皇太后を追号された)。道長と倫子が悲嘆に暮れたのはいうまでもありません(道長は、嬉子の死後初めて参内した際、彼女が居所としていた登花殿を通り過ぎるときに号泣したとのこと)。嬉子は、妍子と嬉子とは異なり、天皇の皇子を産み、その皇子は天皇(後冷泉)となったのですが、後冷泉は正式な后妃との間に子がなくその皇統は断絶しました。